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 彼が座学を嫌うのは昔からで、逃げて回るのも珍しい事ではなかった。だから暫くの間ユシライヤは彼の部屋の前でエルスが戻るのを待っていた。しかし、何もせずじっとしている時間は彼女自身を苛立たせ、結局いつものように城内を探し回ることになったのだ。彼が普段逃げ回るところを何周かして、他に足を踏み入れそうな場所は無いかと到るところに行った。
 だが、他の騎士が報告してくる様子も無く、彼の大好きな間食の時間が訪れようとしてもエルスは姿を現す事はなかった。
 こんなに探して見付からない事は今までには無かった。もしかすると城の外に出られてしまったのではないか。彼女の不安は悪い方向の予測へと変わっていき、あの時すぐにでも彼を追い掛けなかった事を後悔した。

 城門前で見張り役をしていたのは、彼女と同い年の騎士であるティリーだった。ユシライヤにとっては正直あまり顔を合わせたくない人間のうちの一人だ。

「おい、どうしたオトコオンナ。ついに愛しのエルス様に用無しって言われちまったのか?」

 こんなふうに、いちいち嫌味を含んだ言い回しをしてくるので面倒なのである。

「そのエルス様だけど、こっちには来ていないのか」
「はあ? 来てねえよ。見付かんねぇのはてめーの責任だろうが。あの王子のお守りなんて、一番楽な仕事だと思うけどな」

 自分の事よりも彼を悪く言われるのは気に入らない。だが、今のユシライヤにはどんなに悪態をつかれようと言い返す気は無かった。
 もうその場に用は無いと判断し、肩で息をしながら、少しでも可能性のある別の場所へと駆けていく。
 城内でもまだ一ヵ所だけ確認に訪れていない所があったのを彼女は思い出した。

* * *

 シェルグは切っ先に滴る血を振り払い、相手の次の動きに備えた。
 何度か傷を負わせたが、獣の猛攻は止まらない。むしろその勢いは増し、長い鉤爪を振り上げて、怒りに狂ったかのように襲い掛かってくる。
 相手の攻撃をすべて避けるも、シェルグは反撃の態勢には移れない。長期戦で彼のほうが体力を奪われていた。

 ふと、シェルグが一呼吸を置いた時だった。張り詰めていた気が緩んでしまった、ほんの刹那の事。彼は敵に対抗する唯一の手段であるその剣を、誤って落としてしまった。
 標的から片時も外れる事の無かった緋色の視線が、その隙を逃すはずは無かった。剣に意識を向けられたシェルグは、相手への反応が一拍遅れてしまったのだ。

「兄上っ!」

 そう叫ぶだけでエルスは精一杯だった。
 次の瞬間に彼の眼に映ったのは、慕う叔父が獣の攻撃を受けて倒れ込む姿。飛沫を上げた赤色は、碧々と繁った森の中に自然と溶け込むはずは無かった。

 獣は動かなくなった獲物を放置し、声を発した人間−−新たな標的の方へと眼を向けた。

 恐ろしい魔獣が、凶器に鮮血を残したままに、今度は自分へと向かってくる。
 その状況がエルスにとって何故か客観的、そして現実感からかけ離れているかのように思えたのは、恐怖に捕らわれた自分の体が不思議と動かないことに気付いたからだ。
 後方は崖、逃げるのは困難だ。しかしそれ以上に彼を悲観させたのは、彼が自分を護る手段を何一つ持ち合わせていない事だった。

 猛る獣の咆哮と、降り下ろされる脅威。
 ようやくエルスは両脚を動かす事が出来たが、契機となる時は既に越えてしまっていた。
 そして、彼の視界は闇に染まった。

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