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 ベルダートは海に面している国であるにも関わらず、他国との干渉を望まなかったせいだろう、外交の為の港が存在しなかった。その為か、国民の大半は海を生活の一部と考える事は無かった。国外どころか城外に出た経験に乏しいエルスも、無論その例に漏れない。
 大きな船体が波の上を進むのが楽しくて、甲板に出て景色を堪能していたエルスだったが、寒さに耐えきれなかったのと、気持ち悪くなってきたのとで、時間のあまり過ぎないうちに客室に戻ってきた。今は片隅の方で、毛布を掛けられて横になっている。
 他の乗客は彼らに気を遣ってか、その周囲には近寄らなかった。それをある意味での好機だと受け取ったファンネルが、ようやく口を開く。もし獣が人間に通じる言葉を話すと知られたら、周りはどんな反応をしただろうか。

「これから向かうのは、アストラという大陸。ギラの紋章を司るイースダインだ」

 彼の言う場所を皆に示すべく、ユシライヤが地図を開いた。アストラはフリージアの北北西に位置する緑に囲まれた地で、一年中過ごしやすい気候の国である。フリージアからは、船で数日の距離がある。
 地図に示されるアストラの大陸の場所を指差しながら、ユシライヤはエルスに向けて言った。

「先はまだ長いですよ。こんな所でくたばってたら、これからは耐えきれなくなるかもしれませんよ?」

 ファンネルは珍しく彼女の言い分に同意し、頷いた。

 穏やかに進行していた船内に、突如、海をも穿つような轟音が鳴り響いた。船体が大きな揺れを起こし、乗客が悲鳴を上げながら一気にエルスらの居る端の方へと流れ込んできた。エルスは身体を押し出され、嫌でも目を覚まさなければならなかった。
 船は波の上で不安定に揺れ、しばらくして停止した。異変を感じた乗客のうち何人かが、急いで甲板に出ていった。エルスらもそれに続いた。
 彼らを待ち受けていたのは、黒色の一隻の艦と、それによって進行を妨げられているという悲観的な現実だった。

「あれは……まさか」

 と、ターニャが耐えきれず恐怖を口にした。相手の正体は判らなかったが、彼女の持つ呼応石が一番に反応していたのだ。紋章術の行使によって輝きを示す石。しかし、その色彩までをはっきりと識別出来るようなものではなく、鈍い光を放ち続けるのみだった。
 訝しむべき反応だ。本来、天上人や魔獣と呼ばれ恐れられるオルゼンには、六種のうち一色の特性の紋章しか持たない。例外となるのは、ミルティスで生を受けた者か、あるいは−−

 ターニャが考えを巡らせている猶予は無かった。相手の次の攻撃が、またしても彼女らの船を襲った。相手の詠唱は聞こえないが、おそらくそれに呼び出されて、空から球のような形状の炎が無数に降ってきた。乗客は後退し、しかし逃げ道は無く、皆が姿勢を低くし、咄嗟に腕で頭を覆った。
 ファンネルが舌打ちをして、甲板の中央に移動した。彼が詠唱を紡ぐと、船の上に覆い被さるようにして、弧を描いた壁が張られた。炎の球はそれを突き抜ける事は出来ず、海へと落ちて消えていった。
 思わぬ防衛に、相手は一瞬攻撃の手を休めた。しかし、それほど時間が経たないうちに、再びその唇からは別の詠唱の言語が紡ぎ出されていた。すると、静かだった海は不自然に渦を巻き、エルスらの乗る船をその中に巻き込んで、波の上を踊らせたのだ。
 乗客たちの悲鳴が、黒き装衣を纏った少女の耳に心地よく響いている。その中に紛れ込んだ、狙う者の悲痛な顔を想像して、彼女は思わず笑みをこぼした。

「決して逃がさない、ユリエ様の器。絶対にあなたを捕らえる……」

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