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 シェルグの嘲りがエルスの耳に届いているのかは、ユシライヤには判らなかった。だが何れにしろ、あの男の口を自由にさせておけないと確信した。普段通りの握力は出なかったが、彼女はなんとか武器を手に取り戻し、シェルグに斬り掛かっていった。
 しかし、彼はユシライヤに戦い方を教えた人間でもあった。教授通りの剣術を繰り出す騎士は、シェルグにとって愚かにすら見えた。あっさりとユシライヤの攻撃を躱し、肘をその利き手に打ち当て、武器を放らせた。
 一方のユシライヤは苦痛と戦っていた。剣を握るべき手が、痛む胸に向かう。意識も朦朧とし始めた。だが、蒼白の顔で倒れているエルスを見ると、「前を向かなければ」と、決意するのだ。霞んだ目で、なおもシェルグに立ち向かおうとしては、こちらから一撃も与えられないまま、反撃が加えられ、緑の大地に身体を打ち付けられる。
 それが幾度続いただろうか。起き上がるのも困難になったユシライヤの耳に、もしくは脳裏に、響くものがあった。

『大丈夫だよ。だって……僕の身体、平気じゃないか』

 と。声の主だと思われる者を、かろうじて見据えて、ユシライヤは安堵した。

 エルスは、まるで寝台で眠りから目覚めたかのように、目蓋を擦りながら上体を起こした。そして辺りを見回し、従者が横たわっているのを、何よりもまず心配した。

「ユシャ……どうして」

 彼の記憶は、叔父と従者が対峙していて、それを自分が止めようとしたところまでが鮮明なものだった。その先の事は、覚えているようで、思い出したくないものでもあった。

「やはり、か」

 シェルグがエルスの元へ近付いてくる。手には血に塗れた短剣を携えて。エルスは思わず後退したが、その脚が滑り、後ろに倒れ込んでしまった。下を見ると、草地は赤く染まっていた。
 エルスは恐怖を抱いた。慕っている叔父に対して。

「お前の身体は普通ではないな。決して死を知る事は無い。お前はそれを、幸福だと思えるのか?」

 シェルグは吐き捨てるように言い、その場を立ち去った。返答を求めない問い掛けだったのだ。
 殺されるのかもしれない、という最悪の予感は外れた。だが心は決して平穏ではなかった。

 エルスは立ち上がって、従者の無事を確認した。まだ自力で歩くのは不可能のようだが、苦渋からは解放された表情をしていた。彼女を担いで、一人の時よりも遥かに重い一歩を踏み出した。
 しかし、彼は何処へ向かうのか。いずれ帰ろうと心を寄せていた王城には、母はもう居ない。帰りを待つ叔父も、もう居ない。
 耐え難い孤独が、彼を立ち止まらせる。これでは、理由も名前も忘れ去られてしまった、ただの一人の少年だった。

* * *

 ターニャの呼応石が、どこか近辺で使役された紋章術に反応を示した。尤も、それは白色の光であったので、出処は判りきっている。

「エルスさんの、オルゼの紋章が……!」

 宿主の傷病を僅かな時間で完全な治癒へと導くのが、オルゼの紋章術だ。度合いは判らないにせよ、エルスの身に何かが起こったという事実だけは明らかだ。

「でも、ターニャさん。僕たちがベルダートに入ったりなんかしたら……」

 駆け出そうとするターニャを、エニシスが止めた。万が一存在が怪しまれてしまったら、エルスらとの合流も困難になるであろう。特にエニシスに関しては、紋章を宿しながらも紋章術の正しい使い方を知らない。身に危険が迫れば、うまく逃げられるかどうか判らない。かつての森での出来事も繰り返したくない。
 ターニャは堪えた。今は祈る事しかない。守るべき者に、せめてこれ以上の苦しみが訪れないようにと。

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