30

 エルスと別れそれぞれの部屋へ戻り、寝台に向かう途中で、ターニャは不意に立ち止まった。

「ターニャ。こちらへはいつ到着するんだ」

 ターニャの頭の中に聴こえているのは、ミルティスで待機する創始者の声だ。オルゼの紋章の宿主を無事保護した事が、彼にも伝わったようだ。
 意識を疎通させ、ターニャは彼にだけ聴こえるように返答した。

「はい。明日にでもイースダインへ向かえます。しかし、フレイロッドと連絡が取れないのです」
「それについては俺が指示を出したか」
「……いいえ」
「お前にはお前の成すべき事がある。対等な意識を持つな。他人への感情はガーディアンには不要だ」

 創始者が念を押すようにそう言い切って、通信は絶たれた。
 彼女らには、感情の歪みは決して許されない。
 ターニャの使命は、オルゼの紋章を無事ミルティスへ送り届ける事、そして、宿主であるエルスを紋章の緊縛から解放させ、彼を普段通りの日常に戻してやる事だ。その日常に、ターニャという存在は含まれていない。ならば、彼の中に自分という存在を残すべきではない。
 ターニャにとって、エルスとは救うべき人間なのであり、“仲間”などではないのだ。


 翌朝、四人が宿を出ると、外は一層冷え込んでいた。動き出すには億劫な程だが、まるでそれを感じさせないかのように、ターニャは今後の行先を示した。

「イースダインへはここから西、数時間で辿り着くと思われます。時間が惜しいです、今すぐ出発しましょう」

 彼女が胸に提げた呼応石は、また微かな反応を見せていた。しかし、ターニャはその足跡を追おうとは言わなかった。昨晩の彼女の様子を見たエルスは、当然疑問を投げ付ける。

「あのさ、ターニャの仲間−−名前、なんだったか忘れちゃったけど、探さなくて良いのか?」
「彼については他の同族が対応します。私たちはイースダインへ向かわねばなりません」

 会話の内容を理解できないユシライヤとエニシスが、二人に視線を向けた。

「でも、放っておけないって言ってたじゃん」
「……私は、あなたを救う事を何より優先すべきだと判断したのです」
「あの、二人だけで話さないでくれませんか」

 耐えきれず、ユシライヤが説明を求める。
 エルスは僅かに躊躇ったが、ターニャが止めなかったので、彼は昨晩彼女が一人で外を出た事を含めてすべてを明かした。

「僕は……助けたいです。皆さんが僕を助けてくれたみたいに」
「確かに、そちらに向かわない理由は、特に有りませんしね」

 一通り状況を理解した二人はそう言った。

「そうだろ? なあターニャ。もし、僕の願いを叶えてくれるのも僕を救うことになるなら、そいつを助けに行こうよ」

 エルスの言い分には、反対する者は居なかった。ただ一人戸惑うターニャを除いて。

「何故、そこまでして頂けるのですか? あなた達は彼を知らないのに」
「ターニャが辛そうだからだよ」

 指摘された表情が、僅かに緩んだ。間も置かずに、事も無げにエルスはそう言い込めた。
 その先、何も言葉を返せずにいるターニャを先導するかのように、エルスは一歩を踏み出す。とは言え、その歩む方向は未だ定められてはいない。

「ほら。ターニャが何も言ってくれないと、どこにも行けないよ」

 そう言って、エルスは手を差し出した。無理矢理引こうとはしない。待ち受けているかのような手だった。

「……有難う、ございます」

 彼の手に触れた時、自分の手が冷気に晒されてだいぶ体温を奪われてしまっていたと、ターニャはようやく知ったのだ。


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