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熱さが、全身を駆け巡っている。この感覚はあの時と同じだ。リーベリュスを捕らえていた男に、炎を浴びせた。母を奪い返す、その一心だった。しかし彼女はそれを放出させる方法を知らない。燻った戦意は、行き場の無いまま静かな音を立てる。標的は目の前に居るのに。感情だけはすぐにでも散らせるのに。熱い。このまま、自分の方が焼滅してしまいそうな感覚−−
「ユシライヤ!」
少女の呼び掛けが、ユシライヤの耳に届いた。
「ターニャ……さん」
「貴女のところだったのですね。来て良かった」
すぐ側には、ファンネルとエルスも駆け付けていた。仲間の姿を見たことでユシライヤは正気を取り戻した。
その様子にターニャも胸を撫で下ろす。だが、改めて現場を見れば彼女の眼の色は変わった。
「彼は私が治療します! ユシライヤ、貴女は下がって……!」
一目では判断出来なかった。彼はまだ生と死の境を彷徨っている。そう思いたかった。ターニャは倒れているエニシスに手を翳す。ユシライヤはその場から動かず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
間も無くしてターニャは手を休めた。辺りを照らしていた治癒術の光は、温もりと共に消え失せた。
「どうしたんだ?」
「……術をかけるべき場所が、見付からないのです。魂が、見えない……」
問うたエルスに理解出来る答えは返ってこなかった。しかし、彼女の表情やユシライヤの様子から、彼は予測してしまった。
「それって……し、死んじゃった……ってことか?」
ターニャは何も答えない。行き所を失くした彼女の手は、力無く下ろされたまま。
確認するのが、肯定するのが、怖かった。ようやくエルスは少年に近付いた。眠っている−−それがいずれ覚める眠りではないのが判った。彼は何かから解放されたのかもしれなかった。その額からは、異端の印が跡形もなく消え去っていたから。
「理解しましたか? もう貴方たちにはそれを扱えません。さあ、こちらに渡しなさい」
嘲るような笑みを浮かべながら、モニカが歩み寄る。彼女の意図が読めない。だが無論譲る気など無い。ターニャがエニシスの身体を抱え、ユシライヤは武器を構える。ファンネルも既に抵抗の術は整っていた。
モニカが何かをこちらに翳した。すると、詠唱も無しに彼女の手元からは再び黒い渦が巻き起こる。猛烈な旋風が、周囲のあらゆる光彩をも呑み込んだ。僅かな月明かりさえ、その瞬間は存在を許されなかった。何も見えない。立っているのが限度だ。
「……これは……」
一切の明度が欠落してしまった闇の中で、ファンネルがあることに思い至る。しかし今となっては為す術もない。悔いを刃に変えられるなら、過去の自身を穿つだろう。今の彼にはそれ以外の手段が無かった。
経過したのは、ほんの十数秒。風が止み、目を開くと、何事もなかったかのような静閑な夜の景色に彼らは立っていた。
しかしターニャは、持て余した自身の腕を見つめ、目を疑った。そこに居たはずの者が消えていた。辺りを見回しても、彼の姿は−−無い。
一人平然としている少女は、耳に手を当て、エルスらではない『誰か』に向かって話し始める。
「フラン。聴こえますか。失敗しましたが、別の収穫があったと言っておきましょうか。私は一旦彼女のところへ戻ります。この先は任せます」
それだけ言ってモニカは背を向けた。
「逃すか……!」
感情に身を任せ、立ち向かったのはユシライヤだ。しかしその衝動は、モニカを防護する見えない壁によって、いとも簡単に弾き返される。
モニカは振り返り、砂にまみれた醜体を見下げた。
「仮初めの証で何が出来ますか。貴女が紋章に呑まれそうになる様は、実に滑稽でしたよ」
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