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 何も無いはずのその場所に、エニシスは揺らぎを感じた。初めは地震か何かだと思ったが、程なくして誤認だと気付く。
 大地に立っている感覚が、無い。まるで浮遊しているかのような。しかしそれとは反して、周囲からはのし掛かるような圧力があった。ついには起立することさえ儘ならず、地の上に両手と両膝を付いた。酷い目眩だ。天地も左右も判らない。彼の見ている世界は、歪んでいた。

 ただならぬ事態を感じてユシライヤは少年の元に駆け出す。刹那、彼女がエニシスの背後に見たのは、一人の少女の姿。夜陰に紛れ込む黒色の衣装。人の気配などしなかったのに、彼女は突如としてそこに現れた。

「お前は……」

 見覚えのある姿だった。装束は違えども、その身に纏う異様な空気は違わない。黒牛を操る少女。海上で船を襲った少女。戦う為に造られた存在。それらと同一であるようで、同一でない。

「ようやく会えましたね。貴方たちが……私から奪った。せめてユリエを、父さまを返しなさい……!」

 彼女は、ユリエ教の聖堂で出会った少女−−モニカ。こちらの意思など問わない。憎悪と共に何かを唱え始める。
 彼女の周囲に黒い渦が巻いた。煽られた砂塵が彼女を取り巻く。今、ターニャやファンネルは居ない。ユシライヤにはあれが何をもたらす術であるか想像もつかない。それを防ぐには、術式が完成するより前に詠唱を止めさせるしかない。ならば素早く動ける自分が彼女の前に出るべきだ−−瞬間的に判断したユシライヤは、迷わず術者の元に駆け出していた。

 その光景が、エニシスには漸進的に見えていた。まるで瞬きの度に、時間が切り取られてゆくかのように。彼が脳内で変換して目前に映し出した情景には、現実とは別の映像が入り混じっていた。
 激しい動悸。自分は、あの術を知っている−−そう感じた瞬間から、断片的な記憶の羅列が、彼を支配していった。忘れていたはずの過去に遡りながら。

「ユーシェリア。行っては駄目です」
「……!?」

 不意に昔の名前を呼ばれたので、ユシライヤは一瞬歩みを止めた。振り返った先には、誰も居なかった。何故なら彼は既に、彼女の傍らに駆け付けていたから。
 ユシライヤはエニシスに押し出された。斜面で受け身を取れず、幾らか離れたところにまで転がっていく。思わぬ衝撃で、目がくらんだ。彼女がようやく身体を起こして辺りを見渡すと、身を呈した少年が、少女の近くで地に伏せていた。
 すぐさま駆け寄るユシライヤ。俯せに倒れている少年。外傷は見当たらないが、皮膚が青褪めている。その目蓋は開かない。

「……違った。ここに父さまは居なかった。残念です。無駄に消費してしまいました」

 手元の道具を凝視しながら、モニカは失意の表情を浮かべた。ユシライヤには疑問だった。何故そんな顔をするのだろう、彼を手にかけた女が。

「……エニシス」

 名を呼べば、返事が返ってくると思った。だが少年はぴくりとも動かない。ユシライヤの思考が、現実にようやく追い付いた。彼はモニカから自分を庇って犠牲になったのだ。

 あの時、エニシスは何故、あの名でユシライヤを呼んだのだろう。父の居ない彼女のその名前を知っているのは、母リーベリュスと、兄ロアールと、他に誰が居ただろうか−−わからない……いや、思い出せない。彼はあの瞬間、ユシライヤ自身の知らない記憶を思い起こしていた。
 思い残すことはない−−彼はそう言っていた。もしも彼の唇が開いたら、同じことを言うだろうか。過去を取り戻した今でも。

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