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 隣室を覗けば、ルディアとロナが布を被って寝ている様子が見える。彼女らに気付かれなければ、ここを出られる。幸いこの家の戸口は鍵の付いた扉ではないのだ。二人はルディアらに何も言わず、家を抜け出すつもりだった。彼女らが快くラードラを見送る訳が無いだろうから。無論、心が痛まないと言えば嘘になるが。

「やっぱり行ってしまうんだね」

 エニシスの背中を突き刺す声。引き止めたのはルディアだった。寝ているふりをしていたのだ。彼女は日中のエニシスの様子から悟っていた。

「お友達が心配なのはわかるけど、あんた……戦えないだろう?」

 ラードラは心優しい性格だった。動物も虫も植物も、どんなに小さな生き物も、そして魔獣相手にすら、傷付けるのは嫌だと言って武器なんか手にしたことがなかった。

「ルディアさん。もし僕が本当にあなたの弟だとしても。あなたが知るラードラと僕は違うんです」

 ルディアが彼の生き方を想像し否定するには、あまりにも長く離れ過ぎてしまった。彼女にだって、エニシスの背負う弓が見えていない訳ではない。加えて、少年は額に紋章を宿した『天上人』だ。彼はもう、過去のラードラではない。

「そうだね……あんただって大人になって……変わったんだ。あたしは過保護なだけかもしれないね……」

 過ぎ行く時が彼女に刻んだのは、弟に募る愛情だけではない。ラードラが戻って来ても、二度と同じ時間には戻れない。皮肉にもその姿形だけは、あの時とほぼ変わらないけれど。

「ごめんなさい。僕は……もう行きます。僕なんかに優しく接してくださったこと……本当に感謝しています」

 そう言って、深く礼をする。最後まで余所余所しかった少年は、ついにルディアに背を向けた。

 その後ろ姿が見えなくなっても、ルディアは扉の向こうの彼をずっと見つめていた。
 本当は、彼が本当のラードラではなくても良かった。別人だとしても、弟が帰ってきたのだと思い込んでいたかった。彼女はラードラの行方がわからなくなってから、長い間苦しんだ。かつての恋人には、「俺よりも弟が大切なのか」と、呆れられて見捨てられてしまった。母もきっともう長くない。心の拠り所は、いつか帰ってくるかもしれない弟の存在だけだった。そんな彼女に、エニシスは太陽のように現れた。

「ずっと一緒に居て欲しかった……でももう、あんたは帰ってこないんだろうね……」

 夜の帳を縫い歩く彼に、せめてあの時のラードラと同じような悲劇が起こらないように、ルディアは祈ることしか出来なかった。

* * *

 エニシスは一度も振り返らなかった。ユシライヤはと言うと、涙を拭うルディアの姿が目に焼き付いて離れない。

 彼に気を遣わせてしまった、とユシライヤは少し後悔していた。もし自分の話をあの時にしていなければ、エニシスはこの地で家族と共に過ごす事を選んでいたかもしれないのだ。ユシライヤが同じ立場なら、きっとそうしていただろう。
 それなのに、エニシスの決断を振り切ることは出来なかった。単純に、ユシライヤは嬉しかった。彼を待っていた家族を思えば、身勝手な感情でしかないと言うのに。

 −−エニシスと初めて会った日。「リーベリュス」と、背中に抱えた夢うつつの少年の口から、母親の名が出てきてユシライヤは戸惑ったものだ。今思えば何のことはない。彼も同じレデ族なのだから、失われた記憶のどこかにリーベリュスの存在が有ったのだろう。しかしエニシスは、その名を口にした覚えすら無いらしい。
 エルスの護衛騎士として生きる事で、記憶の片隅で埋葬していた自分の過去。ユシライヤはエニシスと居ると、それを掘り返されてゆく気がするのだった。

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