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 娘の声に気付いたリーベリュスが、慌てて振り返る。隣り合う男性も同様に振り向いた。赤い長髪をなびかせる後ろ姿から想像していたものとは違う、その鋭い眼差しに、ユーシェリアは思わず後退する。

「……ほう」

 男が愉悦にも似た懐疑を向けると、

「ユーシェリア……どうして!? 戻りなさい、家に……彼のところに……!」

 隠し通すつもりが、いざ娘を目の前にすると偽ることが出来なかった。そのリーベリュスの発言で、男がとある憶測を立てる。

「レデの血を汚したか、リーベリュス。まさかとは思うが、ユリエスとの混血か?」

 リーベリュスは答えない。
 が、それを待たずして、歩み寄る長身の緋い影が、少女に覆い被さった。男は無抵抗の存在を凝視する。鮮やかな血のような髪、潤んだ翠の瞳、無垢な白肌。この母親譲りの美しさを自分のものには出来ないというのが口惜しい、男は思った。

「不安定な紋章の存在は、我々にとっても当事者にとっても、善とはならぬ……それを知りながら望んだと言うなら、愚かとしか言いようがない」

 幼い体躯を這っていた男の右手が、その首筋に伸びた。恐怖を口にしようとしたユーシェリアだったが、それは叶わない。喉元にかかる圧力が、声はおろか呼吸まで奪っている。

「やめて……やめなさいラーシュロフ! その子には手を出さないで……!」

 男−−ラーシュロフの行為は、リーベリュスが彼への敬意を忘れるのに充分過ぎた。彼の背に掴み掛かった彼女は、いとも容易く振り払われてしまったが。

「一族の定めから逃れた者が、戯れ言を。生かしておけどもこれは絶望しか生まない。種を孕む前に摘み取っておかねばならん」

 ユーシェリアは拘束に耐えながら、意識だけは何とか保とうとしていた。霞んだ視界の中で、俯せに倒れるリーベリュスの姿が見えた。

 苦しい。死ぬのかもしれない。孤独に耐えて、痛みに耐えて、今まで何の為に生きてきたのか。母のように強くはなれなかった。母の存在があったから、その日常さえ壊れなければそれで良かった。だが男は、その些細な望みまでも打ち砕こうとしている。
 母が決して忘れるなと言った−−願うことすら、信じることすら奪おうというのなら。

(世界には、リーベリュスと……私だけで良い……!)

「な、何だっ!?」

 異変を感じ取ったラーシュロフが拘束を解く。そして二度と『それ』には触れようとしなかった。いや−−触れられなかった。右手の感覚が無い。肘から下が、炭のように黒い。一瞬にして痛みすら奪われてしまった。

 退く男の顔だけが、ユーシェリアには見えていた。全身が燃えるように熱く、周囲への聴覚も視覚も、遮断されているかのようだった。自分自身が何をしているのかさえわからない。
 それがどれだけ続いただろうか。何かに阻まれたのか、身体を覆っていた熱が急激に冷めていったかと思うと、そこで意識が途切れた。

 時刻も、場所も、わからない。
 だがユーシェリアが次に聞いたのは、知っている人間の声だった。

「絶対に、大丈夫だからな……! 俺が助けてやる。あんな奴のとこになんか、行かせるか……!」

 どうやらその少年は、自分を背に抱えて走っているらしい。仮定に過ぎないのは、ユーシェリアの意識もまた明確ではないからだ。微かな温もりに揺られながら、再び彼女は目を閉じた。
 だから、その声を聞いたのは夢か何かだったのかもしれない。ユーシェリアには到底、現実として信じられないものだった。彼が−−自分に、優しい言葉を掛けてくれたなんて。

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