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 しかしその手は、二度と彼に触れる事は無かった。彼女の身体は力を失い、卒倒した。突然の事だった。
 横たわる少女に近付いたのはファンネルだ。意識も、呼吸も、心音も無かった。もう少女は動かない。糸の切れた操り人形のように。
 彼女が壊れたのを切っ掛けとしたか、黒牛はもがき苦しみ、元の姿に戻った。強化術が解除されたのだ。エルスらが最初に見た時の彼よりも小さく、弱々しく見えた。よく観察すると、片方の後ろ足を引きずりながらも何とか歩いて、ヘレナに近付いて行く。

「戦う為に、造られた……か」

 彼女がそう言っていたのを、ファンネルがそのまま繰り返す。
 恐らくヘレナは直前に、戦意を失くしていた。争いの為に造られた道具からその意思が失われれば、製作者にとって彼女がどんな存在となるか。ゼノンがどこまで彼女らに『組み込んだ』かは判らない。明確なのは、もうヘレナは抗う必要が無いという事だけだ。
 旧友とは、解り合えない事が多かった。これもその一つだ。彼を止める方法は無かったのだろうかと、過去への後悔ばかり込み上げるが、それに惑わされて自身が歩みを止める理由は、ファンネルには無い。

「……先を急ぐぞ」

 それぞれに口惜しい思いはあるはずだ。それでもターニャは彼の道の上をなぞり行く。次にエルス、そしてユシライヤと続いた。
 エニシスは、そこに立ち竦んでいた。自分と似た境遇の彼女。しかし残されたのは、獣の方だ。主が動かなくなった理由を理解できない魔獣は、ヘレナの命令を待っていた。もし自分がエルスらと出会わなければ、同じ運命を辿っていたかもしれない。その光景に背を向けるまで、時間を要した。

* * *

 一行がカルーヌへ戻った時、村は夕暮れの色に染まっていた。村人たちは待ち望んでいた御使いの帰還を喜んだ。こちらから頼み込むよりも先に彼らはターニャを支えて、宿へ案内してくれた。
 今宵も宴は続く。ノーアの犠牲と彼女の儀式によってこの地の平穏が守られたのだと、村人たちは信じている。崇める天神は、彼らの虚構から解放されたに過ぎないというのに。
 しかしエルスらは、事実を告げるつもりは無かった。と言うより、ファンネルが認めなかった。他者の言葉よりも、幾らかの時を経た方が、この地に真実が伝わるだろうと。歓喜の笛と太鼓と歌声が、眠らない夜に響き渡っていた。

 夫にも何も告げずに、サジャは一人、王の間へ足を運んだ。自らの意思で再び訪れるとは思わなかったが、恐らく、活気に満ちた村の雰囲気から逃れたかったのかもしれない。あるいは、現実を未だ受け入れられないかだ。
 鉄製の開き戸は、いとも容易く開いた。贄を食んだ時には堅く口を閉ざしていたと言うのに。目前に現れる光景は、初めて予言を聴いた時のものと同じだ。中央の椅子に腰掛ける、骸の王。今となっては、その眼窩はサジャを見てはいない。何を問い掛けても、あの重くのし掛かるような声も発しない。それもそのはず、神は今、その身体には宿っていないのだから。
 捧げられた犠牲者の身体は、何処にも見当たらない。以前からずっとそうだった。だからこそ贄は転生に成功したのだと、言い伝えられてきたのだ。
 サジャは王の遺体をしばらく見ていた。不思議と、恐ろしいという気持ちは湧かなくなっていた。もう、二度と動かないように見えた。ノーアの居る日々が戻らないように。その人が生きていた時間は、遥か過去に終わっていたのだと。

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