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「う……っ」
全身を襲う痛みと、ひび割れる意識。前回を覚えてはいたが、脱力し、体勢を保てなくなって座り込んでしまった。先程の呼応術での疲労もあるかもしれない。
そんなターニャを気に掛けて、エルスが近寄る。しかし差し出した手は、彼女に握り返される事はなかった。
「……エルスさん。私への気遣いは不要です。私は、貴方を救う立場にあるのですから」
エルスを横切って、ターニャは未だ目を覚まさない雄鹿に寄り添った。少しでも彼の負担を減らせるようにと、治癒術をかけた。その姿を受け入れるべきだと、彼が望んだ結果なのだと、自身に言い聞かせながら。
儀式は無事終えた。石板にターニャの名前が刻まれているのを、ファンネルも確認済みだ。計画の中間地点をようやく過ぎたというところだ。ターニャを休ませた後は、三つ目の、最後のイースダインへと脚を運ばねばならない。
先導するようにファンネルが踵を返し、一行がその後に付いて行こうとした時。
「私を……どうするの」
ふと聞こえてきたのは、声を取り戻したヘレナの問い掛けだった。
「殺さないの? もう抵抗なんかしないわよ。でも残念ね。あなたたちがここへ来たことは、もう姉さんに伝達済みよ。私じゃどうにも出来なかったってこともね……」
殺すなどと、誰一人としてそんな意図は無い。ファンネルにもだ。この場所ではもう、何も起こす気は無い。
しかしヘレナは、彼らに語るのをやめなかった。
「役立たずは……要らないのね。私には素質が無かった。他の何かを従えて、強くさせる術しか使えない。自分は強くなれないのに。私は一人じゃ、戦えない。そうね……私を一人にしたんだから、あなたたちは私を殺したのと同じよ」
一方的なヘレナの言い分に疑問を呈したのはエニシスだった。
「ヘレナさん。戦う事だけが、生きる術でしょうか?」
「そうよ。あなたたちにはわからない。だって私は戦う為に父さんに造られたんだから。……姉さんだって妹たちだって、私を見下すのよ。父さんだって、弱いままじゃ見向きもしてくれない。失敗作だったって。おかしいでしょ? だったら、最初に壊しておいてくれれば良かったのよ! どうして私、今まで生かされてきたの!?」
勢いよくまくし立てるヘレナに、返せる言葉を持つ者はそこには居なかった。尤も、ヘレナが心から望んでいるのは、彼らからの返答ではない。
その空気を、ヘレナに対する反感と受け取ったのかもしれない。いつの間にかグラジオが立ち上がっていた。脚を震えさせながらヘレナの元まで必死に歩き、彼女を他から守ろうとするように、彼女に背を向けて、身構えた。
「……グラジオ」
ヘレナと同様、その魔獣も彼女と出会うまでは孤独だった。ヘレナを信じたから従っていた。たとえ道具として見られていても、共に居られるのならと。
そんな黒牛の意思をも、エニシスには読み取れてしまった。だから敵対する立場の少女にも、声を掛けずにはいられなくなっていた。
「あなたは……一人ではないですよ」
少年に敵意が無いのを悟ったか、黒い魔獣から威嚇の色が消えた。
陽の光に照らされて、グラジオの黒いはずの毛並みが、少し金色がかっている。彼の色がそういうものだと、ヘレナは初めて知った。長い間、共に居たというのに。
「あなた……すごく綺麗だったのね。もう少しだけ、側で見させてくれる?」
彼に感じた美しさは、剣に見えた角だけではなかった。強さだけではなかった。今は穏やかな瞳を、少女に向けている。ヘレナは、魔獣に手を差し伸べた。
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