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 言い返そうとして、ヘレナは自身に起きた異変に気付く。声が出ていない。聴力が失われたのではない。他の音は聴こえている。冷静になると、目の前の青年が引き起こしたのではないかと思えた。ヘレナは相手を凝視する。
 ファンネルが彼女から攻撃の手段を奪うにはそれで充分だった。指示を出されない獣は気力も失われてうつ伏せたままだ。長時間有効な術ではないが、だいぶ煩わしさからは逃れられただろう。

「ターニャ。暫く振りだろうが、俺の補助もある。余計な事を考えなければ、術は成功する」

 言われれば、ターニャは黙って頷き、鍵杖を握り締める。雄鹿と眼が合った。今、為すべき事こそが、彼を救う方法なのだと信じた。

「エルスさん達は、少し離れていて下さい。決して、陣の中に入ってはいけません」

 名を呼ばれた事で、虚けていた頭がようやく正常に戻った感覚だった。エルスには何か、ターニャに問い掛けたい事があったはずだ。しかしその機会も与えられず、事態は展開していく。
 ターニャとファンネルが詠唱を始めると、大地に光の円陣が張られた。エルスは従者に後ろから腕を引かれ、その場から離れる。円陣の光は術者と神獣を包み込む柱となって空を貫いた。その眩さは中の様子をも見通せない程だ。何が起こっているのか、判らない。
 しばらく呆然と見ていると、二人の詠唱が止んだ。柱の光は上部から徐々に消えていって、やがて二人と一蹄の姿も現れる。獣は、姿を変えていた。翠の毛並みは茶にくすみ、翼は消え失せていた。そして、力無く大地に崩折れる。そこで光は失われた。

 一番最初に駆け付けたのはヘレナだ。変わり果てた−−否、元の姿に戻った雄鹿を見つめる。瞳は閉じられ、酷く弱っていた。その獣からは、美しさも強さも失われてしまったように思えて、見ていられず、目を逸らした。
 呼応術は無事、成功に終わったのか。エルスらも徐ろに現場に近付いた。雄鹿は眠っている。死んでしまったかのようにも見えて、彼らは言葉を失う。

「宿っていた紋章の代償とも言うべきか。内側に蓄積された疲労が急激に襲ってきているのかもしれないな。こればかりは……仕方がない」

 事も無げにファンネルが言うので、エルスはぞっとする。紋章が宿った期間が長ければ長いほど、その代償とやらも大きいのだろうか。自ら望んだ賜物でもないのに、自然に還るだけで、その苦痛と戦わなければならない。いずれは−−彼と同じく、自分も。

「……ターニャさんも、相当疲れているように見えますが大丈夫ですか?」

 ユシライヤがそう言うので彼女を見れば、ターニャは青褪めた顔色をしていて、何とか立っていられるという風にも見える。

「平気です。まだ……終わりではないので」

 そう、今成し遂げたのは、彼女がここまで足を運んだ目的の前段階でしかない。“原種”の紋章がイースダインとは別のところに留まっていた状態を異常と呼ぶなら、今ようやく正常に戻したというだけだ。

 呼吸を整えて、ターニャは自身を中心として円を描く。詠唱によって発生させるものではなく、自分の手に持つ杖で、大地に直接描いてゆくのだ。線が途切れてしまわないよう、歪んだ円にならぬよう、精神を集中させる。
 すると、彼女の目の前に石板が現れた。そこに記された、界の狭間への転移術の呪文。それを自身の中枢に刻み付けるように繰り返し言葉にする。転移の為のその扉を、自分のものとするかのように。他の侵入を決して許さぬように。
 祈りは振動となり、痛みとなる。彼女はまた一つ、禁忌に近付いた。

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