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 彼女の説明によれば、特殊な術でなければ、宿った紋章を身体から引き離す事は出来ない。その術の行使は、どんなに優れた術士であれ、一人の力では成す事は不可能だという。更に、エルスが宿しているという紋章は、元々彼女らが有していた物であり、とある場所に留まらせなければいけないのだと言う。この二つの理由から、彼女の所属する機関『ミルティス』へ、こちらから赴かなければならないとの事だった。
 見知らぬ少女が突如として申し入れた要求。選択の余地を与えない程に、その道筋は狭く、一つの方向にしか切り開かれてはいなかった。
 信用に足らない相手、それも天上人。そして話の規模の大きさ。容易に受け入れられるものの範疇を越えている。
 しかしエルスは違った。

「じゃあ、城の外に出ても良いんだ!」

 嬉々としてその天上人の手を握り締める。少女のほうは、思わずそれを振り払ってしまった。何を意味する行為なのかが理解できなかったのだ。

「また調子の良いことを言って。危険な目に遇ったばかりなのに。怖いんじゃないんですか」
「怖くないよ! ユシャもいるし。天上界に行けるんだ、それって凄い事じゃないか」

 城の外に出られる、という微かな願いの為の、良い口実が出来たようだ。彼の護衛騎士は、呆れながらも、意思確認をされないまま同行する事になっていた事には反論しない。

「では……来てくださるのですね」

 エルスは「当たり前じゃん」と言い、「彼に危険が及ばないのなら」と不本意そうにユシライヤが続ける。
 二人に返されたのは、それまで一つも表情を崩して見せる事のなかった少女の、初めての笑顔だった。

「有難うございます。では、こちらの皆様に許可を頂かないと」

 律儀にも、少女が王城の者に報告したいと言い出したので、ユシライヤは目を丸くする。

「そんなもの、下りる訳無いだろう」
「きょうこうとっぱ、だよ。こそっと出ていっちゃえば良いんだ」

 そう言って、エルスは少女の手を引いた。故郷から彼を離れさせ、遠き地へ引き連れようとしている者の手を。少女は、自分を受け入れてもらえるのが、温かい事だとは知らなかった。
 彼女を映したエルスの瞳は、微かにも疑いの色には染まらない。こんな考えは軽忽であろうが、オルゼの紋章の宿主が彼で良かった、と少女は思った。

「言っておくけど、私はお前を信用した訳じゃない。この人に付いていくだけ。もしお前が彼に危害を加えようとしたなら、その時は容赦しない」
「はい。どれだけ私を信用できなくとも、それに関しては信用して頂いて構いません」

 少女は今までも異端として扱われてきただろう。だが、ユシライヤに向けたその眼にも、濁りは無かった。

「じゃあ、名前聞いて良いかな? 僕はエルス、こいつはユシャだよ」
「ユシライヤ、です」

 エルスの言葉を訂正すると、ユシライヤはその後、少女をあまり見ようとしなかった。そのくらいの反応がむしろ普通なのだと少女は理解している。だから彼女を悪くは思わなかった。
 ミルティスに所属する者以外の誰かには名乗ることが無かった名前を、少女は二人に明かした。

「私は、ターニャと申します。ほんの僅かな間かもしれませんが、宜しくお願いします」

 天と地が狭間を分かち合ったのは、この瞬間からだろうか。
 三つの針が天を向いて重なる夜には、鐘音は鳴らない。影の中に身を落とし、彷徨し、陽の訪れを待ちわびる。四度目の紫の刻の訪れは、同時に第一の刻をも告げている。

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