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「それって……こいつ、結局どうなっちゃうんだ?」
紋章を宿す前の、本来の在るべき雄鹿の姿を、彼らは知り得ない。だが少なくとも、紋章によって生き長らえているのは事実。その紋章が取り去られたならば、どうなるか。簡単な事だ、本当は訊かずともエルスにだって解っている。
「いずれお前にも為すべき事をするだけだ。何を恐れる必要がある? それともお前は、現在の自身の状況を都合の良いものだと考えているのか」
創始者の問いには、エルスが返せる言葉は無かった。
痛くない方が、死なない方が、絶対に良い−−エルスがそう感じることも、決して嘘ではない。自分だけではない。他の誰にも、命の終わりなど訪れなければ良い。たとえ自然に反しようとも、そんな世界を心の奥底で望むのは、果たして自分だけだろうか。
「お前に自覚は無いようだがな……あまり猶予はない。俺たちに残された選択肢は限りなく少ない。これは、お前をそのような状態にしてしまった俺たちの贖いで、賭けなんだ」
創始者の急く思いは、その理由にあった。
何を優先すべきか判るか−−幾度となく彼がターニャに問うた言葉の真意だ。決断とは、選択肢を削っていくという事だ。一つの思いを守り続けるには、選ばれなかった壁を貫かねばならない。
「エルスさん。紋章を外したからと言って、対象の命が突然失われるという事はありません。紋章によって止められていた時間が流れ出す、そう思って頂けたら分かりやすいかもしれません」
ターニャがそんな事を言った。
止められていた時間。誤った紋章は宿主が刻む生命の鼓動をも狂わせるのだ。摂理に背いた存在。有ってはならない存在。雄鹿の姿が自身と重なり、エルスはシェルグに言われた言葉を思い返す。
−−お前は、生きているべき人間ではない。
「勝手なことを、言わないでよ……」
エルスの思考を途切れさせたのは後方からの声だ。
「死を望んでるですって? その子は私が従わせるのよ。死なせる訳ないでしょ」
見れば、傷の痛みに耐えながらヘレナが立ち上がっていた。
「……グラジオ。あなたにもう一度だけ機会を与えるわ。むかつく奴らをやっつけて」
主の命令を聞き入れれば、すっかり小さくなり静まり返っていた黒色の球体が、息を吹き返したかのように再び膨れ上がる。影を破り生まれ出た獣は、一段と屈強な体躯に成長していた。黒い体毛が怒りで逆立ち、より肥大化して見えた。
大地を蹴り潰し、空に剣を舞わせる。既にその視野には狙いなど定めない。荒れ狂う黒獣はもはや自身すらも抑えきれない様子だが、その動きが予測出来ない分、非常に戦い辛い相手だ。
疾駆するグラジオ。武器を構える騎士と射手の前に、ファンネルが気怠そうに進み出た。黒牛の突進は彼の目前まで迫っていた。しかし彼は詠唱も無しに手の平を翳すだけで、それを難なく弾き返す。地に倒落するグラジオ。標的に向けた速度と重量の反発が、衝撃となって返ってくる。打ち付けられ、土壌を転がり、蹲る。黒い獣は立ち上がれない。外的損傷が原因と言うよりは、戦意を失った様子だ。
強化した魔獣の呆気ない終わりに、ヘレナは呆然とする。
「何よ、なによなによ! 私はただ、父さんに会いたいだけなの! よくやったって、認められたいだけなのよ!」
ヘレナの声は耳障りだ。ファンネルは不快を取り除く為なら、少女をも魔獣と同等と見做す。
何かを悟り、後退するヘレナ。視界から相手を外さないまま。
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