「お前」とか、「おい」だとか。
彼から呼ばれるのはいつもそんな言葉ばかり。
私の名前が彼の口から紡がれた事は未だかつてないように思う。
それが少しだけ寂しくて切なかった。
私には『名前』と言う名前があるのです、と。
何度言えれば楽になるのだろうとそう思った。
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「――おい。」
「はい?」
今日も愛しいあの人はその独特の声で私を呼ぶ。
彼の声には支配力があると思うのは、きっとこの人が最高僧だからだろうか。
「お呼びになりましたか、三蔵様?」
「あぁ。茶ァ持って来い。」
「かしこまりました。」
師匠を亡くして身寄りが無くなった私を引き取ってくれたのが彼。
第31代目唐亜玄奘三蔵様――。
女は不吉と言われる仏門において、彼はそれを赦してくれた。
それだけで充分に有り難いことなのに。
更に何かを望んでしまう私は神様に嫌われてしまうのだろうか。
「――お待たせ致しました。」
「あァ。そこに置いとけ。」
「はい。他に御用はございませんか?」
「今はねぇ。猿に餌でもやっとけ。」
「かしこまりました。」
猿――、と言うのは彼が連れて来た悟空と言う少年。
人懐っこい少年を思い出して、名前は笑った。
一度だけお辞儀をして出て行こうとしたら、名前は不意に腕を掴まれる。
「…三蔵様?」
困ったように彼を見れば、三蔵はその紫暗の瞳を名前に向けていた。
「――お前がここに来てからどれぐらい経った?」
「…3年ぐらいでしょうか。」
「そうか――。」
それだけ言えば、三蔵はその手を離す。
離れた手を眺めたまま、名前は立ち尽くした。
「――どうした?」
動かない名前に三蔵は訝しそうに首を傾げる。
「――三蔵様、は。私の名前をご存知でいらっしゃいますか?」
三蔵の紫暗の瞳と視線がかち合う。
しばらくの静寂の中、カチリとライターの音が酷く響いた。
「――名前。」
紫煙を吐き出すのと一緒に、初めて彼の口から自分の名前が紡がれる。
名前は焦がれたこの瞬間に、泣きそうになってしまった。
「――はい。」
「くだらねぇことで悩んでるんじゃねぇよ。――名前、さっさと猿に飯をやって来い。」
「申し訳有りません。ただいま。」
涙を拭って笑えば、ほんの少しだけ彼の頬が緩んだように見えて幸せだった。
――例え、彼が私の名前を呼んだのが別れの合図だったとしても。
やっと呼んでくれたね「――名前。三仏神から命が下った。俺と悟空は天竺国へと旅立つ。」
「…私、は?」
答えなど分かっていた。
だって三蔵の目が全てを物語っていたから。
「分かっているだろう。女は邪魔だ。連れて行けねぇ。」
「――はい。」
元より承知の上だった。
泣き喚いて彼を困らせる事は、どうしても出来なかった。
「――待っていろ。」
「え?」
紡がれた言葉の意味が理解出来ず、思わず顔を上げる。
その瞬間、抱き寄せられて気付けば目の前が真っ白に染まった。
――白は三蔵様の、法衣の色。
「三蔵、様…?」
「お前は俺が拾ったモンだ。俺が戻るまで待っていろ。良いな?」
「――はい。」
断る事など出来るはずなかった。
頷いた私に、彼は満足そうに口角を上げた。
「――名前。お前の命は誰のモンだ?」
「勿論、三蔵様の物です。」
「上出来だ。」
例え何年経ったとしても、私はこの地で貴方の帰りを待ち続けているのだろう。
再びその声で、名前を呼んで貰う為に。
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ぱらり*ぱらり:企画提出作品。
最遊記:玄奘三蔵
ゼロサムの企画と言う事で参加させて頂きました!
最遊記に嵌まって10数年経ちますが、相も変わらず大好きです。
素敵な企画に参加させて頂き有難うございました。
2011/08/11 天月レイナ拝
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