あの人が私に残したのは、たった一つの『約束』だった。
昔、私には愛した男がいた。
その男は優しいけれど、どこか薄情で。
それでもここぞと言う時には絶妙なタイミングで側にいる。
そんな男に私が堕ちるのに時間なんてかかるはずもなかった。
夢も希望も無い女にその男はただ一つの『約束』を与えた。
それは良くも悪くも私を縛る事になる。
だけどその『約束』があったから、この激動の時代を生き抜いて来れたのかも知れない。
「…名前はまだ待っているんだね。」
「…そんな事ないよ。」
それはきっと誰から見ても強がりに見えたのだと思う。
だけど本当に、それはきっと、最早日常でしかないのだ。
「今日も来ない、か。」
ポツリと呟けば、横にいた駆け出しの彼女は驚いたように笑う。
「姐さん、もしかして誰か待ってはるんですか?」
「…さぁ、ね。」
待っていろとも言われなかった。
だってあの時、あの手を離したのは私なのだから。
ねぇ、左之助。
貴方は今、どこで何をしていますか――?
「名前、俺と一緒に逃げよう。」
いつもの様に、店を訪れた貴方は話のついでのように切り出した。
「は…?」
言われた意味が理解出来ずに、首を傾げる様はそれは情けなかったであろう。
だけどそれぐらいに、私の思考回路は上手く作動していなかった。
そんな私に苦笑すれば、左之助は男にしてはその綺麗な長い指で私の頬に触れる。
左之助に触れられるのは好き。
きっと私がそんな事を思っているなど、この男は知らないのだろう。
「――ここから逃げて、俺と一緒にならねぇか?」
「…本気なの?」
花魁が店を逃げると言うのは、この花街に置ける大罪である事は当然この男も熟知しているはず。
それを承知で言っているのだから、全く質の悪い事だ。
「…出来る訳ないの知ってるくせに。」
「俺が必ず連れて逃げてみせる。だから俺を信じて一緒に来てくれねぇか?」
左之助の赤い目が私を射抜く。
曇りなきこの目が大好きだった。
大好きで、大好きで、切なかった。
嗚呼――。うん、と言ってしまいたいのに(言えば全てが滅んでしまう)
新撰組に入った想いを、彼の思いを、親友の想いを、知っているが故に。
必然的に私の答えなんて決まってしまう。
「――左之。全てを私の為に捨てるの?」
その問い掛けに、左之助はフッと笑った。
迷いの無いその笑みは恐ろしいぐらいに綺麗で。
その時、初めて男の人の笑顔が綺麗だと思った。
「当たり前、だろ?」
その答えに何故だか酷く泣きたくなった。
その夜、私達は街の外れで落ち合う約束をした。
だけど私は、行かなかったのだ。
破るための約束をしましょう、そうしてまた結びなおすための「――懐かしい話ね。」
いつしか私は『太夫』にまで上り詰めた。
数ある身請けの話を断って来たのも、決して左之助への義理立てなんかじゃない。
これは言わば、私の中の願掛けなのだ。
願っている間は、夢を見ていられるのだから。
「…さぁ、また夜が来るのね。」
時々見掛ける赤い髪の毛に後ろ髪を引かれるのは、きっと気のせいなのだろう。
鬼灯より転載
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