あれから、サカキ様はベニカお嬢様に関する資料とこの部屋までの地図、専用のIDカードを私に渡して、「今日の仕事はベニカの傍にいることだ」と言い残し、去って行った。

ざっと、資料に目を通す。
少女は、三歳。あのニャースはギンという名前で、やはりオスである。ギンはベニカお嬢様の現在唯一の手持ちであり、レベルは――


「25・・・?」


つまり、あともう少しで、ギンはペルシアンに進化する。ベニカお嬢様は、たった三歳にして、そこまでポケモンを育てているということだ。レベルといい、あの懐きようといい、彼女はトレーナーとしての才能にも恵まれたらしい。

好きな物は、花とお香。そこは至って普通だ。

ちなみに、あの理解不能の力を、サカキ様は"見通す力"と名付けていた。

ある程度資料を読み終えた私は、ベニカお嬢様がいる部屋のドアへ歩み寄る。


――コンコン

「はい」


ノックをすると、子供特有のソプラノボイスに、パタパタと早足でこちらに向かって来る音が聞こえた。
ガチャリとドアを開けたのは、背伸びをするベニカお嬢様。(ドアノブの位置が高かったらしい)


「アポロ様。サカキ様とのお話は、終わったのですか?」

「はい、サカキ様は仕事へ戻られましたよ」

「そうですか」


出会い頭から思っていたが、三歳児の話し方ではない。ベニカお嬢様は、何もかもが"子供"という枠組みを外れている。


「アポロ様はお仕事に戻られなくても良いのですか?」

「今日の私の仕事は、ベニカお嬢様と親睦を深めることとなりました」

「それは・・・何やら、申し訳ありません。けれど・・・」


この時、私は初めて無表情以外のベニカお嬢様の表情を見た。


「ずっと話し相手がギンしかいなかったので、僭越ながら、嬉しいです」


彼女の微笑みは、可憐と呼ぶよりも、美しかった。




ソファに腰掛け、優雅に紅茶を飲む三歳児。彼女の"闇"に気付かなければ、随分とシュールな光景だと思う。
紅茶は、私がいれたものだ。流石に、ご令嬢である彼女に紅茶をいれてもらうというのは、憚られた。


「アポロさんは、紅茶をいれるのがとてもお上手なのですね」


ついでに、"様"呼びもやめて頂いた。中々首を縦に振らない彼女は、諦めた様子で交換条件を持ち出したのだ。


『私が"アポロさん"とお呼びする代わりに、私を"お嬢様"と呼ぶことはやめてください。私は確かにサカキ様の娘ですが、私個人はそのように大層な人間ではありません』


呼び名は、"アポロ様"から"アポロさん"に、"ベニカお嬢様"から"ベニカ様"にすることで落ち着く。
それと同時に、私は彼女が三歳児であるという事実を、完全に放棄した。

――ベニカ様は、"大人びた子供"ではなく、"大人"なのだ。
怖いくらいに、彼女の精神は成熟している。サカキ様が関心を抱くのは、きっと必然だったのだろう。こんな三歳児は、世界中のどこを探し回っても存在する筈がない。


「なんでも、ベニカ様は花が好きだそうですね」

「はい。花と、お香と、ギンと・・・好きな物は上げるときりがありません」

「・・・ちなみに、一番好きな花は何の花なのですか?」

「・・・・・・・・・かすみ草です」


たっぷりと間を置き、そう言ったベニカ様の瞳は、どこか虚ろに揺れていた。寂しさや悲しさではない――表すなら、"罪悪感"を感じているかのように。
それをごまかすように、私は話を逸らす。深入りしてはいけないような、そんな気がした。


「・・・ベニカ様は、何故教育係に私なぞを選んだのでしょうか」

「アポロさんは、優秀な方です。サカキ様に負けず劣らず、才能がおありになると思っております」

「そんな・・・」

「アポロさんの出世を祝う日が、私は今から楽しみです」


微笑む彼女との会話は、まるで雲を掴もうとしているように、ふわふわと形を持たない。しかし、核心に触れればあの闇に飲み込まれる――そんな自信があった。

それから、ベニカ様とは色々な会話を楽しんだ。それは相変わらずふわふわと輪郭を得ることはなかったが、それでも有意義な時間であった。
馬鹿な人間を相手に話すのはとてもつまらない――それ以上に、苛立ちや嫌悪さえ覚えるものだが、ベニカ様は遥かに聡明で、サカキ様譲りであるのか、酷く狡猾でもある。

そうしている間に、私は定時の時間になってしまっていることに気が付いた。ベニカ様は、夕食の時間である。


「早くデルビルを手に入れられると良いですね」

「はい、下っ端でも上層部に上がれば、好きなポケモンを持ち歩けますから」


正直、もう少しばかり、会話を楽しみたいという、気持ちもある。ベニカ様は、サカキ様の言い付けで、カントー地方に留まらず、他方のポケモンにも詳しいらしく、私が図鑑を見た時に一目惚れした"デルビル"や"ヘルガー"というこの地方には生息しないポケモンの話にも着いてきてくれるのだ。同僚や上司に話しても理解し合えなかった、話題。


「・・・あ、もうそろそろ夕食の時間ですね」


ふと、ベニカ様が気が付いた。


「ということは、アポロさんはお仕事が終わりなのではないですか?」

「そうですねぇ・・・」

「残念ですが、お引き止めするのも悪いですし・・・今日はありがとうございます」

「・・・・・・・・・」


その言葉に返答するよりも、頭の中では彼女が言った"残念だ"という台詞がリフレインされている。ニャースしか話し相手がいなかったと言っていたから当たり前なのかもしれないが、彼女が自分と同じように、会話の中断を惜しんでくれているという事が、酷く嬉しい。


「・・・・・・アポロさん?」

「あ、はい・・・私も残念です」


私がそう言うと、彼女は驚いたような表情を見せた。そうして、言ったのだ。


「・・・・・・時間が許されるのならば、一緒に夕食でもいかがでしょうか?私は夕食が終われば、眠らなくてはならないので」


随分と早い就寝時間だとも思ったが、彼女がいくら聡明であろうと、身体は三歳児だ。子供の世話などしたこともないが、それが常識なのかもしれない。




夕食の間も、私たちの会話は弾んだ。あまり人間関係を真っ当に築いたことのない自分にとって、顔合わせ初日でここまで会話が弾む人間は、初めてだった。

夕食が終わり、ベニカ様がいつも一人でこなしているという片付けも手伝い、ソファでくつろいでいると、寝室であろう部屋から「キィキィ」という鳴き声が聞こえてくる。この鳴き声は良く知っている――ロケット団に入れば必ず支給されるポケモンの"ズバット"だ。
疑問に思う私とは違い、ベニカ様は寂しげに眉を下げた。


「就寝時間のようです・・・」


彼女の就寝時間は、ズバットが管理しているのだろうか。


「・・・あの、アポロさん」

「なんでしょうか?」

「貴方さえよろしければ、寝付くまで傍にいてもらってもよろしいでしょうか?」


思わず、頷いていた。




顔合わせをしたその日に、寝室に入るのはいいことだとは思えない。しかし、どこか恐怖を宿したその表情を、すっぱりと捨て置くことなどできやしなかった。


「・・・毎日ありがとう。ごめんね、ズバット」

「キィ」


そのズバットは、サカキ様の手持ちらしい。私よりも先にベニカ様のお目付け役になったという。
何故ズバットが、という疑問は、すぐに解消された。


「お願い、ズバット」

「キィ!」


私の手を握りながら、ズバットに何かを頼んだベニカ様。ズバットは軽く空中を旋回した後、彼女に向けて何かを放った。

――あれは、"催眠術"だ。

とろん、と、瞼を細めるベニカ様。閉じかけた赤い瞳は、意識が混濁しているのか、先程よりも濁っている。


「情けない、でしょう?」

「そんなことはありませんよ」


ギュッと私の手を握る彼女は、私から視線をそらし、宙に向かって囁くように言った。


「ギン・・・」


反応したニャースが、ベニカ様の傍に駆け寄る。それはどこか、心配そうな表情で。


「・・・ギン・・・銀・・・ごめん、ね・・・」


虚空を見つめる彼女は、相棒のニャースを見ていない。ただ、何もない天井に向かって、そう言った。


「おやすみ・・・またね・・・」


鮮血のような両目が、艶やかな睫毛に閉ざされる。彼女の目尻に浮かんだ涙を、ニャースが優しく舐め上げた。


「ギン・・・彼女は・・・ベニカ様、は、」


忘れていた、彼女に関する資料に書かれていた一文。

――生れつきの"不眠症"。
些細な物だろうと、気にも留めていなかったのだが、これはかなり――重症だ。


「なぉん」


"ギン"と、眠る寸前まで名前を呼ばれていたニャースが、悲しそうに私へ答えた。

ああ、きっと、彼女が求めた"ギン"は、このニャースではなく、別の何か。

彼女は、"ギン"という名の何かの亡霊を、追い求めている。




――私にとって、衝撃的な出逢いから五年の歳月が経った。

私はあの翌日、驚異的なスピード昇進を果たし、今では支給されたズバットではなく、ベニカ様と初日にも語り合ったデルビルとヘルガーを相棒に引き連れている。相変わらず、私の優先すべき仕事は、"ベニカ様の教育係"なのだが。

ベニカ様の手持ちのギンはペルシアンになり、サカキ様がジョウト地方の土産に与えたニャルマーと、私が彼女にプレゼントしたデルビルも、今では彼女にとても懐いている。ベニカ様がニャルマーに"ポン太"と名付けたと知った時、サカキ様は微妙な表情をしておられたが。(私が差し上げたデルビルは"レオ"という名前だ)(数日間、サカキ様から恨みがましい視線を送られたことも忘れていない)

ベニカ様の弟である若様も、小さな赤子からは随分と成長した。ベビーベッドではなく、今こうしてベニカ様と寄り添うように眠っているのが、良い証拠だ。
残念なことに、若様はベニカ様とは違い、少し大人びた――ともすれば、生意気と取れる子供に育った。サカキ様は、そんな若様にはあまり興味を抱いていないようだ。


「なぁん」


微笑ましい光景を眺めていた私に、ギンが頭を押し付けてきた。何かと振り返れば、彼は口に毛布をくわえている。


「・・・そうですね。このままでは風邪を引いてしまう」


ベニカ様のペルシアンは、賢く、気立ての良い性格に育ったようだ。サカキ様の持つ番犬のようなペルシアンの子供とは、全く思えない。


「ギン・・・今日の夕食はステーキで良いでしょうか?」

「うなぁん」

「ベニカ様はミディアム・・・若様はレアでしたね」

「なぉん」


この年月があるおかげで、私はギンが何を言いたいのか、詳細はわからずとも何となくは理解できるようになっていた。ベニカ様の就寝時間を管理していたあのズバットの子供である若様のズバットはさて置き、ベニカ様の手持ちは、私に対しても幾分か懐いてくれているらしい。思えば、あのズバットも私には懐いてくれなかった。

ベニカ様の不眠症は全快しないものの、昼寝や仮眠は出来るようになったと、嬉しそうに彼女が言ったのは三年程前のことだ。
おそらくは、若様の存在が大きかったのだろう。彼女は、まるで自分の子供のように、若様を愛している。

当時、私やギンは酷く落ち込んだものだ。
今まで私たちが越えられなかった壁を、彼は幼子にして難無く越えてしまった。


「懐かしいですね、ギン」

「なぁー」


ギンから受け取った毛布を、すやすやと眠る二人と三匹に掛ける。そのまま私がキッチンへ向かうと、ギンも私の後を着いてきた。

私とギンの願うことは、おそらく一致しているのだろう。

彼女が、夢の中でだけでも幸せであるように。
彼女の絶望を具現化したような赤い瞳に、些細な物でもいい――私やギン、若様以上に、"幸せ"という"光"を与えてくれる誰かの出現を。

――例え、私が惹かれた彼女自身の"闇"が、消え去ってしまおうとも。




それでも、私は

(闇だけではなく、光射す貴女の赤い瞳も見たいのです)

(欲張りだと、笑いますか?)




2011.03.20


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