カタカタとパソコンのキーを打つ音だけが響く執務室。あと数行で書き上がるという報告書に、ランスはようやく一息つこうと冷めたコーヒーに手を伸ばす。温かさを失った分、コーヒーは苦味を強く伝えた。
ふと時計を見れば、短針は八を指している。思ったよりも、遅くなってしまったようだ。当初の予定では六時には帰宅できるはずだったのに。

朝から胸ポケットに入れっぱなしにしていたポケギアを開く――メールが一件。サイレントモードにしておいたので、気がつかなかったのだろう。仕事の要件であれば卓上に放置してあるポケギアがけたたましく鳴るので、こちらはランスのプライベート用のポケギアだ。

メールには、簡潔な一文。

「"今日は家にいます"・・・ねぇ・・・」

ランスはパタリとポケギアを閉じ、残りの数行を書き上げてしまおうとパソコンの画面に向き直った。


***


立て込んだ仕事がなければ出来るだけ帰るようにしているアジトから離れた自宅は、電気も何もついておらず、寒々しい。一人暮らしならば当たり前のことだろうが、残念なことにランスは一人暮らしではなく、同居人がいた。

ため息を吐いてポケギアを開くと、見慣れた名前でボタンをプッシュする。

――ワンコール、ツーコール、スリーコール
十回まで数えたところで、ランスは一度ポケギアを閉じた。

シャワーを浴び、私服に着替えたところでもう一度ポケギアを開く。不在着信は一件もない。
またしても、ランスはため息を吐いた。今度は、盛大に。アジトを出て一回、帰宅して一回、次で三回目。約束を覚えているのなら、今度は出るだろう。

――ワンコール、ツーコール、スリーコール
十回目も、ランスのポケギアは無機質な呼び出し音を奏でるだけだった。

お気に入りのジャケットに腕を通し、職場から支給されている団服のとは違うキャスケットを被る。二つのポケギアと財布、複数の鍵がついたキーケースに、ゴルバットの入ったモンスターボールだけという軽装で、ランスは家を出た。


***


空を飛ぶゴルバットに捕まり、ランスが降りたのは彼の自宅から少し離れた場所に建つマンション。入口の暗証番号を手馴れた様子で入力し、エレベーターを上がって、目的の部屋の前で立ち止まる。
ノックはしない。インターフォンも、押さない。そうすれば部屋の中にいる住人が怯えてしまうことを、ランスは知っていた。
キーケースの中から目的の鍵を取り出し、錠を解く。ガチャリと音を鳴らした先には、ランスの自宅と同じような真っ暗闇と静寂が広がっていた。

靴を脱ぎ、無言で室内に歩を進める。
シングルベッドと二人がけのソファしかない、簡素な部屋。闇に慣れてきた目をこらせば、ベッドの横に転がった空の酒瓶が数本と、バラバラに散らばった薬のカラ。
本日何度目になるかももうわからないため息を飲み込んで、ランスは電気をつけることもせず、勘だけを頼りにキッチンへ向かった。

――ギシリ
音を立ててベッドのスプリングが揺れても、人一人分膨らんだ布団はうんともすんとも言わない。
ゆっくりと布団をめくると、青白い女の寝顔が現れる。どうやら、横向きに丸まって眠っているらしい。

「ナナシ」

この部屋を訪れて、初めてランスが口にした声は、眠る女の名前だった。
しかし、彼女は何も答えない。

「ナナシ」

もう一度、名前を呼ぶ。それでも、ナナシの規則的な寝息は変わらなかった。

「・・・ナナシ」

今度は、強制的に体制を変えさせ、ナナシが上を向くような形にして、その青白い頬を軽く叩きながら呼ぶ。

「・・・・・・・・・だ、れ、?」

ナナシは、ようやく起きたらしい。ぼんやりとした、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどに小さい声で、疑問を口にした。

「・・・私ですよ」

薄らと上がる瞼。ふらふらと宙を彷徨う視線が、ゆっくりとランスの方へ向く。

「・・・・・・らん、す?」

「はい」

「なん、で・・・らんす・・・?」

意識が完全に覚醒しているわけではないのだろう。ランスの姿を認めているものの、彼女の瞳は焦点があっていない。
ランスは左手でナナシの頭を抱え、右手に持っていたペットボトルの飲み口を彼女のぽってりとした唇にあてがう。

「三度電話にで出なければ、強制的に訪問すると約束したはずです。ナナシ・・・まずは、水を飲んでください。喉が渇いているでしょう?」

「・・・?・・・ん、」

最初はランスの発した言葉の意味さえ分かっていないような素振りを見せたが、ナナシはゆっくりとそれを理解したのか、従順に従った。

んく、んく、子供のように喉を鳴らしながら、ナナシはペットボトルの水を懸命に飲む。まれに飲みきれず彼女の頬を伝う水が、白く細い首を濡らし、シーツへと流れていった。

「・・・も、いい」

「そうですか」

「・・・ん、ありが、と」

「いえ」

彼女の唇から離したペットボトルの中身は、三分の二程減っている。随分と飲んだように思えるが、こんな量では足りないとランスは顔をしかめた。彼女の中に取り込まれた薬物と酒は、この程度では中和できない。
だからといって、今すぐに無理やり飲ませるのは得策ではないともわかっている。飲んですぐに吐いてしまえば、胃と喉が荒れるだけで余計に悪いのだ。

「・・・落ち着きましたか?」

「・・・・・・うん」

ペットボトルの蓋を締め、再度彼女の方を見ると、その瞳は正しくランスを捉えていた。それを見てこみ上げるため息を、今度は我慢しなかった。安堵から出てしまうものだと、自覚していたからだ。

「・・・ランス・・・・・・ごめんなさい」

「・・・何に対して謝っているのですか?」

「・・・えっと・・・迷惑、かけて?」

ランスを見上げるナナシの顔に浮かぶのは、懺悔と困惑。悪いことをしたという自覚はあるから謝っている――しかし、その悪いことがわからない。その謝罪は小さい子供がついつい口にするのと同じものだ。だからこそ、核心を突かれて、その答えに戸惑うのだろう。

「迷惑だなんて、思っていません」

「でも・・・」

「"でも"も、"だって"も、ありませんよ。貴女が"そう"だと知っていて、貴女に構うのは私の我が儘ですから」

「・・・・・・・・・」

黙り込んでしまった彼女の水に濡れた唇に、ランスはそっと自身のそれを重ねた。
戸惑いに揺れる瞳がゆっくりと溶け、安心しきった様子になるのを見届けてから、ランスも静かに目を閉じた。


――ナナシは、ランスと出会った時には既に"そう"だった。
夜になれば仕事とかこつけて大量の酒を飲み、プライベートでもバッグの中には常に大量の精神安定剤。全て飲むことはしなくとも持ち歩くだけで安心できるのだと、何度かベッドを共にしたあと、彼女のバッグから出てきた薬袋を見て問いかけたランスに、罰が悪そうな顔を歪めて笑ったナナシ。
普段ならば、そんな女はヤったすぐ後にでも切り捨てただろう。しかし、ランスにとってナナシは違った。惰性のように続けていた身体だけの関係だったはずなのに、気がつけば、ナナシという存在に心を許していたのだ。

――ロケット団内でも最も冷酷と謳われた男が、情けない。

自分の気持ちに気がついたとき、ランスは己を嘲笑った。
ナナシの過去に何があったのか、あらすじ程度はほとんど知っている。だからと言って、その時に伴ったナナシの痛みをランスは知らない。知ろうとしたところで、本質を理解できるわけじゃない。
それでも、自分がナナシという人間にのめりこんでいるように、ナナシもランスという存在に依存しているという事実には気づいていた――ランスにとっては、それだけで充分なのだ。

「・・・・・・ランス」

「なんですか?」

「・・・来てくれて、ありがとう」

「・・・・・・」

「そばにいてくれて・・・ありがとう」

ツゥと、ナナシの青白い頬を伝った涙。それを受け止めたランスの舌に、あまじょっぱい痺れが滲んだ。

「もう、眠りなさい」

「・・・ん、そうする」

涙に濡れるナナシの瞼を、覆い隠すよう右手を添える。

「・・・ランス、も」

「私も?」

「・・・一緒に、寝よ」

「・・・・・・」

「・・・そばに、いて」

思わず離してしまった右手。彼女の瞳は先程よりも潤みを増し、乞うように揺れている。
「仕方がないですね」と笑えば、一切の不安を取り除いたような、まるで花の綻ぶ瞬間のような顔で、ナナシは笑った。

「ランス、だいすき。ほんとうに、あいしてる」

常に不安定な彼女は、時々、まるで思い出したとでもいうように前触れもなく一人でどん底に落ちてしまう。「これでもマシになったの」と言ったその言葉に、嘘はないのだろう。
どうしようもなく不安定になると全てを捨てて逃げ出してしまう悪癖があるというのを、彼女の昔からの友人という人物からランスは聞いたことがある。そしてその悪癖というのは、彼女の軌跡を辿れば真実だとわかった。
シンオウからカントー、まれにイッシュへ旅立ち、そしてジョウトのここ、コガネシティ――時計の針が一秒を刻む事に、彼女の滞在した最高記録を伸ばしている街。

彼女とランスの出会ったスナックがある街。ランスが強制的に荷物を引き払った彼女のマンションがある街。彼女とランスが二人で暮らす家がある街――ランスが、いる街。そこに彼女は、今までになく留まっている。

ランスは、知っている。転々と居場所を変えるナナシが、何度も何度も自分を殺そうとしたこと。彼女自身の存在も、痕跡も、命も、何度も自分の手で葬り去ろうとしたことを。

だからこそ、彼は自覚していた。
ナナシにとってはランスという存在だけが、彼女をこの街に――この世に留めさせる、最後の足かせなのだと。自分を無価値だと思い込み、その場の感情で秋の空よりも気まぐれに行動し、非道徳的な人生を生きてきた彼女にとっての、最期の理性なのだと。

「・・・私のほうが、きっとナナシより貴女を愛してますよ」

彼が否定を紡がない限り、ナナシはどんな衝動が起きても今までと同じようにランスを捨てることだけはしないだろう。逆を言えば、ランスがナナシを見限ってしまえば、彼女を留める物は何もないということだ。

だからこそ、ランスはそれをしない。時々訪れる彼女のどん底を、愛しくさえ思う。
だってそれは――ランスがナナシを生かしているという証拠に繋がるのだから。

――ナナシは、ランスという存在に依存してる。
けれど、ランスというナナシの理性は、彼女の依存を遥かに上回る程、ナナシという存在に溺れているのだ。



(私が貴女にとって最期の足かせならば)(貴女は私にとって、最初で最期の命綱なのでしょうね)




2013.03.05


実は共依存な二人。
思ったよりも長くなったリハビリ短編

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