橙色の空が深みを増してきた頃、私は二階建てのアパートの前に降り立った。
築三十年と言うわりには、随分と外観の綺麗なアパート。数年前に改装工事をしたらしいそこは、白い壁が夕暮れのせいでクリーム色に見えた。
温かい色だ。私が言うと何故か違和感があるので、絶対口には出さないが。

カンカンと音を立てながら階段を上り、ポケットから一つの鍵を出す。私の持ち物の中で、最も異彩を放つ物。私には明らかに不釣り合いなプリン型の鈴のキーホルダーがついた鍵をちゃりんと鳴らし、手慣れた手つきで見慣れたドアの鍵穴に差し込んだ。

――カチャ、

いとも簡単に開く鍵。
ドアを開けた瞬間、


――ドンッ!

「・・・、・・・相変わらず、元気なようですね」

「きゅう!」


嬉しそうに短い手を挙げるのは、私へ体当たりしてきたオオタチ。


「茶々ー、どうしたの・・・って、あ」

「・・・」

「・・・来たの」

「・・・ええ」


熱烈な歓迎をしてくれたオオタチの茶々とは違い、冷めた目で私を見るナナシ。
私は気にすることなく、足に巻き付いた茶々をそのままに部屋へ上がり、黄色のソファへ体を沈めた。


「紅茶?コーヒー?」

「・・・紅茶」

「ダージリン、アッサム、アールグレイ、セイロン・・・」

「セイロン、ミルク多めで」

「・・・疲れてるの?」

「ええ・・・ここ最近は朝まで書類とデートでしたから」

「ああ、それで」


ソファの背後にあるキッチンで、彼女がクスリと笑う気配を感じる。
「それで」の続きは、「それで最近来なかったのね」と、そんな所だろう。


「・・・」

「・・・」


かちゃり、かちゃり
ナナシが紅茶を準備しているのだろう音だけが、部屋に響く。


「・・・昼間の、」

「え?」

「昼間の男は、誰ですか?」

「昼間?・・・ああ、」


金髪に菖蒲色の目をした、柔らかい雰囲気を持つ優男。しかしその瞳には、強い炎が宿っていた。
私の上司と同じように、何かしらの強い想いを纏う雰囲気で隠した――侮れない男。


「幼なじみよ。エンジュでジムリーダーやってるの」

「・・・ジムリーダーが何故こんな平日に」

「最近わるーいことを考えてそうな人達の行動が活発化してきたから、あちこちのジムリーダーが調査に駆り出されてるんですって」

「・・・」


彼女は笑いながらそう言ったが、私には全く笑えない事実だ。あんな炎を宿す男のような存在が何人も悪い奴――ロケット団にやってきたら、私たちの野望は泡より儚く散るだろう。

――ストン

二人がけのソファ、私の隣が沈む。


「・・・さっさとマツバに捕まっちゃえばいいのに」

「馬鹿なことを言わないでください」


ナナシが差し出してきたほんのりと甘いミルクティーは、彼女の言葉と裏腹に優しい味がした。


「馬鹿なのはどっちよ」

「私ではないので貴女しかいないでしょう」

「・・・カスヤロー」

「女性がそんな汚い言葉を使うものじゃありませんよ」


ナナシは苦い顔で私と同じミルクティーを飲む。
渋いわけではない、ミルクティーを。


「・・・誰が言わせてると思ってるのよ」

「私、ですかねぇ」

「わかってるんじゃない、馬鹿。あんたのそういうとこが大っ嫌い」

「知ってますよ」


ミルクティーをぐっと飲み干し、空になったカップをローテーブルに置いた。
いつの間にか私の膝の上へ移動していた茶々が心配そうに私を見上げるので、大丈夫だという思いを込めて頭を撫でてやる。


「・・・ちょうど一週間後、大きな事件が起きます」

「・・・預言者か何かのつもり?」

「コガネは・・・いえ、そうですね。マツバさん、でしたか?彼のエンジュの家に八日程旅行に行ってはいかがでしょう」

「・・・」

「それとも・・・実家はアサギでしたね。たまには里帰りした方がいいのでは?ここ三年はもう帰ってないのでしょう?」

「・・・、か」


小さく、まるで鳥が囀るような声でナナシが口を開いた。


「・・・ばか」

「・・・はい」

「・・・あんたって、本当に、どうしようもない大馬鹿だわ」

「・・・ええ」


茶々を抱いて、ソファから立ち上がる。視界の端に捕らえたナナシの肩は、小刻みに震えていた。


「・・・きゅう?」


大して距離もないはずなのに、玄関までが長い道のりであったかのような錯覚を起こす。足が重い。


「茶々」

「きゅ、」

「彼女を・・・ナナシを頼みましたよ」


――それでも、いくら足が重くとも、私が止まることはもう出来ないのだ。


「また・・・いえ、違いますね。

・・・さようなら」


自嘲と一緒に言葉を漏らせば、ドンと背中に衝撃が走った。


「・・・きらいっ」

「・・・」

「だいっきらいよ」

「・・・」

「あんたなんか・・・だいっきらい、なんだ、からっ・・・」

「・・・知ってますよ」


身体が、言うことを聞かない。
堪らず衝動に任せたまま、振り向いてナナシを抱きしめた。

「きらい」と言い続けるナナシの小さな身体はやはり震えていて、彼女の顔が埋まるシャツの胸の辺りがじんわりと温かく湿るのがわかる。


「・・・ナナシ、」


"また"や、"いつか"などという確証を持たない言葉は使いたくない――使えない。
私たちの企みが成功してロケット団が再興しても、万が一に失敗して私たちがジュンサーに捕まっても、彼女に会うことは二度とないだろう。

私たちは、違いすぎる。
本来ならば、出逢うことすらなかったのだから。


「・・・お元気で」


ナナシから離れ、玄関を出たと同時に出したゴルバットへ掴まり空を飛んだ。
夕暮れだった筈の空は、もう夜に飲み込まれている。


「・・・」


あの白い壁を見ることも、黄色いソファに身体を沈めることも、優しい味のする紅茶を飲むことも、もうない。
"睨めっこ"のルールが通用しない唯一のあの部屋に訪れることは、もう二度と――


「・・・さよなら」


涙を流して私が嫌いだと訴えるあまのじゃくさがたまらなく愛おしい、たった一人の大切な人。






2011.11.08

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