そっと、小さな小瓶を渡されて、なんだろうと彼女は首を傾げた。
目の高さまでそれを上げると、透明なハート型のボトル部分に、コロンとした丸い蓋。いやはや、かわいらしい。ボトルに濃いピンクで書かれたロゴには見覚えがない。
「なんですか、これ?」
正体不明の物体を前に、空野 葵は正直に尋ねた。これを葵に手渡したのは、彼女の元先輩で同じサッカー部のメンバーだった南沢 篤志である。彼はゆるりと、目元に謎の笑みを浮かべた。たいして変わらない背丈のおかげで、その動きが近いところで観察できる。目を細める仕草すら、なんらかの思惑を秘めたような、あいかわらずの色っぽさだ。
「お前、こういうものには興味ないんだな」
「こういうもの?」
「香水」
まだ聞き慣れることのない単語に、葵はパチリと瞬きをした。手元のキュートな小瓶と、目の前の少年の顔とを見比べる。
「香水?」
「そう。今、女子に流行ってるらしいぜ、そのブランド」
そう言われて、三回目の視線を向けてみるが、やはりボトルに表記されたブランド名に思い出すものはない。おそらく初見だ。中学一年生の彼女には、香料をアルコールに溶かした大人の化粧品より、ドラッグストアで安く手に入るデオドラントの方が馴染み深い。香水なんて、使うとしてもまだまだ先の話だと思っていた。もちろん、各ブランドの特徴を熟知するほど売り場で眺めたこともない。たまに、三年生の先輩とすれ違う時に香る甘い匂いに、「ああ、あの先輩、香水つけてる」と思う程度だ。
「どうしてこれを?」
「プレゼントするには素敵な物だろう?」
「なら、なんで私に?」
「あげちゃいけない理由でもあるのか」
「そういうわけじゃないですけど」
いまいち意図が読めず、葵は眉を寄せた。今日は誕生日でもないし、ホワイトデーやクリスマスといった“贈り物をされても不自然でない日”でもない。ごくごく普通の平日だ。強いて言うなら、大安か仏滅か友引かの違い。
「付けてみろよ」
納得のいく説明もせず、南沢は急かす。楽しそうな笑いは見ていてうっとりするが、慣れないことの連続に葵の手はまごついた。「え、え」と、こっちを見たりあっちを見たりしていると、南沢の手が香水の瓶を取り上げた。ほどくように葵の手を開かせる手は、骨ばって大きい。
なんの躊躇いもなく蓋を開けた南沢は、面(おもて)を上げてジッと葵を見つめた。何事かを思案する顔付きで、視線を上下させる。ギクリとした。その色素の薄い瞳に見られると、ひどく居心地が悪くなる。思わず、髪や制服に乱れがないかを、脳内でチェックしてしまうほどだ。
「まあ、無難なところでいいか」
勝手に一人で解決したらしく、南沢は言った。
急に、すい、と手首を捕まえられる。ナチュラルな手付きにキョトンとしながらも、葵の胸は一つ音を立てた。男子との触れ合いに慣れていないわけでも、拒んでいるわけでもないが、なんとなく彼の指先には慌ててしまう。そこから、微弱で甘い痺れが襲ってくるように錯覚するのだ。
葵が固まっている間に、南沢は瓶の口をちょん、と彼女の手首に乗せた。
「はい、こっち」
逆の手もつかまれて、香水をつけられた方の手首と合わされる。ゴシゴシと軽くすり合わされ、はい完成と言わんばかりに、その両手は降ろされた。
「どう?」
南沢が首を傾げる。片方の手首に顔を近付けてみると、甘い香りがふわりと漂った。はっきりとした呼称のできない、不思議な香りだった。デオドラントのように「○○の香り」と表せない。似たようなものなら思い付くが、そこにいろんな香りがプラスされて、複雑に絡み合っている。
「これ、なんの匂いですか? ラズベリーっぽいかんじがするけど、ちょっと違うし……」
「香水は“これの匂い”っていうより、“このブランドの匂い”って認識した方がいいんじゃない。それによって様々だから」
「なるほど。南沢先輩、お詳しいですね」
「あと二、三年すれば、お前の方がずっと詳しくなるよ」
そうだろうか。南沢とて同じように歳を取るのだから、やはり彼には追いつけない気がするのだが。
どうやら本当に用はそれだけだったようで、南沢は満足したふうに「じゃあな」と踵を返した。一連の流れに置いてきぼりをくらった気分で、葵は相槌を打つ。
ふと、歩き始めていた南沢の足が止まり、彼は肩越しに振り返った。
「それ。もらったんだからちゃんと付けてくれよ」
じゃ、と軽く手を振る南沢に、葵も手を振り返した。同じ学校の制服ではなくなった彼の背を見送りながら、そういえばお礼を言うタイミングを逃したわ、と思った。お礼を言うところなのかどうかに少し頭を悩ませたが、そう安いものでもないだろう。やはり、「ありがとうございます」の一言くらい言うのが礼儀だった。
葵が次の日も同じ香りをまとって登校したのは、そういう後悔と気後れを感じていたからだ。同時に、「先輩からの贈り物だから、付けろと言われたから」という義務的な理由が、律儀な彼女にそれを行わせた。
「葵、なんか今日いい匂いがするね」
一番に気付いたのは天馬だった。鼻の利くことだ、と思いながら、葵は「うん」と微妙な笑いを浮かべる。部活が始まる前の、ミーティングの時間だった。
「実は、南沢先輩に香水もらっちゃって」
「え! 南沢さん来てたの!? いつ?」
天馬と信助は香水のくだりより、そちらに食いついた。輝がその後ろで「わあ、なんかおしゃれですねぇ」とまともな反応をする。剣城と狩屋は、なぜか引きつったような表情でまじまじと葵を見た。
水鳥と茜は「いいもんもらったじゃん」「大人っぽーい」と女の子の反応。
それを見ていた霧野が「ははは」と苦笑を零し、神童は「南沢さんが来ていたのか……」と寂しそうな顔付きで呟いた。
三国は剣城たちのように顔を強ばらせ、天城と車田はおおむね天馬たちと同じ謎の食いつき方をした。
みんなの態度にバラつきがあることに、葵がハテナマークを浮かべていると、
「それってマーキングじゃね?」
軽い調子の声が聞こえた。
あっけらかんとした態度は浜野のもので、横から速水が「は、浜野くん。滅多なことは言うもんじゃないですよ」と慌てた調子で彼に言う。
「マーキング?」
反芻するように葵が言うと、場にいた何名かが気まずそうに目を逸らした。
「そーそー。“俺のもん”っていうしるし」
「浜野くんっ」
「俺もそう思う」
どうでもよさそうに、倉間が言った。
「倉間くんまで〜……」
「あのキザな南沢さんなら、そんくらいのことはするんじゃね?」
必死に諫めようとする速水を完全にスルーして、倉間は机に頬杖を付いた。「なー」と浜野は明るく笑う。
奇妙な沈黙が訪れた。だが、この場にいる全員の意識は、100%葵の手首に集中している。
葵は首まで真っ赤にしたまま硬直していた。予期せぬ他者からの種明かしに、まさかと思いながらも、心臓がバクバクと音を立てた。
彼につかまれた手首がいやに熱く、そこから漂う香りは甘く脳を痺れさせた。
――捕まえられたのかもしれない。
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