※ナオミが三、四年生くらいの設定




「はしたないぞ。場所と格好は選べ」

 頭上から降ってくる声に、ナオミは寝転んだまま視線だけを気怠げに向けた。ジーワジーワと、絶えず蝉の声が響いている。皮膚さえ溶かすようなこの熱気とあいまって、頭の感覚が著しく鈍る。視界がぼんやりするのは熱中症かそれとも汗か。逆さになったその中で、立花 仙蔵がナオミと同じ黒の腹掛け姿で立っていた。

「人のこと言えないじゃないですかー、先輩だってぇ」

「馬鹿者。場所を選べと言っただろう」

 そう言って、立花 仙蔵はナオミの隣に腰かけた。――くのたま長屋の縁側に。

「それはこっちの台詞なんですけどぉ。ここ、くのたま長屋ですよ」

「おや、そうだったか」

「白々しーい」

 四肢を投げ出したまま、ナオミはだるそうに語尾を伸ばした。普段なら彼の突然の来訪にもっと動揺しただろうし、下着姿の自身を恥じて隠したりもしただろう。だが、今はそれすら億劫で、指一本動かしたくないほどだった。そのくらい、暑い日だった。


「先輩がいなくなれば問題は片付きますよ。なんの用で来たんです。私の怠惰な時間のためにも、早くお帰りくださいな」

「そう冷たいことを言うな。私とお前の仲じゃないか」

 いつも涼しげな印象の仙蔵だが、彼でもこの炎天下にはまいるらしく、肌に汗を滲ませ、長い黒髪を鬱陶しそうにかき上げていた。あまり見ないその姿は、なんとなく情事のそれを連想させる。けれど、口元に浮かぶ笑みは妙に人を食ったものだから、やっぱり立花先輩は立花先輩だなぁと思う。

「房術試験で一度お相手した程度の仲でしょう」

 仙蔵から視線を外して、ナオミは投げ捨てるような口調で言った。その言葉に間違いはない。いくらか前、ナオミは仙蔵と閨を共にした。彼女の初めてのくノ一としての試験の際で、二人が最初で最後、肌を重ねた時になる。そこに特別な感情はなく、受験者と監察官。授業のために、義務的に睦み合った間柄でしかない。その証拠に、ナオミは仙蔵とはそれから一度も口を利くことすらなかった。夏に薄着で戯れる関係など以ての外だ。仙蔵のことを嫌いだとかいうことはないが、別段好きでもない。同じ学園の先輩で、初めての男――ただそれだけである。

「わざわざ山本 シナ先生の目を盗んで来たのだから、少しはねぎらってくれないか」

「見つかったら怒られますよ」

「それはお前とて同じだろう。そんなだらしのない姿を見られたら、キツーいお叱りを受けるんじゃないのか」

 ナオミはうげぇと顔を歪めた。その状況が、いとも簡単に想像できたからだ。安易に「黙ってほしければ黙っていろ」と脅された彼女は、腑に落ちない気分を持て余しながらも口を噤んだ。ちょうど喋る気力もない具合だったし、ベタベタと絡んでこないならかまわない。ゴロリと寝返りを打ち、己の体温で温まった床から移動する。腹掛けも袴も、吹き出した汗でジットリ湿って心地が悪い。チラリと仙蔵を見やれば、相変わらず意外とたくましい上半身が目に入った。どうも、彼は着痩せするタイプなのだ。華奢に見える腕は思いがけずがっしりとして、捕らえられてしまえば、ナオミの力ではどう頑張っても振りほどけない。身を持って知っている。


「その匂い、なんとかしてくれませんか。暑さとあいまって吐き気をもよおします」

 仙蔵の背後でユラユラと揺れる蜃気楼を見ながら、ナオミは眉を寄せた。ひくりと鼻を利かせてみれば、やはり濃厚な鉄臭さが嗅覚を刺激して、顔全体を不快に歪める。

「おや、バレていたか」

 ちっとも「しまった」という気配を感じさせない様子で、仙蔵は言った。先ほどのニヤリとした笑いを崩さないままだ。これで人の二人や三人殺してきたのだと言うなら、落ち着きすぎた態度に気味悪さを覚える。

「いちおう目につく汚れは拭ってきたんだがな。随分鼻が利くことだ」

「水で流さなきゃ、落ちるわけないでしょう。そんだけ血生臭い匂いプンプンさせといてよく言いますね。慣れすぎて嗅覚が麻痺してるんじゃないですか」

 だるさが次第に抜けて――というよりも、周囲に漂う鉄臭さと仙蔵に対する言葉の明確さに、ナオミは肘を付いて上半身を起こした。仙蔵は困ったように笑って、肩を竦めた。否定する余地はないらしい。まったく末恐ろしいことである。


「よくは知りませんが、長期の実習に行ってらしたんでしょう? 忍たま共から聞きました。ついさっきお帰りになったところなんですよね?」

「ああ。約一ヶ月間、海や山や戦場での訓練を積んだよ。“これ”は、帰り際に金を出せと襲ってきた賊共の匂いだ」

「かわいそうに」

 なにも忍術学園の六年生を選ばなくともよかったものを。運が悪かったために、無駄死にする羽目になるとは。ナオミは心の中だけで、今はただの残り香となってしまった見知らぬ野郎共に、口先ばかりの同情をした。ハードな実習の帰り道に余計な労力を使わされた先輩に対する気遣いなどは、はなから持ち合わせていない。ナオミはそういう意味で、他者にあまり興味がなかった。大切にするのは身近な人間――家族、くノ一教室の友人、先生方くらいで、忍たまなどたいして関わりがないのだから、大切に思う判断基準もない。見知らぬ他人を想えというほうが無理な話である。


 ナオミはゴロリと、再び寝転がった。床は多少冷えていたが、気温が高すぎるのでそれすら生ぬるい温度だ。体や装束はこんなに汗に濡れて湿っているのに、陽に照らされた景色は水分を吸われてひどく乾いて見えた。

 嫌になるくらい晴れた空の元、仙蔵は庭の方を見ていた。瞬きもせずに、かんかんでりの太陽に照らされた地面や木や雑草や、学園を囲む高い塀を眺めていた。たぶん、見ているわけではないのだと思う。ただ、顔がそちらに向いていて、そこに木や塀や雑草があったから、視界という画面におさめているだけなのだろう。

 ジーワジーワと蝉の声がこだまして、仙蔵の端麗な顔と重なる。彼の背後で蝉が鳴いているようだ。ジーワジーワ、うるさい。


「ねえ、立花先輩」

 振り向いた仙蔵の瞳を、ナオミはじっと見た。

「私、癒やしてさしあげましょうか」

 簡潔に述べた。特別な色気も出さず、率直に言葉を投げただけだったが、この目に宿る意味合いは読み取れたことだろう。仙蔵がキョトンとする。夏空に映える白い頬を、汗が一筋流れた。

「私、あの頃とは違います。もう何度か場数を踏みました。実習にも出向きました。今こうして無事にいるのだからわかるでしょう? 成功してるんです、くノ一としての任務に。私みたいな子どもでも、やり方さえ覚えれば結構いい女になるんですよ。どうです? 今一度お試しになってみては。それなりに満足させられる自信がありますよ」

 かちりと合わせた目を逸らさぬまま、彼女は一息に告げた。蝉の合唱は変わらず喧しいが、その声は人気のない縁側でやけに明朗に響いた。他の誰もこの世に存在せず、自分たちだけが取り残されているようだ。滴る汗も、絡み合った視線もそのままに、しばし夏の片隅が時間を止めた。


 無感情だった仙蔵の顔が半分だけ歪み、すぐさまそれは笑いとなって顔全体を覆った。ナオミは目を見張った。あの立花 仙蔵が「プッ」と吹き出すところなど初めて見たからだ。ナオミに背を向け、くつくつと肩を揺らす仙蔵は、どうやら本気でツボに入っているらしい。見える範囲の横顔は、先ほどまでの笑みと違って、年相応の無邪気さを含んでいる。

「なっ……!」

 ナオミはガバリと体を起こし、腹掛け姿の男に詰め寄った。

「なに笑ってるんですか! 人が真剣に言ってるのに!」

「いや……すまん、つい」

 詫びながらも、仙蔵の笑いはおさまらない。憤慨する彼女の様子すらおかしいというように。口元に手を当てて隠そうとしているが、まったく隠せていない。ナオミは目尻をつり上げて、板張りの床をバンッと叩いた。

「馬鹿にしないでください! くのたまだからってナメてるんでしょうけど、私だって本気出せば六年生の一人や二人――」

 ポン、と頭になにかが乗った。その勢いで頭がガクリと下がる。何事かと見上げると、仙蔵がこちらに手を伸ばしていた。ちょうどナオミの頭らへんにそれが来ている。彼はいまだ口端を緩めながらも、まっすぐにナオミを見つめていた。


「無理をするな」

 低く掠れた声が、静かに彼女の鼓膜を揺らした。

「どんなにくノ一を気取ったところで、お前の本質は変わらない。謀(はかりごと)の相手以外には、いつものお前でいればいい」

 後頭部の辺りを流れる汗さえ感知しそうな、不可思議な感覚だった。ハッとして、五感が研ぎ澄まされて、その逆、重要な心の動きが付いていかない。見透かされていることに対する恥ずかしさに気付いた途端、ナオミの顔にカアッと暑さとは違う赤みが差した。仙蔵は鷹揚に目を細めて、ナオミの頭を撫でた。ナオミは悔しさにグウッと唸ったが、もう声を荒げて否定をすることはなかった。これ以上、建て前や見栄を張ったところで、無様を上塗りするだけだとわかっているからだ。それは彼女のプライドが許さなかった。くノ一としてというより、女としての。


 おもむろに手をナオミの頭上からどけたかと思うと、仙蔵は立ち上がった。ナオミはその様子を目で追った。その瞳が、まるで捨てられた子どものように頼りなさげだったことは、仙蔵しか知り得ない。そのためか否か、彼は座り込む後輩の少女に苦笑しながら、腰に手を当てた。彼の長い髪が、動きに合わせてサラリと揺れた。

「それより今から一緒に水浴びでもどうだ。この暑さは少々我慢ならんものがあるし、私は血生臭いと言われた体を洗いたい。一石二鳥だ」

 邪気なく微笑んだ仙蔵の顔が眩しくて、ナオミは目を細めた。彼が立ち上がったことで、ちょうど見上げると太陽を背にするかたちになる。肩越しに注ぐ陽光は、すでに正午をいくらか過ぎていた。これからもっと暑くなるだろう。確かに、水浴びをするには絶好の日和だ。健全だし、真っ昼間から裸で抱き合うよりずっと気持ちいいに違いない。

 ナオミだって本当は、暑くてベタベタして、自身のなにかをすり減らしていくような行為など、したいはずもないのだ。






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