※ナオミが作法委員


 ナオミが突然巨大な白紙に絵を描き始めた理由を、立花 仙蔵はおろか、くノ一教室の友人たちですら知らなかった。ある日突然、それこそ学園長の突然の思いつきのように突然、ナオミは絵を描き始めた。誰もその経緯や理由を知らなかった。

 同級生の一人が、ナオミの姿が見えないことに気付き、探して回ったところ、空き教室で大きな紙に向かう彼女を見つけた。

 習字でもして精神統一しているのかと思えばそうではない。どうやら、絵の具で絵を描いているようなのだ。その同級生は、意外な光景に目を丸くした。もちろん、ナオミが向かい合っている紙が、異様なほど大きかったのも理由の一つだ。もう一つは、いつも誰かと笑い合っている彼女が、人の輪から外れて、こんな所でたった一人で絵を描いているということである。

 同級生は首を傾げた。ナオミは、こんな芸術的作品を手がけるほど絵が好きだっただろうか。いや、けしてそんなことはない。ナオミはどちらかというと、そんなことには無縁なタイプだった。おとなしく絵を描いているよりは友人とのお喋りに興じる方だし、短歌や俳句、お茶にお花といった上品な嗜みもあまり好まない。

 いったい何があったというのだろう。同級生は、ひとまずその背に声をかけた。ナオミはよっぽど集中しているのか、生返事一つよこさない。黙々と、絵の具の付いた筆を、巨大な紙に走らせている。

 珍しいこともあるものだと、同級生は不思議な心地でそれを眺めた。だが、別段不審に思うこともなく、「そういう時もあるのだろう」と踵を返した。彼女もまた、お喋りと甘いものとそれを共にする友人を愛する普通の少女だった。ナオミの行動がものすごく奇怪なわけではない、というのも理由であったが、早く友人たちの待つ長屋へ帰りたいという本音が大きかった。

 すぐに飽きて帰ってくるだろう。そう高を括り、穏やかな午後の日溜まりの中、同級生はナオミのいる教室を後にした。

 ――それが、三日ほど前の話である。


「なんとかしてくださいよ、立花先輩!」

「ナオミ絶対なんかに取り憑かれてるんですって! 朝から晩までずっと絵描き続けて!」

「最低限のご飯と水と厠くらいしか席を立たない、お風呂には入らない、夜も眠らない。あたしたちがいくら声をかけても、揺さぶっても、反応しない。それどころか、山本シナ先生に喝を入れられても聞こえてないみたいなんです。普段ならありえないことですよ!」

「ま、まあ待て、お前たち」

 目の前のくのたま二人の勢いに押されながら、仙蔵は「どうどう」と両手を出した。眼前に立つ少女たち――くノ一教室のミカと卯子は、「うー」と言葉を飲みながら、もどかしそうに体を揺すっている。

「事情はわかった。ナオミが突然絵を描きだして、それ以来寝食もおろそかにして没頭しているんだな」

「そうなんです!」

「確かにそれは困ったことだ。……して、私にどうしろと?」

「立花先輩の方からも説得してほしいんです」

「なぜ私が」

 予想通りと言えば予想通りだが、あまりにもとばっちり感に溢れた申し出に、仙蔵の声音はついうんざりしたものになった。

 次に続く二人の台詞も、頭の良い彼にはわかっている。それがまたわかりやすすぎるほど正論で、正論ゆえに納得がいかなかった。ミカと卯子の口が開く。

「何言ってんですか! ナオミは作法委員会の後輩でしょう?」

 やはりそうくるか――。

 寸分違わぬ理由付けに溜め息が漏れた。

 委員会の後輩が狂ったように絵を描いている。なるほど、これは大変だ。かろうじて厠には立っているらしいが、あとの時間はもっぱら絵を描くのに没頭しているとのことだ。ろくな食事も睡眠もとっていないとなれば、体にかかる負担も大きい。心配した食堂のおばちゃんが定期的に差し入れている握り飯で食い繋いでいるらしいが、充分な栄養補給には程遠いだろう。学ぶために入った学園で、大切な授業を蔑ろにしているとも言える。我に返った時の山本 シナ先生からのお灸も恐ろしい。だが、それで自分にお鉢が回ってくるのは如何なものか。後輩の尻拭いは先輩がするものなのか。

 仙蔵は頭を抱えた。常から、穴掘り小僧の綾部 喜八郎が掘ったそこかしこの落とし穴やら、カラクリコンビの片割れの笹山 兵太夫が作った実害をもたらすカラクリやら、自主トレが趣味の浦風 藤内の空回りな自主トレやら、様々なもので様々な方面に頭を悩ませている。慣れているといってしまえばそうに違いないが、だからと言って面倒事を一手に引き受けるほど彼はお人好しでもない。勝手にしてろ、という投げやりな思考も確かにある。

 それでも、彼がこうしてくノ一教室の一室へ向かうのは、先輩としての責任感、くのたま二人からの圧力、平素ならなんの問題もないはずのナオミを心配する気持ち、ほんの少しの興味、山本 シナ先生へのフォロー、それらを総合して考えた結果、「とりあえず一度様子を見に行くか」という無難な選択が一番だと判断したからだ。

 六年生と言えど、くノ一教室に足を踏み入れることはそう多くない。下級生向け程度の罠を軽くかいくぐり、廊下を歩きながら、仙蔵はナオミのいる教室を探して廊下を歩いた。やはり、忍たま教室とは空気が違う気がする。小綺麗だし、男くささを感じない。これで静謐さを湛えてひっそり静まり返っていれば、どこか神聖さすら感じそうなものを。堂々とした足取りもしらっとした表情も崩さず、彼は思った。各教室から小さく戸を開け、くのたまの少女たちが仙蔵を見ている。


 ――見て見て、忍たまよ。六年生だわ。

 ――しかも、六年い組の作法委員長の立花 仙蔵先輩じゃない。

 ――噂に違わず綺麗な方ねぇ。色も白いし、長い黒髪も艶やかで、まるで女の人みたい。

 ――ほんと。あれで頭もよくて、火薬や焙烙火矢を使わせれば右に出る者なしっていうじゃない。

 ――あれ? 四年生の田村 三木ヱ門先輩は?

 ――あの人は自分で主張しすぎでなんか嫌。それにやっぱり六年生には適わないでしょ。

 ――それにしてもかっこいいー!

 黄色いひそひそ話は、仙蔵の右耳から入って左耳から抜けていく。彼女らの話す意味は理解しているが、特に必要がないので聞き流している。仙蔵のことは仙蔵自身が一番よく知っているし、こういうふうにざわめかれるのは一度や二度のことではなかった。これも一種の慣れというものだ。

 地獄の会計委員長、潮江 文次郎に言えば「嫌みか」と舌打ちされそうだが、あいにくここに文次郎はおらず、仙蔵の「美しい? まあな」という思考を読み取るくのたまもいない。彼はよそ見もせずに廊下を進み、ふと、ある教室を見つけた。

 ――あそこか。

 察しをつけて、仙蔵はまっすぐにそちらへ向かった。何故わかったかと言えば、その教室に組名が記載されていなかったことが一つ。ナオミは、空き教室で絵を描いていると言っていたからだ。さらに、その教室の前に不安げな顔のくのたまが数人、中を覗き込むようにして立っていたことからだ。

「ナオミはここか」

 背後から声をかけると、彼女たちはぎゃあっと悲鳴を上げ、化け物にでも遭遇したように戸の前から飛び退いた。

「たっ、たっ、立花先輩!」

 くノ一教室のユキが、どもりながら仙蔵を認めた。ちなみに、最初に絵を描くナオミを発見した同級生が彼女である。「やあ」と呑気に片手など上げながら、仙蔵は細く開いた戸の向こうを見やった。ナオミの姿は見えず、物が何もない板張りの床に、白い紙が広がっているのだけが見えた。

 ――どんな絵を描いているんだ。

 仙蔵は「ふむ」と顎に手を当てた。湧き上がったわずかばかりの好奇心にかられ、心もとなく見上げてくる年下の少女たちに微笑みかける。

「とりあえず、後は私にまかせてみてくれないか? 良い結果が出せるかはわからないが、できるかぎりのことはしてみよう」

 彼女たちは心配そうに目配せした。大丈夫かな、と眉を下げるが、誰かが一言「立花先輩なら……」と零すと、「そうね」「そうしましょう」と口々に賛成の声を上げ始めた。信頼されているというのは、誇らしく、どことなくこそばゆい。そんな気持ちを緩めた唇に乗せながら、仙蔵は力強く頷いた。

 「それじゃあ、お願いします」とまばらに頭を下げ、くノ一教室の少女たちは自分の教室へと帰っていった。途中、チラチラとこちらを振り返るのがなんとも微笑ましい。友情だな、と疲れからではない息を吐き、仙蔵は戸に向き直った。

「立花だ。入るぞ」

 声をかけ、ガラリと戸を開け放つ。その瞬間、埃とカビくささがむわっと漂った。ここだけまるで異空間のようだ。加えて、絵の具の独特な匂いが鼻を突く。小さく眉をしかめながら、仙蔵は室内に足を踏み入れた。くノ一教室の端にあるこの部屋は、文机が雑然と積み上げられ、黒板は薄汚れて白く変色している。床は埃とゴミでどこにも綺麗な面がない――ように見えるが、よく見れば点々と茶色い木目が判別できる。足跡だった。おそらくナオミの同級生のものだろう。

 ナオミはこちらに背を向け、一心不乱に筆を滑らせていた。仙蔵が入ってきたことにも気付いていないようだ。後ろ手に戸を閉め、彼はじっと後輩の華奢な背中を見つめた。

 部屋の真ん中に置かれた白紙は大きい。畳三畳分もあるのではなかろうか。横には絵の具を落とした小鉢、無造作に茶碗に入れられた筆洗い用の水、絵の具にまみれた委員会の後輩。

 確かに不可思議な光景だ。この調子ではや三日目だというのだから少しゾッとする。「なにかに取り憑かれてるんですよ!」と言い募った卯子の必死さに、仙蔵はひっそりと納得した。目の当たりにしてみると、その背の鬼気迫る真剣さはなかなかのものだった。

「ナオミ」

 とりあえず呼びかけてみる。返事はない。予想通りだ。元より反応など期待していない。老いた方ならまだしも、若い山本シナ先生の厳しいお叱りすら聞き入れなかったのだから、このくらいで正気に戻るはずもない。先生は、ナオミが部屋に籠もり始めた次の日に訪れて以来、なんの行動も起こしていないらしい。諦めたのか見放したのか、はたまたナオミが我に返った際に提出させる反省文やら課題やら罰当番やらの用意に精を出しているのか。――なにか考えでもあるのか。

 仙蔵は、戸の傍の床を足袋でさっと掃いた。蓄積された汚れはたいして綺麗にならなかったが、しないよりはましだろう。そう思い、その場所に胡座をかく。ナオミの筆が白い紙を彩っていく音だけが、小さく響く。この分だと、自分が納得するまで筆を放さないだろう。そう見当をつけると、仙蔵は何もせず、ただジッとナオミの後ろ姿を眺め始めた。

 くのたまの少女たちには、表情を曇らせて「一生懸命呼びかけてみたんだが駄目だったよ」とでも言っておけばいいだろう。どうせ、この状況で私がなにかしたところで、どうにもなりはしないのだ。無責任な解釈でとりあえずの目処をつけ、仙蔵は欠伸を一つ零した。



 ――ふと、空気の移り変わる音を聞いたような気がして、目を開く。どうやら暇すぎてうたた寝をしてしまったようだ。素早く頭を覚醒させ、仙蔵はハッと顔を上げた。たいした変動があったわけでもなかろうが、ちょっとした気配に敏感なのは、忍としての習性だ。

 ナオミがいる。それは、眠る前となんら変わりない。変わっているのは、ナオミの動きが止まっているということだ。よどみなく走っていた筆は、紙のはたにコロリと転がされ、筆を洗う茶碗は、今は出番をなくしてただの無機物と化している。その場に膝立ちになったナオミは、だらりと腕を垂らして、自分の描いた絵に視線を落としている。時間が止まったようなこの場所で、彼女の周りだけに渦巻いていた躍動感のようなものも、今ではすっかりなりをひそめて静まり返っていた。

 おもむろに、ナオミがゆらりと振り返る。緩慢ながら余分のない動きは、もしかして仙蔵がそこにいることを初めから把握していたのか。虚ろな目には、覇気も、普段の元気も見当たらない。それでも、生気だけはしっかりと宿り、どこか熱く燃える輝きすら見受けられる。ふっ、と笑んで見せたその顔は、どこか達観し、大人びて見えた。

「できた」

 ただ一言そう言って、ナオミは満足げに目尻を下げた。

 まったく――、これだけ周囲を騒がせておいて呑気なものだ。仙蔵は肩を竦めた。重い腰を上げ、ナオミの横に立つ。ナオミはついにぺたりと床に座り込んだ。よくそんなとこに躊躇いもなく座れるな、と頬をひきつらせながら、彼は眼前に広がるものを見た。

 青い絵だった。全体的に、ほとんど青い絵の具しか使用されていない。紙いっぱいに薄められた青が広がり、波打つように濃い青が端々を彩る。瑞々しさと、張り付いたような群青が、濃淡によって表現されていた。

 お世辞にもうまいとは言えなかった。絵心は感じられない。というより、何を描いているのかいまいち判別できなかった。これも一種の芸術だと言われればそうなのかもしれないが、仙蔵に判断基準はない。それでも、不思議と息を呑む魅力を持っている絵だった。零れた彼女の破片のように、その絵は息をしていた。

 青の波間に、一部はっきりとする白があった。歪な形をしているが、どうも花のように見える。だが、なんとなく花ではないと思った。海の中に落ちた無機物の花弁ではなく、どちらかというと、ちらちらと舞う有機物を思わせる。

「蝶――か?」

 無意識に言葉が滑り落ちた。見ているうちになんとなく湧いた感想を、彼はナオミへ発した。

 ナオミはつり気味な瞳を丸くし、きょとんとした顔で「よくわかりましたね」と言った。

「私すら、描いてるうちになんだかわからなくなったのに。あーあ、もうちょっと絵がうまかったらなぁ」

 語尾に行くにつれ、彼女の目線は青い絵に戻っていった。口を尖らせるのは、ナオミが拗ねる時にする癖だ。それでも、すぐにおどけたような笑顔を作り、仙蔵に目配せする。彼女がなにを考えているのか、仙蔵にはいまいちわからなかった。こんな奇怪な行動を起こしているのに、ナオミは変わらずナオミなのだ。

「……どうして、急に絵を描こうなんて思ったんだ?」

 ナオミは返事をしなかった。視線を仙蔵から自身の描いた絵に向け、また笑っただけだった。その横顔は妙に悟って見えたが、内の幼さを隠しきれてはいなかった。どうしてなんて私にもよくわかりませんよ、野暮なこと訊くな馬鹿――と言われた気がした。

 仙蔵は今度こそ疲れきった吐息を吐いたが、彼は彼女より四つも年上なので、理由のわからないもどかしさに苛立ってみせたりはしなかった。音もなく、少女の隣に腰を下ろす。装束は汚れるだろうが、どうせ常から授業だの実習だのしんべヱ・喜三太の相手だので汚れているので今さらだろう。

「おいで」

 両腕を広げて、仙蔵は言った。あまり見られることのない、慈しみを込めた微笑みは、時折与えられる彼の柔らかな面だった。ナオミは一瞬泣きそうな顔をして、それを誤魔化すように素早く仙蔵の腕の中に飛び込んだ。首に腕を回しただけで止まったが、少しすると、甘えるようにその身を彼にすべて預けた。訓練にもならない軽さに、あいかわらず細いな、などと思いながら、彼女の癖っ毛を撫でる。お互いの体は、別物なのにピタリとはまるような気がした。三日風呂に入っていないナオミの体は、汗と埃と絵の具くさかった。しかし、かすかに香る彼女自身の甘やかな匂いに、仙蔵は「ようやく帰ってきた」と、こっそり安堵した。

 こんなふうに、狂ったようになにかに熱中し始めて帰ってこなくなった者を、彼は見たことがある。――この学園内で。

 息をしづらい世の中である。忍の掟や三禁は、幼い少年少女たちを雁字搦めにして、自由の幅を奪っていく。むしゃくしゃする時だってあるのだろう。仙蔵自身、そういう地点を通過してきたからわかる。だから優しくできる。いつか吹っ切れる時が来るよ、と。


 だが、この可愛い少女にはあまりこちら側に来てほしくはないなぁ。小さな望みを胸の内に秘め、仙蔵は静かに瞼を降ろした。腕の中で息づく小さな蛹(さなぎ)は、まだその羽を生やしてはいない。






[戻る]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -