それは、まったくの無意識下で行われた。
神童 拓人の意識がはっきりと明確になったのは、目の前に広がる肌の色から5cmほど離れ、その小ぶりな唇の色の鮮やかさに目を留め、零れそうなほど見開かれた瞳に自身の姿が映るのを見つけてからだ。
ぼやけた焦点がクリアになると同時に、彼の脳内を冒していた麻薬が晴れた。
「うわぁ――――――っ!!」
廊下に轟く大絶叫。呆けていた目の前の少女の肩がビクリと跳ねる。その動きに拓人はまた動揺し、もつれるようになりながらベンチから立ち上がった。足が引っかかってこける。顔面からベシャリと床に突っ伏し、拓人はあまりの痛みに「うぅ」と唸った。しかし、背後からかけられた「あの……」という儚げな声を聞くやいなや、彼はまた弾かれたように体を起こし、脇目も振らず一目散に走り出した。サッカー部キャプテンとして鍛え上げられたその駿足が廊下の床を蹴る姿は、どう見てもただの「脱兎」であった。
・
「どうしたんだ、神童?」
霧野 蘭丸は、その女性的な相貌を心配そうにひそめて言った。
幼なじみであり、同じサッカー部員である神童 拓人が、頭を抱えて机に突っ伏している。黙したまま、しかし背後にあからさまな重たい影を背負って、梅雨の時期のようなじめじめとした空気を漂わせている。ときおり肩が揺れるのを見ると、もしや泣いているのか。拓人のことに関して少々過保護なきらいのある蘭丸は、おろおろと彼に声をかける。
「今朝からずっとその調子じゃないか。いい加減、なにがあったか話してくれてもいいんじゃないか?」
責め立てるふうに聞こえぬよう、柔らかにゆっくりと問いかける。
「サッカー部のことでなにか悩んでるのか?」
チームメイトとして。
「それとも、だれかとケンカでもしたか? なにか言われたりしたのか?」
友人として。
「神童にかぎってそれはないだろうが、今度の期末試験がヤバいとか」
同級生として。
その問いかけのどれにも、拓人は反応しない。困った、と蘭丸は細い眉を寄せた。
「まさかとは思うが――恋愛ごとじゃあないだろうな?」
それこそ神童にかぎってだろうと、蘭丸は半笑いで言ってみた。
ガバッ! と、拓人が頭を上げる。あまりの瞬間的勢いに、蘭丸は飛び上がって驚いたまま、声も発せなかった。
蘭丸の顔を見た途端、拓人はぐずぐずと表情を歪め始める。
――あ、まずい。そう思った時には、拓人は再び頭を抱えていた。
「うわぁぁぁ――――っ!!」
温厚かつしっかり者で頼れる好青年のイメージをほしいがままにしていた神童 拓人は、教室の中心で盛大に叫んだ。
・
「俺は大変な罪を犯してしまったんだ……」
中庭のベンチに畏まって座り、厳かに両手を組み合わせて告白する拓人の姿は、迷える子羊そのものだった。ここで神に縋りたいほど困り果てているのは、彼よりも隣に座る霧野 蘭丸のほうなのだが。
突然なにかが決壊してキャパオーバーになり、混乱した拓人を引っ張って、蘭丸はこの場所に腰を降ろした。春の日差しが降り注ぎ、頭上で新緑が芽吹き始め、冬を越した小鳥たちが囀る声を聞くこの場所のおかげで、拓人も徐々に落ち着きを取り戻したらしい。重たかった口をようやく開いて、事情を説明しだした。
「罪?」
懺悔を聴く神父の気分を味わいながら、蘭丸は聞き返した。その顔には、すでに疲労の色が滲んでいる。
「……そうだ」
重苦しく呟きながら、拓人は頭(こうべ)を垂れた。がっちりと合わされた両手が、小刻みに震えている。これはいよいよただごとではないかもしれない。慎重に言葉を選びながら、蘭丸は拓人のほうへ身を乗り出した。
「いったい、それはなんなんだ? そんなに大変なことなのか?」
拓人は険しい顔をして黙り込んだ。思案するように、自分の拳を睨んでいる。唇をギュッと引き結び、目を閉じる。そしてポソリと呟いた。
「山菜にキスをしたんだ……」
「――はい?」と、ほぼなにも考えずに蘭丸は返した。
山菜、山菜 茜。雷門中学サッカー部のマネージャーで、神童 拓人の大ファン。常にピンクのカメラを携帯しており、暇さえあればマネージャーの仕事そっちのけで拓人の姿を写真におさめている。ふんわりとした茶の三つ編みと、ゆるく下がった垂れ目、のんびりと柔らかな高い声が彼女の象徴で、なかなか掴みどころのない少女だ。世間で言うところの“不思議ちゃん”に分類されるのかもしれない。
その茜と拓人が、キス?
「へぇー……」
「なんだその薄い反応! もっと驚けよ!」
「いや……なんかもっと大変な事態を想像してたからなんか拍子抜けっていうか――てか、お前の言い方が大袈裟すぎるんだよ!」
「大袈裟じゃない! これは大事だ!」
「いや、そうかもしれないけど!」
落ち着け、と蘭丸は前髪をくしゃりとつかんだ。
「いったいどういう経緯でそうなったんだ?」
そもそも拓人は、茜をマネージャーとして認め、自分を追いかけることを認めてはいても、好意を返すことしはしなかったはずだ。気付いているのかいないのか、いつも茜からの一方通行な憧れを隔絶して切り離していた。それはまったくの別次元で営まれていたはずだ。それがまたどうして。
「……今朝のことだ」
拓人の声は、あいかわらず重たい。
「朝練が終わった後、俺はロッカーに向かってサッカー棟の廊下を歩いていた。すると、廊下のベンチに山菜が座っていたんだ」
ふんふんと、蘭丸は頷く。
「急がなければ授業が始まるぞ、と俺は声をかけた。すると山菜はうれしそうに笑って、『シン様、これ見て』と、俺にカメラを渡してきたんだ」
山菜愛用のあのカメラだ。初めこそ拓人の姿ばかりを写していたものだが、今ではサッカー部のあらゆる思い出がそのカメラにはおさめられている。
「そこには俺が写っていた。シュートを決める瞬間の俺だ。なんだか馬鹿みたいに必死な顔をしてて、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。だから、『妙に恥ずかしいな……』って言ったんだ。そうしたら山菜が『そんなことない。このシン様すっごく素敵』って笑って――」
気が付いたらキスをしていた。
「無意識だったんだ! 本当に、下心なんかなかったんだ!」
蘭丸がなにも言わずにパチパチとまばたきをしていると、拓人はまた一人で頭を抱えて悶絶しだした。
蘭丸からすると、“下心のない男とはなんなのか”と思うし、今までそういったことに縁のなかった親友にその手の話題ができたことは素直に喜ばしいものだ。微笑ましいなぁと、蘭丸は唸る拓人の肩をポンと叩いた。
「大丈夫だよ。そんなに気に病むな、神童。山菜だって怒ってなかっただろ?」
茜の神童への思いが憧れか、それとも恋であるかは明言しにくいところだが、プラスの感情であることに変わりはない。動揺したり、困ったりはするかもしれないが、吐き気を催すほど嫌がられたりはしないだろう。
生暖かい目でそう言った蘭丸をよそに、拓人は唇を歪ませてもごもごと口ごもった。
「え? なんだって?」
「だから……その、」
今にも泣き出しそうななさけない顔をして、拓人はか細い声で言った。
「逃げたんだ……」
「えっ」
蘭丸はギシリと固まった。
「逃げた? 逃げたってまさか、キスして、自分がしたことにビックリして、そのまま山菜を置いて逃げたのか?」
くしゃくしゃと、拓人の端正な顔が崩れる。なにも言わずとも、それだけで「YES」と察することができた。今度は蘭丸が頭を抱える。
「神童……それはよくない」
「俺だってわかってる!」
拓人は切羽詰まった様子で言った。だいぶこらえているようだが、目尻に溜まった涙が零れるのも時間の問題だろう。
「でも、どうしたらいいかわからなかったんだ。俺は自分がしたことが信じられない。俺は簡単に女子とキスできるような奴だったのか? 山菜と俺は付き合っているわけでもないのに。それに、山菜だって呆然としてた。どうしたらいいんだ、これで山菜と気まずくなったら……」
己の想像に青ざめて、拓人は声を失った。蘭丸はそれを眺めて、こっそり溜め息を吐く。気まずくなることはおおいにありえるが、どちらかといえばその原因は大半拓人にあると思う。こうやって一人で悪い妄想に苛まれているのがよい証拠だ。茜はきっと、拓人が歩み寄ってくれるのを待つだろう。こういうことは男側がしっかりしなければいけないというのに、まったく我らがキャプテンはどうしてこう、肝心なところで女々しくなるのか。
それにしても――。蘭丸は少し考え込む。
意外と言えば意外だ。この二人は永久に、憧れる者とその憧憬の対象として、交わらない平行線を歩んでいくものだと思っていたのに。茜から拓人への矢印だけは向けられたまま、拓人はそれを知ることなく終わっていくものだと想像していたのに。まさかこうも一足飛びに進展するとは。そりゃあ、茜だって呆然とするだろう。それまでいっこうに返ってこなかった反応が、一気に三倍くらいになって跳ね返ってきたのだ。第三者の蘭丸ですら、「どうして突然」と驚いている。
「――なぁ、神童。お前、遊びで山菜にキスしたわけじゃないよな?」
静まり返った空気の中で、蘭丸の声は真剣さを帯びた。
「違う!」
打てば響く早さでよこされた返答に、蘭丸はほっと胸を撫で下ろした。長い間共に過ごしてきたのだから、拓人がそんな卑劣なまねをするはずはないとわかっていた。だが、もしも彼が茜の気持ちを利用して彼女を弄んだのだとしたら、蘭丸は拓人を一発殴らなければならない。道を間違えた親友に対する鉄拳制裁と、茜に対する謝罪の意味を込めて。
けれど、少なくとも拓人は軽々しい気持ちで茜に触れたわけではなさそうだった。もしかしたら、自分自身その理由に気付いていないのかもしれない。だから混乱しているのか。
なるほど、と蘭丸は納得した。行き着く先はひどく単純明快なのだが、さてこの奥手な青少年をどう諭すべきか。
黙考していると、どこからか聞き覚えのある女の声がした。
「あンの野郎、見つけてぶん殴ってやる!」
「み、水鳥ちゃん、待って」
粗野な口調と、よく通るハスキーボイス。それと、消え入りそうに揺れる高い声。間違いない。隣に座る拓人がビクリと飛び上がった。自分たちの座るベンチの後ろ側、木や花壇の向こうの通路に、瀬戸 水鳥と山菜 茜がいる。
「止めるな! 茜の気持ちを弄んだ神童のヤローに、このあたしが一発おみまいしてやっから!」
なんとタイムリーな。どうやら茜も、親友の水鳥に事のいきさつを相談したらしい。そして、水鳥の中ではすっかり拓人が茜を弄んだことになっている。確かに、拓人本人から話を聞かなければ、そう考えても仕方ないかもしれない。しかしながら、それはまったくの誤解なのだ。
蘭丸は振り返った。どこかへ向けてずんずんと大股で歩いていく水鳥と、それを小走りで追いかける茜が、垣根を隔てた向こうにいる。おそらく水鳥に、拓人の居場所のあてなどないのであろう。それでも、親友の想いを考えればいてもたってもいられず、闇雲にでも動き回らなければ落ち着かなかったに違いない。瀬戸 水鳥というのはそういう女だ。
同じだ。同じなんだよ。蘭丸は、心の中でそう唱える。
彼は、茜たちと拓人とを見比べた。拓人が、強く拳を握り締めるのが視界の端に映った。
すっくと、勢いよく蘭丸が立ち上がったのと、
「いいの、水鳥ちゃん!」
と、めずらしく茜が声を張ったのとは、ほぼ同時だった。
出ていくタイミングを失って、蘭丸は動きを止めた。拓人もそろりと振り返る。
「なにがいいんだよ! 全然よかねぇよ」
「いいの。いいのよ、水鳥ちゃん。だから、そんなに怒らないで」
水鳥はまるで自分のことのように、目をつり上げて怒りをあらわにしている。対峙する当事者の茜は、太めの眉を柔らかに下げて微笑んだ。
「むしろお前が怒れよ! なんで笑ってられるんだよ!」
「水鳥ちゃんが代わりに怒ってくれたから、わたしもう怒る必要ないもん。それにね、落ち着いたら、ちょっと冷静になってきたから」
「あん?」
真正面から茜に向き合い、水鳥は片眉を寄せた。
隣を見下ろせば、拓人が心細げに顔を曇らせていた。
「わたし、ずっとシン様のこと見てるだけで幸せだった。サッカー部に入って、シン様の近くでマネージャーのお仕事をして、一生懸命サッカーに打ち込むシン様を応援できて。写真だって、シン様だけじゃなくて、他のいろんなものを撮るようになった。今、毎日がすごく楽しいの。前も楽しかったけど、今はもっともっと。もう充分幸せだった。シン様がわたしを見てくれなくても……ちょっとは寂しかったけど、平気だった。このままでもよかった。だから、今回のことはハプニングだったの。わたしには過ぎたハプニング。わたし、シン様がキスしてくれたこと、すごくうれしかった。それだけでいいの。だって」
そこでふいに、茜は言葉を切った。笑んでいた唇をキュッと結び、水鳥から視線を外して俯く。数秒してからパッと顔を上げ、
「ファーストキスが好きな人となんて、こんな素敵なことないでしょう?」
声は揺れ、無理に笑った笑顔は涙で濡れていた。
「茜……」
水鳥がいたましげに目を細めた。蘭丸も同じだった。茜の想いに、彼まで泣いてしまいそうになる。それを過ぎたことだと言ってしまう彼女が、どんなに頭でわかっていても切ないと泣く心が、胸をつかんで揺すぶる。熱いものがこみ上げるほどに。
――ガタッ!
ベンチが軋む音がして、視界を見知った少年が横切った。目にも止まらぬ速さで駆けていく。その後ろ姿を、唖然としたまま見つめる。彼は制服のまま、花壇の垣根を飛び越えると、辺りに響く声で茜の名前を呼んだ。
茜がビクリとこちらを向く。彼女の涙がパッと散って、光を浴びてきらきら輝く。その涙ごと包むように、拓人は茜を抱き締めた。まるでドラマのワンシーンのような光景だった。
茜は涙を流したまま、状況の把握ができていないようだった。すると、拓人が何事かを囁いたのか、ふいに目尻が光を差して綻んだ。白い手がそっと拓人の背に回る。彼の肩口に幸福そうにすり寄って、茜も何事かを囁いた。こちらからは茜の顔しか見えないが、拓人が抱き締める腕に力を入れたのはわかった。水鳥は虚を突かれてまばたきを繰り返している。
「めでたしめでたし、か」
まったく人騒がせなものだ。そう思いながら、蘭丸も笑みを浮かべた。
我らがキャプテンは確かに女々しく思い悩むことも多いが、本当に大事なところはしっかりと男を見せる――そんな頼れるかっこいい男だ。
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