天馬の笑顔を“眩しい”と思い始めたのはいつだったか――。

 正確な時期を問われても、葵にはわからない。二人がまだ、本当の幼子であった時。性別の垣根などなく、男も女も気にせず裸になったり、殴り合いの喧嘩をしたり、泥だらけで遊び回っていた頃には、葵は天馬の笑顔を“眩しい”と感じたりはしなかった。同時に、天馬に対して友情や家族愛以外の情を抱いてもいなかった。おそらく、それが形と名を持って葵の中で膨れ上がったのと、天馬の笑顔に目を細めるようになったのとは、時を同じくする。

 ある日突然来たわけではない。一歳一歳年を重ねていくたび、一歩一歩大人への階段を登るたび、その感情も大きくなっていった。背中に少しずつ降り積もっていくなにかを、葵はとりあえず知らん顔して見過ごした。

 だが、中学一年になった今、その重みは彼女の華奢な体躯では支えきれないほどになり、とうとう膝が地面に付いた。このまま潰れてしまいそうだと思いながらも、葵が必死に踏ん張っているのは、先を歩く天馬が、振り返って手を差し伸べているからだ。

 ――どうしたの、葵。転んだの? 仕方ないなぁ、ほらつかまって。

 百の悪鬼すら散らしそうな笑みは、後光でも差さんばかりに輝いている。天馬の周りばかり、温かな光で覆われている。その目映さに目が閉じそうになるのを、いつも瞬きを繰り返すことで耐えた。直視するにはあんまりにも眩しいのに、天馬の目は葵をまっすぐに捕らえてくる。だから、逸らすこともできずに、彼女は潰れそうな目をこじ開けて、微笑むことでごまかした。それ以外に、この不細工な表情を隠す術を、彼女は知らなかった。



 晩冬というには、すでに暦は初春の日付を差している。しかしながら、暖かくなりかけた気温はそのまま素直に流されてはくれず、再び冷気が日本全土を覆っている。外を歩けば途端に手先と足先に感覚がなくなるような具合では、とても「春が来た!」と浮かれることはできない。

 おまけに、今日は牡丹雪が空を舞った。季節はずれにも程がある、紙吹雪を散らしたような風景は、葵を妙にセンチメンタルな気分にさせた。窓の外の雪はどんどん勢いを増し、白い小さな結晶で校庭も向こうの校舎もサッカー棟も葵の物悲しさも、埋め尽くしてくれるような気がした。それでも、雪はただの雪でしかない。学校が終わる頃にはすっかりやんでしまった。儚さゆえ、積もることもない。

 本日のサッカー部の練習は中止という運びになった。儚く消える結晶といっても、空気中を漂う水分。サッカー部のグラウンドはびしょびしょに湿り、とても走り回れるものではなかった。それなら、ご自慢のサッカー棟の室内グラウンドを使えばいいのだが、なんでも顧問の音無 春奈から「もし交通機関に乱れが出て家に帰れなくなってもいけないし、また天候が崩れて体調を悪くしてもいけないから」とお達しが出たそうだ。目先に試合を控えているわけでもないから、たまにはいいだろうということだった。

「葵ー! 帰ろう!」

 帰り支度をする葵の元にやってきた天馬に、彼女は教科書やノートを鞄に詰めながら、人知れずギクリとした。元気を有り余らせた天馬は、いつもなら伸助と共にいち早く部室へと駆けていって、部活の準備をしている頃だろうに。今日の悪天候でその一連の流れがなくなってしまったから、天馬が来る先は幼なじみの葵の元になる。

「あ、うん。……あれ、伸助は?」

 なんとか笑顔を浮かべて訊くと、天馬は「あー」と微妙な表情をして首を傾げた。

「今日は一緒に帰らないんだって。なんか剣城たちと一緒に、次のテストの勉強するとかで」

 ――ということは、二人っきり?

 耳の後ろが熱を持つような焦りが葵を襲う。だが、それと同時にふと顔を出したのは空野 葵が空野 葵たる所以の、お節介な性質である。

「天馬は勉強しなくていいの?」

 今度は天馬がギクリとする番だった。「余計なことを」という顔を隠しもせず、横目で葵を窺う。

「だって……」

 その様子から、天馬が勉強を嫌がって彼らの輪を抜けたことはあきらかだった。

「もうっ、天馬ったら! なに他人事みたいに言ってるのよ。こないだの小テストだってよくなかったでしょ? なんでみんなと一緒に勉強しないの」

 急に声のトーンを上げた葵に、天馬は「うげっ」と顔を青くした。残っていたクラスメートがなんだなんだと視線を向けてくるが、お説教モードに入った葵はその程度では厳しい態度を崩さない。

「せっかく今日は部活がないっていうのに。勉強する絶好の機会じゃない。だからわざわざ信助たちだって、集まって勉強会するんでしょ」

「だって剣城が……」

「剣城くんがなに!?」

「そいつがいると、うるさくてはかどらないからな」

 予想外な方向から放たれた声に、葵と天馬はギョッとして振り返った。

 あいかわらず周囲から浮いた制服姿の剣城 京介が、切れ長の瞳で二人を見ていた。

「剣城くん」

「コイツがいると、やれ『疲れた』だの『飽きた』だの『サッカーがしたい』だのうるさいんだ。前にいちおう呼んだことはあったんだが、そんな調子で五分置きに集中力切らすもんだからこっちが勉強にならん」

 不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、剣城は嘆息した。天馬が「だってじっとしてるの落ち着かないんだもん」と頭を抱える。それを見てもう一度息を吐くと、剣城は葵に視線を移した。

「そんなわけで、悪いがコイツはあんたが面倒を見てやれ」

「あたしが?」

「いまさらだろ?」

「そうだけど……」

 彼の発言に、何故だか葵の語尾は小さくなる。

 涼しげな表情で言う剣城にわずか気圧されながら、

「じゃあ、私も一緒に行くわ。天馬が騒がしくなったら止めるから」

「ほんと面倒見がいいねぇ、空野さんは」

 介入したのは第三者の声だった。聞き知ったそれに振り向くと、狩屋 マサキがニヒルに口元をゆるめて立っていた。

「でも悪いけどオレも天馬くんにはお引き取り願いたいな」

「もう。狩屋までそんなこと言う」

「天馬くんがいるとなんだかんだ中断されちゃってさー。伸助くんは一緒にギャーギャー言うし、剣城は完全に放置だし、影山はオロオロしてるだけだし」

 結局オレが収集するはめになって……と消え入るように呟く狩屋の目は遠い。その斜めから相手を見るような性質とは違い、狩屋は案外不憫な役回りを背負いやすい。厄介事に巻き込まれてしまうのはよくあることだ。まっすぐで猪突猛進な天馬や伸助を諫めることも、振り回されることも少なくない。葵は非常に申し訳ない気持ちになった。

 ハッ! と我に返ったらしい狩屋は、急いで平常時の顔を作る。

「そんなわけで、悪いけど天馬くんは空野さんに任せるよ。あ、なんなら空野さんだけ来る? それなら大歓迎だけど」

 ニヤリと白い歯を見せた狩屋に、葵は唇を尖らせた。

「そんな言い方しなくてもいいでしょ。誰にだって得手不得手はあるもん。――わかった、天馬の勉強はあたしが見るよ」

「ったく、すぐムキんなる」

 一転して、狩屋は呆れたようなつまらなそうな顔になった。肩を竦め、嘆息する。

 その横で、腕組みをした剣城が頷いた。

「任せたぞ。また追試になって練習に参加できなくなったりしないように」

 そういうことは天馬本人に言ってもらいたいものだ、と思いながらも、葵は気を取り直して自身の胸をドンと叩いた。そのご指摘には賛同せざるをえなかったからだ。

「まかせて!」

 天馬の顔が一気にドヨンと暗くなったのが、視界の端に映った。

「ちょっと天馬! なに憂鬱な顔してるの。天馬だって、追試になってサッカーできる時間が減るの嫌でしょ?」

 葵はビシリと天馬を指差し、声高らかに激励する。それに呼応したのか、まるで魂を転送されたように、天馬の瞳に光が灯った。

「そ、そっか! 追試受けることになったら、サッカーの時間減っちゃうんだ」

 「だからそう言ってるだろ」と剣城が突っ込む。

「こうしちゃいられない! 早く帰って勉強しなきゃっ。よーし、頑張って剣城たちよりいい点とってやる!」

 「いや、それは難しい……」という葵の言葉を遮って、天馬は彼女の手をとった。そのまま風のように走り出す。

「じゃーね、二人とも! 伸助と輝によろしく!」

「さっさと帰れ」

「ほんっと単純なヤツだなー」

 剣城と狩屋の呆れ混じりの台詞を後に、葵と天馬は教室を出た。


 また雪が空を舞っていた。灰色の空は身震いするほど重く、足元はぬかるんで滑りそうだった。春奈の読みは正しかった。もしかしたら、数時間後には交通機関に支障が出るかもしれない。

 空気に触れた酸素が白く色付いた。前を行く天馬の茶色い髪が右に左に揺れる。葵は周りの景色が消えていくような、不可思議な感覚を覚えた。

 パシリ――と。手を振り払った。

 天馬が勢いあまって前方に二、三歩つんのめる。振り返った彼は、キョトンと目を瞬かせた。

「葵?」

 葵自身、己の行動がよくわからなかった。ただ手を繋いでいただけだ。昔から、幾度もあったこと。確かに、成長した今ではそう起きることではないが――だからだろうか? いや、違う。訝しげに近付いてくる天馬から、葵は無意識に後退った。

 水を吸った地面が、ズルリと葵の足を奪う。瞬時にひっくり返った天地に、脳は(あっ)と思うことしかできない。フワッと体が浮いた直後、しこたま尻を打ち付けた。

「だ、大丈夫、葵!?」

 同じく、とっさに身動きのとれなかったらしい天馬が、あせあせと彼女の前に屈みこんだ。すべての衝撃を受けた尻と腰が痛む。地の水分を吸った制服のスカートが、少しずつ冷たくなっていく。

「来ないで!」

 唇から放たれた声は鋭かった。まるで悲鳴のような、ガラスを引っ掻くような金切り声は、天馬の指先を止める。

 しんとした静寂に包まれた。葵は俯いたまま面を上げない。上げられない。天馬の足が、躊躇いを感じさせる動きでかすかに地面を踏みしめる。泥と化した校庭の土が、彼のスニーカーを汚すのを間近で見た。

「ねえ、天馬。あたしたちってなんなのかな?」

 唐突に葵は言った。天馬の「え?」という困惑気味な声音が落ちる。

「幼なじみ、クラスメート、友達、サッカー部員とマネージャー。表す言葉ならいくつも知ってる。でもねぇ、違うの。あたしは違うの」

 土ごと掌を握り締めると、先ほどまであったぬくもりが奪われていった。消したくない、消したくない。そう思ったところで独占することも叶わないのに、葵は友人と女の子の狭間をゆらゆらと漂う。いつまで隠しておくことができるのだろう、と気を遠くしながら。

 触れ合う掌をうれしくも思えば、切なくも、苦しくも、憎らしくも思った。相反する意識は、ほんの些細なことで瓦解する。まさかこんな簡単なことで、と愕然とするが、もはや動き出した口を止めることは不可能だった。

「ねえ、天馬。あたし苦しいんだ。このままだと、きっとあたしと天馬はいつか一緒にはいられなくなる。その日がくるのが怖い。でもあたしにはどうしようもないことだよ。ずっと傍にいてほしいなんてワガママだもん。離れなきゃいけない日がきたら、笑って見送ってあげたいって思ってる」

 呼び止める権利も、隣で笑う幸せも、いつかは他のだれかに譲り渡す時がくる。一生を賭けて守りたいと思える人が、きっと天馬にも現れる。それを邪魔することがどうしてできるだろう。

「なのに、あたし、バカなんだろうね。天馬にどこにもいってほしくないの」

 なぜ自分ではいけないと悩むのも事実。そんな現実を意識し始めると、純粋無垢な天馬との間に齟齬を感じだしてしまうのも致し方ないことであった。葵だけが影のある場所に置き去りにされて、天馬は明るい日向を歩いていく。その背中は眩しくて、目が潰れる。追いかけようと、追いつこうと手を伸ばしてみるも、あまりの目映さに位置情報すら正確に把握できない。結果、葵は重すぎる感情に足をとられ、転んでしまう始末だった。

「ごめんね」

 こんな無様な姿をさらしたくはなかった。天馬の前では、気丈でしっかり者な姉を演じていたかった。そんな見栄っ張りが、現実と願望の歪みを顕著にしていくと、葵は最近まで気付けずにいた。彼女はまだ幼かった。天馬は――

 天馬は彼女より幼かった。年齢ではなく、内面の話だった。少なくとも、葵はそう思っていた。

 天馬の手が葵の肩を包む。子ども体温なあたたかさが、冷えた彼女にじんわりと熱を分けた。

 葵は顔を上げる。サッカーをする時のような、いや、それとはまた違った真剣な表情を天馬はしていた。思わず、息を飲む。

「そんなこと言うなよ、葵」

 彼は悲しそうに眉を寄せた。

「俺だって葵のこと大事だよ。なんで一緒にいられないとか、そんな悲しいこと言うのさ。嫌だよ、俺。いつか葵と離れなきゃいけなくなるなんて」

 葵の頬に、淡い牡丹雪が一つ落ちた。

「葵とはずっと一緒にいたから……距離ができるって感覚がわからない。そりゃあ、俺たちだっていつまでもここにいるわけじゃないだろうし、進学とか就職とか、離れることもあるかもしれない。でも、俺はやだ。葵とおんなじ学校に行って、おんなじ部活をして、一緒に帰って――そういうのがなくなるのは寂しいよ。やっぱりやだよ。名前なんかなんだっていいじゃん。まだ来てもない将来の話なんか遠すぎるよ。そんなの考えたらキリがないよ」

 ストン――と、天馬は葵の前に座り込んだ。力尽きたようにも見えた。つい、泥にまみれる制服を気遣ってしまうのは、葵の葵たる性だった。

「葵の考えることは難しいよ。しかもいきなりだし、そんなふうに言われたら俺だって怖くなる。不安になっちゃうじゃん。葵は――葵はずっとそばにいるって思ってたから、なんかそんなの……」

 続く言葉が探せないのか、天馬の唇がわなないて止まった。もどかしそうな顔が、明朗快活な彼には似合わない。

 ふいに、天馬はガバッと頭を抱えた。「あーっ」と唸るような呻き声を上げる。

「ダメ! やっぱり俺、こういうこと考えるの苦手だよ」

 本気で悩んでいるらしい。まいった、という様子でうーんうーんと地面を睨んでいる。

「天馬」

 葵の小さな声に、天馬は顔を上げた。

「一緒にいられるかな? あたしたち。一緒にいたいって思ってれば、離れなくてもいいのかな。そうやって、ずっと一緒にいて、大丈夫なのかな?」

「わかんない。でも……」

 次に続く言葉を、葵は知っていた。だれよりも長い間、天馬の隣に立ってきたのだ。彼のことなら、彼女はたいていなんでもわかっていた。

「なんとかなるさ!」

 予想どおりの台詞が自信満々に発されて、とうとう葵は泣いてしまった。天馬がギョッと飛び上がる。

「あっ、葵。どうしたの、大丈夫っ?」

 傍目にもあきらかにオロオロとする。それを見て落ち着くことはなく、葵は空を仰いでわんわんと声を上げた。下校中の生徒たちが、何事かとこちらを凝視している。

 天馬は天馬で、葵がどうして泣いているのか、おそらくわからないのだろう。かける言葉に困っているようだ。だが、葵が天馬をよく理解しているのと同じく、天馬も葵のことをよく理解していた。葵のこの泣き方が、悲しみに満ちていないことを、彼は本能的に感じとっていた。だからよけいにどうするべきかわからない。彼の中には、“うれしい時=笑う”という単純きわまりない思考回路しか存在しない。なぜ泣かれるのか見当もつかない。仕方なく、葵の頭を優しく撫でているしかなかった。幼い頃、転んで膝を擦りむいた自分に、彼女がしてくれたように。



「なにやってんだ、あの二人は」

 校舎の窓辺に、二人の男子の影がある。剣城 京介と狩屋 マサキだ。廊下の窓から見下ろす校庭に、先ほど見送った連中がいることを目ざとく見つけたのは狩屋だった。

「なんか空野さん泣いてねぇ? 天馬くんなにやってんの?」

「ほっとけ」

 興奮気味に窓ガラスにくっつく狩屋をよそに、剣城は立ち止まることなく言った。

「でもさぁ……」

「アイツらのことだ。すぐに元どおりになる」

「ほんと冷たい奴だな、アンタ」

 溜め息を吐きながら、狩屋は剣城の背中に目線を移す。

「平気だよ、狩屋。こういうことに周りが干渉するのは無粋だよ」

「そうですね。そっと見守ってあげましょう」

 突然背後からかけられた声に、狩屋は大袈裟に肩を揺らした。剣城は少しだけ目を開いて、振り返る。

 声だけですぐに相手を察した狩屋は、察したからこその驚きと奇妙な恐怖心にさいなまれつつ、後ろを見た。

 西園 伸助と影山 輝がそこにいた。

「そういうもんかな」

 引きつり気味な笑みを浮かべると、二人は平素となにも変わらない様子で朗らかに頷いた。

 末恐ろしいものだ……

 狩屋は「ハハハ」と乾いた笑いをこぼす。

 まるでなにもわかっていなさそうな二人がすべてを理解し、達観した目線で見ていたことに、侮れないなと怖い気持ちになる。見ただけでは、他人がどこまで知っているかなどわからない。まったく、恐ろしいものだ。狩屋は再度、引きつった口端を持ち上げた。

 まあ、ならばそっと見守ることに徹しようではないか。

 もう一度校庭を見やれば、あいかわらず豪快に泣く空野 葵と、困り果てた様子の松風 天馬。

 あんな危なっかしいのをどうやってほっとけばいいんだ。ボソリと呟くと、狩屋は優しいねと、伸助が声を弾ませる。それに「は!? そんなんじゃねーし!」と返す狩屋の頬は、なんともわかりやすく赤かった。拗ねてしまったのか一人で歩きだす狩屋の背中を、伸助が肩を竦めて、輝が苦笑しながら、剣城が呆れた様子で眺めていた。


 校庭に佇む少年少女は、寒空の下、変わらずうずくまったまま向き合っている。変わったのは、少年の方が少女を優しく抱きしめたことくらいだ。

 良い仲間に囲まれて、天馬と葵はとても祝福されていた。残念なことに、当人たちはそれをまったく知らなかったのであるが。






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