季節は晩夏。すでに陽が沈む頃は少し肌寒い、秋の入り口。もうすぐ刈られるであろう金色の稲穂が、静かに風に揺れる様を横目に、きり丸とナオミは、山あいに沈んでいく夕日に向かって、あぜ道を歩いていた。


「悪いねぇ、ナオミちゃん。手伝ってもらっちゃって」

 歯を見せて笑いながら、きり丸は申し訳なさそうに眉を下げた。だが、表情に曇りはなく、あっけらかんとしている。

 彼の背には、からっぽの籠が背負われている。元々は、きり丸へのアルバイト依頼を求めるビラが目一杯詰め込まれていたのだが、それも数刻前の話。彼のフットワークの軽さは折り紙付きだ。瞬く間にビラは街中にばらまかれ、人々はきり丸という優秀なアルバイターの名を記憶に刻み、きっと明日にでも、彼の元にはたくさんの依頼が舞い込むことだろう。それが赤ん坊のお守りだろうが、獰猛な犬の散歩だろうが、皿洗いだろうが、洗濯だろうが、肩たたきだろうが、完璧にやってのけるのがこの男。摂津のきり丸は、金の絡むことに関して超人的な万能さを発揮する。

「いいけどね、別に。暇だったし、同じ学校のよしみで手を貸さないのもどうかなと思ったし」

 今回、そのきり丸に助力したのが、くノ一教室のナオミである。当初、彼女は明確な目的も持たずに、フラフラと街を見て回っていただけだったが、そこでビラ配りをするきり丸とはちあった。


『あれ、くノ一教室の……えっと』

『ナオミよ』

 名前の部分を強調するように言う。

『そういうアンタはきり丸よね? アホのは組の』

 するときり丸は少々ムッとした顔をし、

『開口一番にアホってこたないだろ。確かに教科の成績はよかないけどさ』

 認めてしまうのか。ついついナオミは笑ってしまった。きり丸が不思議そうに、つり上がった瞳の片方を細める。

『私、手伝ったげようか』

『えっ! ほんとに?』

『行きたかったお団子屋さんは休業日だし、簪やら着物やらを見るには持ち合わせがないの。暇してたんだ』

『助かるよ!』

 そんなわけで、きり丸の営業の手伝いをすることにあいなった。元々のきり丸の手腕に加えて、快活で愛想のよい助っ人の登場。ビラはあっという間にはけ、軽くなった荷物にほくほくと笑いながら、きり丸は帰り道にうどんをご馳走してくれた。

「きり丸はすさまじく金にうるさいって聞いてたから、まさか奢ってもらえるなんて思ってもみなかったわ」

「今日は助かったからね。確かに俺ぁドケチだけどさ、義理人情欠いたらおしまいだろ。でも、こんなことめったにないぜ。他の奴には内緒にしてくれな」

「ありゃ、そうなの?」

 手伝いをしたからと言って、必ずしも礼をするわけではないということか。ナオミはしばし黙考する。普段、彼が交流する人間の大半は男だ。それならば、こういう時に手伝いを買って出る、または頼まれる相手も、やはりほとんどが男だろう。その後に待ち受けるハプニング等で、穏やかに終われないのも理由の一つかもしれないが、

 ――私が女だから、ってのもあるのかな。


「まあでも、私も忍たまの手伝いしたなんてくのたまの子たちにバレたら怒られそうだから、結局は秘密にしなきゃかも」

「ははっ、そうだなー。ナオミちゃんはくのたまなのに優しいよな。トモミちゃんたちにも見習わせてやってよ」

「そんなこと言うと怒られるわよ。私が告げ口しない保証なんてないと思うけど?」

「わあああっ、秘密! 絶対言っちゃダメだからな!」

 わたわたと両手を振り回す、自身より背丈の低い少年の姿に、ナオミはまたキャッキャと笑い声を上げた。


 元より、口を利いたことすらない間柄だ。くのたまのみんなで忍たまたちをイビる時くらいしか、顔を合わせたことはないかもしれない。彼らと交流の多いユキ、トモミ、おシゲ以外のくのたまたちは、案外彼らの記憶から淘汰される傾向にある。悲しいことだが、それが現実だ。きり丸が今、ナオミに対する認識を新たにしたように、実際には他のくのたまたちにもいろいろな子がいて、それぞれが個性的で、一概に“くのたまだから”とまとめきれはしないのだが。細かな内面を表す場がないから仕方がない。忍たまたちが知るくのたま像は、罠を仕掛けたり、策に嵌めたりする時の悪女な姿が強い。

 だから、きり丸はナオミの人物像をほとんど知らないだろうし、実際に知らなかった。どうも彼らには、くのたまは皆意地悪で悪戯好きで忍たまに厳しいという固定観念が存在するらしい。ナオミがきり丸を、ただのがめつい守銭奴だと思っていたのと同じことだ。自分たちもそれなりのことをしているからなのだが、苦笑する気持ちを抱くのも事実である。


「いやぁ、しかしこれで明日からまた忙しくなるぞー! 銭がガッポガッポ」

 あっひゃっひゃ、と目を小銭にして笑うきり丸は、涎でも垂らさんばかりの悦な様子だ。それを見るナオミの頬がひくつく。

「銭もいいけど、せっかくの休みなんだからバイトばっかしてないで遊んだりすれば?」

 彼女の言葉にきり丸は異空間な空気を消し、「ん?」と目を瞬かせた。

「基本的に俺の休みはバイトに費やすって決めてんの。あとは土井先生と一緒に家に帰ったりね」

「ああ、そういえば土井先生と一緒に住んでるんだよね」

「そーそー」

 親がいないんだっけ、とは無論、口にしない。“戦災孤児の少年が入学してくる”という話は、きり丸たちが忍術学園の敷地を跨ぐより先に、風の噂に乗ってきた。

 それにしては。


「でも、友達と遊ぶ時だってあるじゃない」

「普通に遊んだりもするぜ? 俺のバイトを手伝ってもらったりもするけど」

「なにそれ。ってことはあれなの? いつもだいたい一人でアルバイトに精を出してるの?」

「そうだなぁ」

「こんな人気のない帰り道で、山賊にでも襲われたらどうするのよ。危ないわ」

「はははっ、それ俺がナオミちゃんに言う台詞な気がするけど――」

 きり丸の言葉を遮るように、ヒュンッ、と空を切る音がした。

 きり丸の足が、しんべヱの鼻水でも踏みつけたようにビーンと止まる。息を飲んだ彼は、一度口を大きく開けると、ゆっくりと静かに飲み込んだ呼吸を吐き出した。ふいに静まり返った空間で、ひぐらしの声だけが場違いにうるさい。


 細く動く喉元に、鈍い光を放つ刃が突きつけられていた。皮一枚分の距離を保って、鋭いクナイがピタリとあてがわれている。少しでも身じろぎしようものなら、ピッと切れたそこから赤い鮮血が滴り落ちることだろう。それを握るナオミは、クナイと同じような不穏な瞳をちらりとも揺らさない。

「きり丸、私は真面目な話をしている」

「……別に、俺も間違ったことを言ったつもりはないけど?」

「呑気な奴ね。もし私がお前の命を狙う間者だったらどうするつもり?」

「どうするもこうするも。ナオミちゃんは忍術学園のくのたまだろう」

「それが浅はかだって言ってんの。状況を見なさい。私がこのクナイを真横一線に振り抜けば、たちまちあんたは喉から血を吹き出して死ぬわよ」

 渋い表情をするも、いたって平常どおりなきり丸の様子に、ナオミはますます目尻を尖らせる。

「どうする、きり丸」

「『どうする』って?」

「懐に隠した武器で応戦する?」

 きり丸は呆れたように眉を寄せ、胸がむかついてたまらないというような溜め息を吐いた。

「するわけないだろ。できないよ、俺には」

「それは私が女だから? それとも、そんなことはありえないと高を括っているからかしら」

「身内だからさ」

 よどみない答えに、ナオミは一瞬押し黙った。間髪置かずにさらに剣呑な形相になり、

「馬鹿馬鹿しいな」

 クナイを握る手に力がこもる。鋭利な切っ先が、きり丸の喉の皮膚を薄く裂いた。途端に糸のような赤い線が浮かび、音もなく彼の首筋をつたった。


「『身内だから』なんて、不確かで独りよがりな意見で命を落とすの。一年生と言えど、考えが甘すぎるんじゃない」

 きり丸はじっとナオミの視線を受け止めている。

「自分の身を守るためにも、もう少し相手を疑ってみたらどう? 世の中はそれほど善人ばかりじゃないわよ。話し合いで事が解決するのなら戦は起きないし、人は死なない。よく知っていることでしょう」

 酷薄に唇をつり上げてみるが、彼はあいかわらず微動だにしない。流れる血液も、そのせいで赤黒く変色する襟元にも、意識をはらっていないようである。

 ナオミも口を閉じ、その目を強く睨みつけた。闇の中で蠢く狼のような瞳。対するのは、狼の走る姿を物言わず見つめる草や月や地面のような、ひっそりとした瞳。壁で覆い尽くされたような、不可思議なまでの不可侵領域。


 ふう、とナオミは息を吐いた。

「あーあー、やめやめ。全っ然おもしろくない。もっとビビってくんなきゃいじめ甲斐がないよ」

 きり丸の首元からクナイを離すと、ナオミはそれをクルリと回した。クナイに付いた血がパッと散る。流れるようにそれを懐へと仕舞い、彼女は体勢を元に戻した。

「いやぁ、結構ビビってたぜ。いきなりクナイ出すのは勘弁してくれよ」

 きり丸も固まっていた体をほぐすように前屈みになり、上目遣いで彼女を見た。

 その訴えるような目線を無視して、ナオミは歩き始める。

「あーもう興醒め。さっさと帰ろ。お腹空いちゃった」

「無駄なことするから」

 苦笑しながら、きり丸も籠を背負い直して、歩みを再開する。

 夕暮れが濃い橙色をして、道を、景色を、人影を、染める。特別な会話もなくなった空気の中で、ナオミはザクザクという自分たちの足音だけを聞いていた。


 ――無防備すぎやしないかと思ったのだ。同じ学園の生徒だから、女だから、子どもだから。そんな理由で防御策を欠いているのだとすると、生い立ちのわりにいやに楽観的に構えた奴だ、と。

 女子どもだからと言って、殺生を免れるわけではない。無慈悲な暴君の刃は、弱さや階級を問わず、邪魔な人間すべてを一掃するべく振るわれる。殺されなかったとしても、捕虜の行く末など、人以下の畜生扱いか、女なら色街にでも売られて生涯下衆共の玩具となる。そして、そんな外道の足場をより完全なものにするために、自分たちの目指すような職があるのだ。同窓生なのだからという理由で味方と決めつけると痛い目を見る。そう、実感させようと思ったのだが――

「よけいなお世話だったかな」

「へ?」

「なーんにも!」

 彼を見ていてわかった。

 ――そうか、経験してきたものが違うのだ――と。


 彼は、本当の戦を目の当たりにしている。当事者である。上の勝手な都合だけで村を襲われ、家を焼かれ、親を殺され、自分だけが残された。学園に来るまでの彼の生き方などは聞いたことがない。語ったことがあるのかも知らない。ただ、壮絶なものだったろうと想像するだけだ。戦災孤児に対する保護などないに等しい。己だけで生き延びるしかない。

 木の根や草を噛み、川の水を飲んで腹を満たす。死人から着物を剥いで着、またはそれを売りさばき、懐からありったけの銭を奪って今日を凌ぐ。そこらをうろつく盗賊やごろつきに身を震わせ、物影に隠れて息を詰める。時には見つかって身ぐるみ剥がされ、暴力の餌食となり、用済みのゴミのように道端に放り出される。血が抜けて頭がぼんやりする。意識のうつろなまま、木々の間から見える月を見上げて「どうしてこんなところで生きているのだろう」と自問する。

 ゾッとした。そこらに溢れている話だからこそ、この少年がそんな毎日を過ごしてきたのかと思うと、奇妙な現実味に背筋が凍った。

 なにもかもなくして、他に生きていく術がなくなったから、忍術学園へ来た。最初の日、彼はそう言ったらしい。その裏側にあるものを考えると、いささか恐ろしい気分になる。

 たぶん、彼は人を殺すことに躊躇しないだろう。きり丸には家族がいない。天涯孤独の身の上だ。だからこそ、命の尊さを知っているし、人の命がいかにちっぽけで、圧倒的な力と武器の前に無力であるかも痛いほど実感している。誰よりも生命の重さを知りながら、失うもののなくなったがらんどうの心で、足枷のない身軽な体で、敵を討つ。そう決心したからこそ、あの学園にいるのだ。けして安くはない入学金を自身で働いて支払い、日々の学費のためにこうしてアルバイトに明け暮れる。アホのは組と蔑まれようが、座学は退屈だと居眠りをしようが、学園を去ることは考えない。矛盾だらけのようだが、筋が通っているようにも思える。


「しっかし、ナオミちゃんもくノ一の卵だなー。やっぱこえーや」

「あら。こういうのはほんとはアンタたちの専売特許でしょ。あたしたちはもっと高度な技を使うんだから」

 うふ、と微笑んで体を擦り寄せてみると、今度はきり丸も露骨に飛び上がった。

「そういうのは俺はまだわかんないしっ」

 焦り気味にナオミを押し返すその顔は、ほんのり赤かった。動揺するところが違うんじゃないの、と言いながら、彼女もおとなしく距離を取る。

 まあ、あたしだってまだ知らないけどさ、とは、格好がつかないから口にしない。対等であればいいのに、無意味にお姉さんを気取ろうとするからこういうことになる。優位な場所に立ちたいと思うのは、年上の女特有の意地のようなものか。


「俺はさ、血の繋がった家族って、もういないんだ」

 唐突に、きり丸が口火を切った。

「だから、今は忍術学園の先生や先輩や友達が家族みたいなもんなんだ。少なくとも俺はそう思ってる。その家族を自分でどうこうするなんて、したくないんだよね。もう一回失うなんて耐えられないんだ。くのたまだって同じ学園で学んでるんだから同じこと。たとえナオミちゃんが本気で俺に襲いかかってきたとしても、俺は手裏剣一つ向けられやしないよ」

 面は伏せているが、きり丸の言葉はハキハキとして、悲観的な風もない。今日はありがとう、と言うのと同じような声のトーンだ。

 明暗の強すぎる景色のせいで、息がしづらかった。


「だから最後に俺を見送るのは、病気でも盗賊でもなく、かつての仲間なんじゃないかなぁって思うんだ」

「そう……」

 ナオミは頷いて、それ以降は口を利かなかった。きり丸も同様だった。忍術学園までの道のりを、黙ってもくもくと歩いた。

 愚かなことをしたものだと思った。こういう子に関わる場合は、自分の性質をきちんと把握したうえで声をかけなければならなかった。


 ナオミは脳内で、来週の休みの予定を思い出す。級友のミカと、新しくできた店へ鏡や簪を見に行く約束をしていた。繰り上げなければならない。どうせ来週のこの日も、優秀なアルバイター摂津のきり丸は、子守りに掃除にお使いにと大忙しだ。彼のように常識はずれな才幹は身に付けていないが、多少の手伝いくらいならこなせるだろう。考えながら、ナオミは思わず嘆息した。

 仕方がない、なんの罪もない少年の喉に傷を付けた報いだと、ひとまずは自分に言い訳をつけた。

 山と山の間に夕陽が沈んでいく。いまや半分以上が隠れてしまったそれに向かって、ナオミは掌を翳した。赤く燃える血潮は、生きている証だった。






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