※捏造過多・年齢操作




 小鳥遊 忍は泣いたことがない

 ――というのはもちろんただの誇張表現で、完全なる事実ではない。

 人は赤ん坊から大人になる。それは覆すことのできない、絶対の不変だ。どんな人間も皆等しく命の種から生まれ、赤子の時期を介して成長していく。そして、赤子というのは、泣くことを日々の勤めとしているようなものだ。目が覚めたと泣き、腹が減ったと泣き、母の姿が見えないと泣く。小鳥遊 忍が超次元的な星から送られた使者であったり、とある研究所で開発された人造人間でもないかぎり、彼女もまた、赤ん坊の時分を通ってここまで成長したということだ。つまり彼女にも、一日の大部分を泣いて過ごしていた頃が確かにあった。

 しかし、ここで言う「小鳥遊 忍は泣いたことがない」というのは、そういう不可抗力とは離れた話になる。正しく言うなら「小鳥遊 忍は、物心ついてからというもの泣いたことがない」だ。その言葉のとおり、彼女は物心がついてから、はっきり「泣いた」と言えることがなかった。

 小鳥遊は気丈な少女だった。また、家庭環境もよくはなかった。実の母に手を上げられる毎日を過ごしているうち、痛みで涙を流すことはなくなった。同時に「悲しい」や「苦しい」といったことで涙を流すこともなくなった。それが除外されれば、この世はなんということもない。泣かなければいけない事態など、そうありはしなかった。小鳥遊は、自らなにかを求めるということを放棄していた。ほしいものは得られないものとして、最初から諦める姿勢を取っていた。だから、「悔しい」と涙を流すこともなかった。

 そうしているうちに、小鳥遊 忍は“泣かない女”になっていった。



 街の中心部から離れると、灯りが消えたように暗闇が景色を飲み込んでいる。ずいぶんはずれたところまで来たものだ。街灯の少ない歩道や、自分たちの乗る車を覆うように生える木々たちが、高速で流れていく。

「このへん静かでよくない? デートスポットってかんじするよな」

 運転席に座る男が、小鳥遊に言った。

 横目でこちらを窺うその男は、つい先日、街ですれ違っただけの他人である。顔はいまいちだが、格好よく見せるための努力は怠らないといったタイプだ。

 彼はその日、ナンパの口上のかわりに、気取った仕草で投げキッスを投げてきた。同じように、彼女はそれを投げ返した。小鳥遊も、それなりに男のサイクルは早いほうで、めんどくさくない遊び相手というのは好きだった。彼は車に凝っていると自称していて、初めてのデートにドライブを提案してきた。

 ぼうっと外の風景を見ていた小鳥遊は「全然」と答えた。こんな寂しいところに、おもしろみのかけらもない男と来て、なにが楽しいというのか。遊び相手なら、街に出て夜遊びしている方が、ずっと退屈しのぎになるのだ。興味をそそられるユーモラスな話題提供の皆無な相手との密閉空間は、疲労を感じこそすれ、充実した満足感とは程遠かった。最初の挨拶じみたやりとりが終わってから、自分の自慢話と昔付き合っていた女の話をエンドレスされている。「鼻の高さが外人ばりでよく羨ましがられる」という話が二周目に入ったあたりで、小鳥遊は男の声をシャットアウトすることに決めた。彼女から言わせると、ただデカいだけの鼻だった。

 車に凝っているというわりに、運転のほどはひどいものだ。助手席に女を乗せて披露するレベルではない。同じ車好きでも、前に付き合っていた男はもっと上手だったし、会話運びもそれなりにスマートで理知的だった。それにくらべて、今回はなんとひどい小物に当たってしまったことか。

 気持ち悪い……。

 小鳥遊はあまり車に強くない。もともと酔いやすい方だ。バスや電車などでも酔うことがある。それでも普段は涼しい顔をしてじっと我慢しているが、その虚勢すら張れないほどひどい運転だった。暖房はききすぎて息が詰まるし、男の声はギャンギャンとうるさい。グラグラとした頭痛と吐き気が、臨界点を突破しそうになる。

 横の男は正直な反応が癇に触ったのか、「なんだよ、空気読めないな!」と身勝手な駄々をこね始めている。

 とりあえず気分を諫めるために、小鳥遊は目を閉じて息を吐いた。窓を薄く開けると、冬の冷たい風がヒュウッと吹き込んでくる。息をするのも困難なほどあたためられた車内で、今はその肌寒さが心地よい。夜風にあおられて、小鳥遊の制服のスカーフが小さく揺れた。

 似合わねー……。

 パタパタと踊る赤いスカーフを、少し不思議な気持ちで眺める。高校生になってから着るようになったこのセーラー服は、自分で言うのもなんだが笑えるほど似合っていなかった。母親のあまりの仕打ちを見かねた周囲が、小鳥遊を母親から隔離し、彼女は遠縁の親戚に引き取られることとなった。彼女を引き取った遠縁は、面倒事を投げ捨てるように小鳥遊を全寮制の高校へと入れた。年に一、二回、顔を合わせはするが、その他はもっぱら放置体勢である。ただ、お互いの体裁のために、最低限会う機会を作っているだけだ。小鳥遊はそれを面倒きわまりないと敬遠しているし、向こうも会いたいなどとは思っていない。

 ほどほど理想的な環境だった。無用な干渉も馴れ合いも必要なく、なに不自由なく暮らしていられる、今の暮らしはまさにベストと言えた。学校が変わり、今まで口を利くことも憚られたような“普通の女友達”との毎日も、生ぬるく穏やかでこそあれ、泣くような起伏とはほど遠かった。

 けれど、ふと、中学の頃の制服が懐かしくなる。濃緑の、軍服を模したデザインの、あの制服。あれは小鳥遊によく似合っていた。桃色の派手な髪と相性もよかったし、彼女のきつめの雰囲気とあいまって、ひれ伏したくなるようなオーラを漂わせていた。あの頃の自分が今の自分を見たら、「腑抜けた」と声をかぎりに叫んだかもしれない。だが、小鳥遊はそれを軽く嘲笑う。不便な場所でいきがっていたお前の方が、ずっと馬鹿らしい格好だったのよ、と。あの時世界のすべてだったものは、こんなにも簡単に跡形もなく消えてしまった。

 男は、まったく返答もされていないのに、一人でなんやかんやと声を荒げている。いや、逆に反応されないからヒートアップしているのか。こういう奴は自意識ばっかり高くて困るわ、と小鳥遊は窓の向こうに目をやった。

 あ、と彼女は目を見開いた。突如現れた風景の中に、サッカーグラウンドがあった。自然に囲まれるようにして設置されたグラウンドは、ミニサッカーやフットサルくらいしかできなさそうな小さなものだったが、妙に幻想的に見えるほど、彼女の心をつかんだ。

 すると、突然車がキッと音を立てて急停車した。ガクンと前後に振られ、小鳥遊は頭をシートにしたたかに打ち付ける。

 いったぁ、と後頭部を押さえていると、男は手を伸ばして小鳥遊の側のドアを開けた。

 え? と思う暇もなく、横っ腹を蹴り飛ばされる。いきなりの衝撃にもつれながら、小鳥遊は車の外に放り出された。アスファルトに転がり、冷たさと痛みで思わず咳き込む。顔も上げないうちにバタンとドアは閉まり、車は小鳥遊を置いて、夜の暗闇の中に消えていった。

「――信っじらんねぇ!」

 しばし呆然としたのち、小鳥遊は叫んだ。人通りのない場所で、その声はこだますら返ってくるほどだった。

「いくらなんでもこんなとこ捨ててく、フツー? ありえねーし、寒いし、痛いし」

 体をさすりながら、ハアッと溜め息を吐く。

 とりあえずタクシーが拾える辺りまで出よう、と小鳥遊は歩きだした。そしてまた、あのサッカー場が視界に入る。なぜか無視して通り過ぎることができず、彼女は中を覗き込んだ。

 ポン、とボールの音がして目を見張る。誰かがいた。夜の闇の中で、黒いシルエットが、器用にボールを操っている。ドリブルをしながらゴールに一直線に向かい、一度見えない敵にフェイントをかけるような見事な足捌きで、先へボールを渡す。素早く相手を抜き去り、ボールに追い付いた人影は、ゴールに向かっておもいっきり足を振った。美しい軌道を描いて、シュートはゴールへ刺さった。

「うそ……」

 その動きには見覚えがあった。かなり洗練され、変化しているが、細かなクセや全体的な動作は、昔自分が間近で見ていたものと酷似している。

 人影がこちらを見た。ギクリとしている間に、こちらへ向かって歩いてくる。逃げようかとも思ったが、もしかしたらという期待感で足が動かなかった。

 街灯に照らされるあたりまでやってくると、相手は小鳥遊を見てニヤリと笑った。

「よー、小鳥遊。久しぶりじゃねぇか」

 それは間違いなく、不動 明王だった。



「不動……アンタなにやってんの」

 あまりの驚きに瞠目しながら言うと、不動は笑った口元のまま、軽くリフティングして見せた。

「なにって」鼻から息を吐くように嘲笑する。

「サッカーに決まってんでしょ。シノブちゃんは男に捨てられて寂しく一人歩きでちゅかー?」

 からかう時に「シノブちゃん」というクセはあいかわらずか。小鳥遊は不快感と苛立ちを顔いっぱいに浮かべながら、不動を睨んだ。

「見てたのかよ。マジ悪趣味」

「こっちのセリフだっつの。よくあんなんと付き合う気になったな」

「付き合ってないし。ちょっと誘われたから乗ってやっただけだし」

 不動はヒューッと口笛を吹いた。

「清楚なカッコんなって落ち着いたかと思いきや、お前の駄目女っぷりは変わんねーな」

 そしてゲラゲラと嫌みったらしい笑い声を上げる。それはめまいがするほど懐かしい感覚だった。不動 明王、中学時代、わずかな間だがチームメイトだった男。自分を従えていたキャプテン。共に走り、技を磨き、たった一つの目的を遂行するためだけに育てられ、そして捨てられた悪しき記憶。海の中に沈むはずだった、遠い黒歴史。

「アンタまだサッカーやってんだ」

 不動のリフティングは途切れない。無駄な力を入れずに、気軽に跳ね続けるボールがどれほど扱いにくいものか、小鳥遊はよく知っている。見事だった。思わず、目がボールの動きを追ってしまう。

「まーな。お前はもうしねぇのかよ」

「するわけないじゃん」

 小鳥遊は、フェンス際に設置されていた簡易ベンチに腰をおろした。

「もうあたしにボール追っかける意味はなくなったんだよ」

 すべてあの日に終わった。信じていたもの、目指していたもの、付き従っていたもの。すべてが脆く崩れ、終止符が打たれた。自分たちはただの基盤でしかなかった。駒ですらなかった。小鳥遊も、目の前の不動も。唯一無二のキングを生みだすための、土台であり、足場でしかなかったのだ。そして終いには、その象徴を道連れに、舞台は海の藻屑と化した。そして、真・帝国学園は消えた。

 不動がふいにリフティングをやめた。地面にボールを落とし、足で止める。そのまま彼はポンッと、ボールを小鳥遊の足元へ蹴った。ゆるやかな速度で転がってきたボールは、小鳥遊の足に当たって停止した。

「小鳥遊」

 小鳥遊はボールから顔を上げた。不動は笑って彼女を見ていた。彼女が知っているものと違う、いやに落ち着いた読めない微笑だった。

「サッカー、やろうぜ」

 どこかで聞いたようなセリフに、小鳥遊は後ろ手をついて顔をしかめた。

「はあ? なに言ってんのよ。あたし制服だし、ローファーだし」

「体育館用の靴でも持ってねぇのかよ」

「……室内競技の人間が聞いたら、罵詈雑言の嵐よ」

 げんなりした顔で言うと、「ってことは持ってんだな」と、まるで言質をとったと言いたげに、不動は鼻を鳴らした。腰に手を当てて、小鳥遊が立ち上がるのを待っている。めんどくさ……という顔を隠しもしないまま、小鳥遊は鞄の中のシューズを取り出した。今日にかぎって持ち帰ってしまうとは、悪い意味で運が強い。

(ごめんね、室内競技の人)

 心の中で謝りながら、ローファーからシューズに履き替え、地面を踏みしめる。ついでに今日の体育のために持ってきていたジャージを羽織り、プリーツスカートの下に履いた。スカートは脱ぎ、ベンチに置いた鞄の上へと放る。ダルさと意欲のなさが邪魔しているだけで、実はそれほど抵抗はない。そういうことを真面目に気にするガラでもなかった。どうせそれを見越したうえだったのだろう。この男は、思っているよりずっと人のことを見るのがうまい。

 小鳥遊からのキックオフだ。足先でクイッとボールを引き寄せ、自分の陣地に入れる。ハッとするような、懐かしい感触だった。

 顔を上げると、不動が不敵な笑みを浮かべて、小鳥遊の動きを待っている。その余裕が癪に障り、小鳥遊はすぐさまボールを蹴った。体に染み込ませたドリブルの感覚が蘇る。走る、蹴る、離れる、吸い付く、また走る。そんな単調作業が、どうしてこんなにも難しい。

 不動の前まで来ると、小鳥遊は一度ボールを止めた。逃がさぬよう、渡さぬよう、小さな球体に意識を集中させる。右に、左に、軽く転がしながら、不動の目の奥を探る。呼吸を深く、しかし止める瞬間は気取られないよう、息を潜める。たったこれだけの動きで上下する肩が煩わしい。

 ちらりちらりと揺れる体の、一瞬の隙を狙う。サッと左足でボールを右側に蹴ると、不動も素早くそちらにモーションをかける。それを見定めてから、小鳥遊は右に移動しかけていた体重を左へと移した。右足をめいっぱい伸ばし、放ったボールを捕まえる。引き付けながらそれを今度は左側へ蹴り、そのまま不動を抜いて走りだそうと小鳥遊は地を蹴った。

 音もなく、ボールが足元から消えた。確かな感触の喪失に、小鳥遊はなにが起こったのかとっさには理解できなかった。周囲の把握をしようと振り向くと、思考に追い付けない足が絡まって、彼女は無様に土の上に崩れ落ちた。

「いっつつ……」

 なんとか手をついて顔を上げると、ザッという音が耳に飛び込んだ。すでにはるか遠くへ行ってしまったボールが、不動によってゴールへ蹴り込まれる。あっさりとした、あまりにあっさりとした負けだった。小鳥遊は呆然としたまま、息一つ乱さない不動の姿を見ていた。

 すると、不動はくるりと、体ごとこちらへ向き直った。見下すような笑いを浮かべ、人差し指でちょいちょいと彼女を招く。「来いよ」と、その目が言っていた。

 こういう、相手の神経を逆なでするような挑発的なパフォーマンスは健在のようである。対戦者を苛立たせる不遜な態度は、その人間を逆上させ、冷静な判断力を鈍らせる。

 しかし――

 小鳥遊は、スッと立ち上がった。背筋をまっすぐに正すと、ふうと軽く息を吐く。不動はこちらを見たまま、動く気配がない。目を閉じて、小鳥遊は細かく結った桃色の縦ロールに手を入れた。バサリッ。舞台上の役者が付ける派手なアクションばりに、彼女は髪をかき上げた。頭を反対側に振りながら、口元に笑みを浮かべる。その瞼が流し目をともなって開き、小鳥遊 忍は17歳とは思えぬ妖艶な微笑を浮かべた。

 不動がニヤリと口端を上げる。

「イー顔すんねぇ、シノブちゃん。しびれるぜ」

「はあ? 『ビビる』の間違いじゃないのぉ? 足震わしてチビんじゃないわよ、ハゲ」

 高圧的で高飛車なプレイスタイルは、小鳥遊の専売特許であった。なにせ、この男の下で、チームメイトとして、サッカーをしていたのだ。そうおいそれと屈するタマではない。どれほど汚いやり方で、どれほど人から疎まれても、最低・鬼畜・外道と罵られても、それが自分たちのするサッカーだった。そういう生き方が性に合っていた。

 近頃の平穏な生活ですっかり丸くなったと思っていたが、まだあの頃の、女版不動と周囲にいわしめたろくでもない自分は残っていたらしい。そして、なぜだか彼女は、そのことにひっそりと安堵していた。

「今度はアンタの番よ。レディにばっかり攻めさせるなんて、なってないわね」

「だれがレディだよ」

 クックッと低く笑いながら、不動はボールをポーンと高く上げた。ふいのことに小鳥遊が気をとられていると、突然そのボールに不動が飛び付いた。高く上がったボール、高く飛んだ不動。後ろへと引かれる足は、ボールの落下地点を正確に把握し――、振り抜いた。

 びゅおっ、と小鳥遊の頬を風がかすめた。すれすれのところを通っていった強烈なシュートに、足が力をなくした。地面にしこたま尻餅をつく。背後で見事にネットを揺らすゴール音が聞こえたが、彼女はもうわざわざ振り返ったりしなかった。

 華麗にオーバーヘッドキックを決め、地面に降り立った不動は、勝ち誇ったように笑って見せた。

 「くっそー!」と小鳥遊は天を仰ぐ。まことに腹立たしいことだが、しばらくは立ち上がれそうになかった。

「オレの勝ちだなぁ、小鳥遊」

「あーっ、もう超ムカつく! あたし現役離れて長いのよ。すこしは手加減しなさいよ」

「んなもんするか、バーカ」

 その声が妙に真剣みを帯びていたのに、小鳥遊は視線を前に立つ男に向けた。

「手加減なんかするかよ。そんなことすんのはお前に対する冒涜だ。違うか?」

 そう言う不動の顔は、ひどく真面目くさっていた。甘さのない、本気の目だった。小鳥遊を、セーラー服の女子高生として見るものでも、一晩の遊び相手として見るものでもない。あの頃のまま、容赦なくボールを追わせ、蹴らせ、琢磨させた男の目だった。紅一点であった小鳥遊を特別扱いせず、他の男と変わらない自分の手足だと引き連れていたキャプテンの目だった。濁りのない、嘘偽りのない、不動 明王の目だった。

 ――ああ、なんて懐かしい。

 その垣根のなさがうれしかった。自分を必要だと従えたこの男を、サッカーを、小鳥遊は愛していた。他になにも持たなかった彼女は、サッカーに触れて初めて大切なもののあり方にも触れたのだ。

 突如、ポロリとなにかが頬をつたった。小鳥遊がそれを認識する前に、不動が大きく目を見開いた。

「おい、小鳥遊?」

 慌てたように彼女を呼ぶ声をよそに、小鳥遊は袖で顔を拭った。間違いなく湿っていた。

 泣いている。その事実を理解するまでに五秒ほどを要した。

 はっきりと認識したとたん、小鳥遊はバタリと背中から地面に倒れた。冷たい土が、火照った体を固く受け止めた。

「小鳥遊――」

「あたしさ、ずっと思ってたんだよね」

 不動の言葉を遮り、小鳥遊は言った。見上げる空に光る星は、街中でネオンにまみれていては見えないものだった。

「あたしってどんな時に泣くんだろう、って。もう泣くことなんか全然なかったからさ。どんなにかっこいい男と付き合っても、どんなにひどいフラれ方しても泣かなかったし」

「男の話オンリーかよ」

「他にこれといってわかりやすい事柄がなくてね。でもさ、ちょっとだけ、思ったことがあるんだ」

 冷静な頭とは裏腹に、頬を流れる涙はとめどなく、熱い。小鳥遊は、涙に冷たいイメージしか持ち得ていなかった。もうとうの昔に忘れた感覚は、いっそ新鮮ささえ携えて体内のなにかを浄化していく。

 彼女にとって、涙は弱さの象徴であった。真珠のように秘められた美しさでも、ダイヤのようにギラリと光る魅力でもない。ただ、己の弱さをさらすだけの無意味な塩水。なんの価値もない、なんの利益にもならない。小鳥遊は気丈な少女だった。だから、泣くことはまるで敗北したようで悔しかった。悔しいという感情すら捨て去ったと思っていたのに、その根本にあったものがそれだった。意地っ張りもここまでくると、滑稽きわまりない。

 澄んだ夜の空気を肺に吸い込みながら、小鳥遊は零すように言葉を紡いだ。


「いつか本当の恋人に出会う時、あたしの世界が変わる時――あたしは泣いたりするんじゃないか、って」


 しばらくの沈黙の後、不動はまたも「クックッ」と低い笑い声を立てた。

「オメーがそんなに素直なとこなんて、真・帝国学園に誘った時の二つ返事以来じゃねーか」

「だれがアンタのことだ、つったのよ。サッカーのことかもしれないでしょうが」

「強情だねぇ、シノブちゃんは。まあ、そんな抱き締めてもくれない、手も繋いでくれない、キスもしてくれない恋人に仕えたいってんなら、口は出さねーけど?」

 大袈裟な動作で、不動は肩を竦めて腕を広げた。

「俺なら、この寒空で凍えた小鳥遊を優しーく抱き締めたりすることもできるぜ。どうする?」

 嫌みな笑みでそう尋ねる顔に、一発パンチをおみまいしたい。しかし、全力で動き回ってバテた体では、地面に座り込んで睨みをきかせるので精一杯だ。なんて腹の立つことか。

 そうこうしているうちに、不動はまるで子どもを抱えるように小鳥遊の両脇に腕を入れた。ぐいと引っ張られて、中途半端に膝立ちになる。そのまま不動は、小鳥遊を優しく抱きくるめた。この男と自分の抱擁が、こんなにもあたたかく柔らかいだなんて、いったいだれが想像しただろう。

 小鳥遊は唇を噛みながら、爪を立てるように不動の背中に手を回した。

「しょうがないからアンタで我慢してやるわよ」

 小さく、不動が笑い声を上げる。それはあまりにも耳に心地よく響いた。





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▽飾りじゃないのよ涙は/中森明菜





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