目も眩むような非日常はパッと通り過ぎ、葵にも日常が帰ってきた。再び学校に通うようになり、遅れ気味だった授業も、ご無沙汰だった友人との遊びも、3対7くらいの割合で両立していた。
「葵!」
通学路を行く途中、背中にかかる呼びかけに振り返ると、幼なじみの天馬だった。天馬ともしばらくろくに連絡をとっていなかったから、久しぶりに学校で会った時には泣きつかれてしまった。何があったのかは言っていない。天馬も察してか、尋ねてくることはなかった。幼なじみの距離感というのは、こういう時有り難い。
「葵、大学受験の準備してる?」
「ぜーんぜん! 進学か就職かもまだ決まってないよ」
「俺も俺も!」
「天馬はサッカーがあるじゃない。どっかから声かかったりしてないの?」
「それがさぁ……」
悩ましげに話し始めた天馬を見ながら、葵はふとこの間までの激動の日々を思っていた。父が亡くなったこと、四人しかいない空野組の親分になったこと、あらゆる陰謀に巻き込まれたこと、ヘロインの海の中で機関銃をぶっ放したこと。あの頃のことはあまりにも濃密な思い出だが、不思議と遠い昔のことのように感じた。たくさんのことがありすぎて、感覚が狂ってしまったのかもしれない。それでも、またこうやって平穏な日々に戻れるのだから、人とはたくましいものだと思う。
「空野 葵さんですか?」
突如、目の前に立ちふさがった男に見覚えはなかった。亡くなった父親くらいの歳の男だ。どうして自分の名前を知っているのかと訝しみながら、葵は慎重に言葉を発した。
「そうですけど」
「警察の者です。少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
警察、という単語で葵の思考が止まった。つい最近まで、関わり合いになることは極力避けたかった相手だ。普通の女の子となった今でも、できることならお世話にはなりたくない。
その警察が今さらいったいなんの用だろう。空野組の頃のあれやこれやについて掘り返すつもりなのだろうか。後ろ暗いことなら、それこそ言い訳できないほどあった。隣の天馬が、不安そうに葵と警官を見比べた。乾いた喉に生唾を流し込み、葵は尋ねた。
「わかりました」
「葵!」
「大丈夫よ、天馬。すぐ戻るから」
優しく笑いかけると、天馬は返す言葉を失ったようにぐっと怯んだ。それを見定めてから、警官についていく。すぐ横の道路にパトカーが止まっており、二人はそれに乗り込んだ。
「空野 葵……」
無言で流れる街の景色を見ていると、警官がふと呟いた。
「綺麗な名前ですね」
「ありがとうございます」
「来月、娘が生まれるんですよ。葵って名前にしようかなぁ」
呑気な口調で独り言のように言った警官は、すっと仕事時の事務的な口調に変わり、
「実はですね、空野さんに確認していただきたいことがありまして」
「確認? いったいなんの」
「いやぁ、女の方には少し言いにくいんですが――遺体です。とある遺体がこちらの署に安置されてましてね、その人の身元を調べているんです」
遺体。死んだ人間。葵の脳内で、その言葉が回った。
「ちらっと見るだけでいいんです。あ、貧血を起こしやすい方ですか? それなら――」
「いえ、大丈夫です」
この人に、私はこの前生体解剖されそうになったんですと言ったら、いったいどんな顔をするだろう。
彼女は何も言わなかった。ただおぼろげで、曖昧に肌を粟立たせる、はてしない脱力感と不安感の正体を確かめたかった。
安置所で葵は、白い台に寝かされた男を見下ろしていた。
「昨日の昼頃、こちらに運ばれましてね」
警官が手帳を開きながら、つらつらと語った。
「新宿で、ヤクザ同士の喧嘩があったんです。この人はそれを止めようとしたんですな。仲裁に入ったんですが、ヤクザの一人が短刀を隠し持っていまして……胸を一突き。その場で亡くなりました。身元を調べようにもわからないんです。この人、そういう書類を一切持っていないんですよ。ただ、ポケットにあなたの名前と電話番号と住所を書いた紙だけが入っていて――どうです? ご存知ですか?」
「いえ、知らない人です」
ゆるゆると首を横に振り、葵は言った。
「そうですかぁ……いや、実は、こういう身元のわからない遺体ってのは結構多いんですよ。お手数おかけしまして申し訳ありません」
「いえ」
もう一度首を横に振って、葵は目の前の男から目を逸らした。
警官に見送られて、外に出る。太陽が眩しい。目の奥を焼く熱に、葵は思わず顔の前に手をかざした。その足で歩き出す。初めはノロノロとしていた歩調が、次第に乱れ、カツカツと地面を鳴らす。
『これに懲りたら、もうヤクザなんかに関わらないことですね』
『そうするわ。ねえ、剣城さんもそうしたら?』
『俺ですか?』
『そう、そうよ! もう空野組はなくなったんだし、これを機に真っ当になって、新しい生活を始めるなんてどう?』
『真っ当ねぇ……俺なんかにできますかね』
『できるに決まってるわ。ねえ、やってみようよ』
『そうですね、それもいいか。東京を離れて、どこか平和な所で、また一から始めてみるのもいいかもしれないな』
『うん! その時はまた私の所に寄ってね!』
『はい。お嬢さんも、きちんと高校くらいは卒業してくださいよ』
『高校かぁ……、なんだかひどく平凡でつまらない所みたいだわ』
『本当に大切なものと言うのは、いつも平凡でつまらんもんですよ』
『剣城さんったら、まるで道徳の先生みたい』
――東京を離れると言ったのに! 新しい生活を見つけると言ったのに!
歯を噛み締めるほどの悲しみと悔しさに、葵の視界は涙でぼやけた。
家に帰ると、天馬が葵の家で待っていた。不安げにオロオロする姿はまるで犬のようで、心配していたのだなと葵は察した。
「大丈夫だった? 葵」
「大丈夫よ。わざわざ家まで来てくれたの? ごめんね、心配かけて」
「いや、別にいいんだけど。……ねえ、なんだったの? 葵、万引きでもやったの?」
「違うわよ、そんなんじゃないの」
靴をそろえながら、葵は笑いを含んで言った。いつもと変わらぬ葵の姿にほっとしたのか、天馬も軽口を叩いてそれに答えた。姉弟のようなやりとりをしながら玄関を上がると、天馬の後ろから母がパタパタとやってきた。
「ああ、葵。今日あんたに名刺が届いてたわよ」
「名刺? 私宛てに?」
「うん。ポストの中に入ってたの。部屋に置いてあるから」
「そう、わかった」
着替えてくる、と言って、葵は階段を登った。天馬は「うん!」と元気よく頷いた。口元を無理やり引き上げるようだった葵の顔が、自然と笑みを作った。
自室に入ると、なるほど確かに、デスクの上に白い小さな紙がのっている。どうやら名前の方を下向きにしているらしかったが、裏面にもなにやら文字が走っていた。ひょいと取り上げ、手書きの文字に目を通す。
『拝啓 いかがお過ごしでしょうか。身の振り方が決まったので、ご連絡いたします。出張でこちらを訪れたため、直接ご挨拶にも伺えず、申し訳ありません』
急いで表を見ると、そこにはこう書かれていた。
雷門建設 営業一課 剣城 京介
剣城は、出張で東京に来ていたのだ。身元の書類などはホテルに置いていたから見つからなかったのだろう。彼もまた、見知らぬ土地で新しい生活を営んでいたのだ。
しばし名刺を握り締めて、葵は顔を上げた。くるりと踵を返し、階下に降りる。葵の母の入れたお茶を呑気に啜りながら、天馬が「どうしたの?」と目を丸くした。
「ねえ、警察って何時まで開いてるのかな?」
「さあ……、ってなに? またなんかあったの?」
「ちょっとね」
「ちょっと、ってなんだよー」
なにやらまだ言っている天馬の言葉を、リビングのドアを閉めることで遮断し、葵は携帯電話を取り出した。
「あ、もしもし、先ほどお伺いした空野です。遺体の件で、少し思い出したことがあるのでお話したくて……ええ、そうです。私の知り合いです。とてもよく知っている人です……」
← →
[戻る]