※『零〜刺青ノ聲〜』パロディです。
未来設定で、捏造と改変が多いため、注意してください。




 眠りにつくことが怖かった。ベッドに入り、ひとたび眠りに落ちてしまえば、またあの夢を見ることになる。またあの屋敷へ戻ってしまう。昨日の夢の続きのように。

 懐中電灯の明かりだけを頼りに、あの暗い屋敷を彷徨い、時折聞こえる物音とも呻き声ともつかぬなにかに足をすくませ、背後から、床から、天井から、もしくは真正面から、襲い来るものに立ち向かわねばならない。すでにこの世のものではない、一言で表すと“幽霊”といわれる者たち。それは筆舌にしがたい凄まじい恐怖だった。追われる恐怖、襲われる恐怖、なにが来るかわからない恐怖、終わりの見えない恐怖、ひとりぼっちの恐怖、本能的な恐怖。けれど、夢の中では逃げることもかなわない。ひたすら、身も凍る恐怖にさらされるしかないのだ。目覚めるまで、その悪夢は終わらない。

 桃井 さつきは夢の中にいた。意識ははっきりとしている。もはや、夢なのか現実なのか、それすらわからなくなるリアリティだ。近頃では、現実が夢に浸食されつつある。悪夢は少しずつ日常を蝕んでいる。

 けれど、それもおそらく今日で終わるのだろう。この世の果てのような暗い海辺に立ち、桃井は思った。ここは彼岸だ。文字通り“この世の果て”。この向こう岸が、人の言う“あの世”へと繋がっているのだろう。ここまで来たということは、すべての悪夢はもう終わりを告げるに違いない。

 桃井はそっと振り返った。ここへの入り口だった洞穴が見える。この悪夢を生み出していた、救われない者の魂は、先ほど長い憎しみを終えて眠りについた。きっともう、誰かを呪い殺すことはないだろう。桃井は小さく微笑んだ。

 すると、見つめていた洞穴から、なにかがふと流れてきた。ぼんやりとした明かりを灯している。死者を送る灯篭のようだ。それが穴から流れる小さな川に乗り、海へと流れていく。灯篭の明かりはいつしか人の形を成し、ゆっくりと水辺を渡る人影となった。ここで亡くなった数多の魂だろう。彼らは一様に、この海の先を目指している。桃井はそれをハッとするような、穏やかなような気持ちで眺めた。

 そうしていると、蠢く黒い人影の中に、一人だけはっきりとした姿があった。桃井は息を呑んだ。黒の中に紛れようと、生前彼が自らを「影」と称していようと、見落とすはずがなかった。

 それは、死んだ恋人の黒子 テツヤだった。


       ・


 煙が上がっていた。タイヤが行き過ぎた摩擦を起こしたためか、車が大破したことによりエンジンに異常をきたしたか、ガソリンが引火して火が上がり始めているのか。

 そんなことはどうでもよかった。桃井 さつきは、傷付いた体を叱咤してヨロリと立ち上がった。足を引きずるようにして、車に近付く。覗き込んだ先、黒子 テツヤの顔があった。白い顔をして、ピクリとも動かない。「テツくん……?」桃井の呼びかけにも応じない。のろのろと視線を移動させる。黒子の体を押し潰す、巨大な鉄の塊があった。今さっきまで、デート中の二人を乗せていたはずの愛車だった。桃井はどしゃりと崩れ落ちた。

 黒子は息をしなかった。息をしていなかった。触れた頬は冷たかった。降り出した雨が二人の体を濡らした。雨水に混じって、黒子の血が地面に流れていった。

「ふっ……う、うぅ……」

 雨とは違う雫が桃井の頬をつたった。涙はとめどなく溢れ、後から後から零れていった。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 桃井は謝り続けた。その声は雨音と一緒になり、夜の闇の中に延々と響いていた。


       ・


「テツくん……」

 桃井は呟いた。黒子は他の者たちと同じように、海の中を滑るように歩いていく。

「テツくん!」

 後を追って、桃井は走り出した。足がザブンと水に浸かる。水しぶきを上げながら、彼女は黒子を呼んだ。

「テツくん! 行かないで!」

 黒子が振り返る。以前と変わらない、希薄な瞳。冴えない風貌。まっすぐな髪、なにを考えているかわからない無表情。間違いなく、それは黒子 テツヤだった。桃井が愛し、失った、彼本人だった。

「今度は……」

 すでに膝のあたりまで水に浸かった。それを必死に掻き分けながら、黒子の元へ近付いた。

「今度は……私も一緒に、行くから……!」

 声をかぎりに叫んだ。喉が潰れるように痛かった。黒子は立ち止まってこちらを見ている。桃井はうなだれて、暗い水面を見つめた。涙がポロポロと、そこに小さな波紋を作った。

 ふと、よく知った懐かしいあたたかさを感じた。面を上げる。黒子がいた。あいかわらず優しい顔をした恋人がいた。彼がいなくなってからずっと求めていた、彼の腕のぬくもりだった。

「ごめんなさい……」

 桃井は黒子にすがりついた。

「今度は……私も一緒に……」

 けして広くはない胸に身を預け、桃井は言った。この腕と共に逝けるなら惜しくはないと思った。

「ありがとうございます」

 ずっと聞きたかった、柔らかな彼の声だった。

「君の気持ちはわかっています」

 昔と変わらず、黒子はゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。

「でも、僕はもう行かなきゃ」

 そう言って、小さく微笑む。彼がすっと一歩体を引くと同時に、その全身を淡い光が包んだ。

「君が死んだら、僕は本当に消えてしまいます。君の中に生きた僕すら、いなくなってしまうでしょう」

 だから、と黒子は続けた。悲しそうに寂しそうに一瞬目を伏せ、けれど彼女を安心させるように笑う。

「だから」

 音もなく、黒子は踵を返した。離れていく。ぬくもりも、彼の声も、これで本当にいなくなってしまう。

 完全に背を向ける前、見えた横顔も、やはり微笑んだままだった。

「だから……生きてほしいです」



 そこで桃井は目を覚ました。朝。夜明け。夢の終わり。室内は明るい。長いこと続いた雨が止んでいた。まるで、彼がすべてを持ち去っていったように。

 桃井はベッドの上で半身を起こす。彼女が悪夢に苛まれても眠ることをやめなかったのは、彼に会えるかもしれないという期待を抱いていたからだった。幽霊屋敷。死者の住まう場所。初めてあの家で見た彼を追って、桃井は夢の中へと迷い込んだ。あの屋敷の夢は、もう見ることはないだろう。もう二度と、彼女が悪夢にうなされることはない。

 のろのろと、彼女は左腕を上げた。薬指にキラリと光る指輪があった。黒子が、これからの一生を僕と生きてくださいと、捧げてくれたものだった。

 桃井はその手を抱え込んで泣いた。生きてほしいという彼の言葉を脳裏に浮かべながら、今だけはこの痛みに泣くことを許してほしかった。




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