奴はいつも突拍子もなく現れる。あんな巨体で、バスケをする時以外はひどくノロノロと緩慢に動いているのに、知らぬ間に背後に忍び寄っている。そしてそのまま雅子の首にガバリと腕を回しながら、

「まさ子ちーん」と、怠惰に鳴くのだ。

 数十センチ高い場所から、十数センチ長い腕を回され、数十キロ多い体重でのしかかられては、さしもの雅子も衝撃にしばらくは息を整えているしかない。そして、息が平常どおりになったあたりで、

「紫原……」と、女子とは思えぬ低い声で唸るのだ。

 肉食動物が暗い場所から獲物を狙っているような、喉奥で吠える呻き声は、周囲の部員を遠巻きにするに充分な迫力を持っている。しかし、当の紫原は、あいかわらずぼうっと垂れた瞳をチラリと真下の頭に向けただけで、「お腹へったー」と語尾を伸ばす始末だ。

 雅子の目尻がギッと跳ね上がり、彼女は姿勢を変えぬまま、自由な右手をゆらりと振った。そのまま、前に揺らした腕を引き寄せる。とたん、鋭い矢のようになった彼女の右腕が、「肘鉄」という名を持って、目にも止まらぬ速さで紫原の腹目掛けてくり出される。「入った!」と、部員たちは瞬間的に思った。

 ひらりと、それまでのナマケモノのようなノロさはなんだったのかと訊きたくなる俊敏さで、紫原は雅子の一閃をかわした。さながら、ナマケモノからチーターへ進化したような速さだった。

 雅子が「くっ……」と敗れた悪役のような声を漏らす。

「へへーんだ。二度同じ手は通用しねーよ、まさ子ちん。それ前にくらって、一週間青あざ消えなかったかんね」

「お望みなら、一ヶ月は消えない痣をつけてやるが」

 顔の前に拳をかざす雅子に、紫原は「勘弁、勘弁」と首を横に振った。

 だが、鬱憤を解消する手だてをかわされた雅子としては、この苛立ちをおさめる術がない。監督に対して「へへーんだ」などと得意げにされるのも、だいぶイラッとする。

 しかし、力勝負となれば勝敗の差は歴然だ。――それよりも、もっと健全で、もっと確実で、もっとえげつない報復の仕方がある。

「紫原」

 雅子は少し困ったような、言いにくそうな面持ちで、紫原を見上げた。紫原は何事かと、その巨躯を折って雅子の声に顔を近付ける。

「お前……すこし太ったんじゃないか?」

 ビュッと風が吹き抜けたような、そんな奇妙な沈黙の後、紫原はこめかみに一筋の汗を浮かせた。

「え、うそ。オレ重くなった……?」

「ああ、言うのはよそうと思っていたんだが、毎日ちょっとずつ重くなっている。いくらお前の体がデカいからと言っても、これは、その、このままいくとただの――」

「デブはいや!!」

 気まずそうに視線を逸らす雅子に、紫原は必死の形相で叫んだ。

「マ、マジで? 最近冬になってチョコ系のお菓子が期間限定でいっぱい出て……全部制覇しちゃったのが悪かったの?」

「い、いやぁ、まあ……その、趣向は個人の自由だからな。部活中にバリバリ食うのをやめれば、私は口を出すまいよ。それによってお前がどんなに太ろうと……」

 あからさまに申し訳なさそうな雅子の仕草に、紫原は焦りの感情を募らせる。

「ま、まさ子ちんはデブは――」

「嫌いだ」

 突如ハッキリと宣言される、普段どおりの雅子の声音に、二メートル八センチの巨人は「やだぁー!」と泣きそうな声を上げた。

「まさ子ちん、オレ痩せるからっ、嫌いになんないで!」

「おう、そうかそうか。なら、私がいいダイエット法を紹介してやろう」

「教えて! オレ、どんなんでもするよ」

「そうかそうか」

 鬼気迫る様子で、紫原は雅子の肩を揺する。無感動な笑顔でそれを受け止め、陽泉高校男子バスケットボール部監督、荒木 雅子は、今日一番の輝かしい笑顔を浮かべた。

「紫原を含む全部員、今日は外周、ランメニュー、筋トレの三点セットだ。明るいうちには帰れないと思え」

 語尾に星マークでもくっつきそうな軽やかな台詞が終わる前に、体育館内は男共の野太い阿鼻叫喚でいっぱいになった。

「ふざけんなふざけんな敦テメーこの野郎、ぶっ殺す!」

「協力するアル。いい加減この展開うんざりアル」

「文句を言うな! さっさと走る……走るんじゃあ……」

「な、泣くなよ」

「室ちん、オレ超頑張る。二日で痩せてみせる」

「敦……監督にうまいこと転がされてるよ」

 苦笑気味に溜め息を吐いた氷室からは、めずらしく「もうどうにでもなれ」という空気が漂っていた。

 竹刀で床を叩く雅子の号令で、陽泉高校バスケ部員たちは、ぞろぞろと外へ向かって走り出す。

 いったい何周走れば終わるのか、いったいいつになったら終わるのか。

 考えてはダメだ、と何人かが涙を散らすように首を振る。そんな彼らの脳裏に浮かぶのは、「連帯責任」という、義理堅くも納得のいかない四文字であった。





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すげーくだらんネタだね。
平和な陽泉かわいい。




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