一番最初に永遠の別れを告げる時、次は絶対に看取る側にはなるまいと決意した。

 その風景に色濃く残っているのは、前も見えないどしゃ降りの雨。空を仰いで横たわる男と、傍らに立つ女。痛いほどに体を打つ豪雨は、髪や装束にどんどん吸収されていく。ぐっしょりと湿って重くなった身のまま、ユキは足元の男を見つめていた。

 鉢屋 三郎は、この雨の中天を仰いで、目を開いていた。空から降る水が、彼の顔についた血を洗っていく。けれど、腹部を真っ赤に染めるそれだけは、もう綺麗になりそうにはなかった。ゆるやかに失われているであろう彼の体温の低下を促進するくらいだった。

 鉢屋は笑んだままだった。口元にうっすらと、いつもの食えない笑みを浮かべていた。力ないそれは、濁った瞳とあいまって、とても不気味なものに見えた。

 そうして、鉢屋は小さく呟いた。

「ごめんね」

 ザァザァと鳴る雨音の中、何故その言葉が聞こえたのかはわからない。土を踏む音さえ聞こえぬほどだったというのに、鉢屋のその言葉だけは、しっかりとユキの耳に届いていた。

 もしかしたら、鉢屋はそんなこと一言も言わなかったのかもしれない。いつ事切れたのか、すでに死んでいたのか、その判断さえつかなかったのだ。幻や幻覚でも見ていたのかもしれない。もしくは、彼女自身の願望がそう見せただけなのかもしれない。または、鉢屋の亡霊のようなものが、彼女に言霊を授けたのかもしれない。

 その謝罪がなんに対してのものなのか、ユキには結局わからなかった。挙げられる理由はいくらかあったが、そんなことをあれこれ思案したところで、答えは永久に明かされぬままだ。

 雨は容赦なく降り注ぎ、空はどんよりと暗く、肌を刺す空気はゾウッと冷たい――なんてひどい墓場だろうと、ユキは思った。

 次は絶対に先に死なせるものか。死で分かたれるのなら、私が先に死ぬ。






 乾いた地面の上、細くなっていく息は、もはや彼にはどうすることもできないようだった。鉢屋 三郎は、ユキの手を強く握り、その時を待っていた。最後までここにいる、お前の最後には俺がいる。そんな意図を込めたものだった。伝わっているかは、もはやなんの問題にもならない。

「はちやせんぱい……」

 かすれて、喉に血が絡まったようなくぐもった声だった。溌剌と高く響いていた以前の美声は、すでに彼女の声帯にはなかった。

「ん?」

 鉢屋は、とても優しくそれに応えた。幼子をあやすような優しい目をして、安心させるような柔らかい声音で首を傾げた。

「わたしのこと、わすれてください」

 いまや目も見えているのか、ひょっとしたら耳も聞こえていないかもしれない。少しずつ遠くなっていくユキの魂を繋ぎとめるように、鉢屋はその体を強く抱きしめた。

「ごめん、それはできない相談だよ」

 揺れる声も震える指先も零れる涙も必死にこらえて、鉢屋はユキにそう言った。たとえすでに彼女の意識がこの世になくとも、仮にも惚れた女の前で醜態を晒すのは、男の面子に関わる。鉢屋 三郎は見栄を張ることにこだわる男であった。

 ユキの手がダラリと垂れるのを見てからさらに長い長い時間を置いて、鉢屋はユキの体を地面にゆっくりと寝かせた。虚ろに開いた目を、そっと伏せてやる。まるで牡丹のように胸元で咲く赤い花。彼女を生かしていたもの。それをスイッと親指ですくうと、彼は土気色に変色したユキの唇へ、それを乗せた。白粉を塗ったような白い顔が、真紅の紅で彩られる。良い、死に化粧だと思った。

「綺麗だよ、ユキちゃん」

 ふざけたように笑って、鉢屋は腰を上げた。穏やかな面持ちで彼女の死体を見つめてから、さよならも言わずに踵を返す。ここで、鉢屋のユキに関する記憶は終わる。新たに作ることができないのだから、消すのが得策だ。愛した気持ちや、大切な思い出は重すぎて、ただの足枷にしかならない。そんなものは、忍者としての己には不似合いである。

 彼が思うのは唯一、絶対無二の約束。

 ――また――

 声に出さずにそう言って、鉢屋は笑った。巡る命と運命を信じ、彼は前だけを見て足を進めた。




――――――――――――――



最初が室町で、次はもう少し後の時代かなって思います。ちょっと進んでるけどそんなに経ってない。まだ忍者が殿様の下で働いていたくらいの頃。
二人にはたぶん前世の記憶はないです。
でも、いつか巡り巡って、幸せになれる日が来るはず。




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