一度だけ、自転車を整備する御堂筋の背中に声をかけたことがある。ユキが御堂筋に声をかけるのはまったくめずらしいことではなかったが、それは以前までとは違った「一度だけ」のものだった。

「アキラ兄ちゃん」

 別段、普段となんら変わりなく、ユキは言った。今晩は母の帰宅が遅くなると、確かそれだけを伝えるために行ったのだった。御堂筋は愛車のタイヤ周りをいじっていた。ユキはロードレーサーにくわしくないので、彼がなにをしているかは皆目見当もつかなかったが、それもいつものことだった。御堂筋がその巨躯を丸めて、体に不釣り合いな小さめのフレームに覆い被さっているのも、いつもどおりの光景であった。

 御堂筋は返事をしなかった。聞こえなかったかなと、ユキはもう一度「アキラ兄ちゃん」と声を張った。御堂筋はやはり振り返らなかった。はて、とユキは首を傾げた。そして、御堂筋のひょろりと長い後ろ姿を眺めた。

 なにかが、ざわりと肌を触った。冷気を放つ見えざる手が、背中にペタリと当てられたような心地だった。

 カチカチと手を動かす御堂筋の後頭部に、やたら影がかかって見えた。動きに合わせてユラユラと揺れるその頭の向こうに、見知った彼の顔はあるのだろうかと、ユキは一瞬本気で思った。ギョロリと飛び出た目玉や、凹凸の少ない鼻や、ニィッと笑う大きな口や、剥き出しの歯はあるのだろうかと、ユキは恐ろしくなった。今、振り返った御堂筋の顔がのっぺらぼうでも、ユキは驚かない気がした。

 ユキは一歩、御堂筋の部屋から後退ると、音を立てないように戸を閉めた。部屋から零れた明かりが、暗い廊下に一筋の光の線を作っていた。こんな煌々と明るい部屋で、彼はたった一人、自転車だけと生きているのだろうか。他の者を寄せ付けず、他の者の声を聞かず、彼の目はいったいなにを見ているのだろう。

 ユキはぼんやりと御堂筋の部屋のドアを見つめた。あと三時間後にこのドアを開けても、御堂筋は先ほどと変わらぬ姿勢で変わらぬ姿でいるだろう。それが容易に想像ができて、ユキはそっと体の方向を変えた。


 あれが“一度だけ”だ。それ以前は、ユキが呼べば御堂筋は振り向いてくれていた。そして、それ以降は、ユキはあの背中には声をかけなくなった。まず初めにドアを細く開けて、彼の様子を眺めてから、声をかけるかどうかを決める。食事の時間と入浴の時間にはきっちりと部屋から出てくるので、呼びに行く必要はなかった。そうではない時、必要な時、ドアの向こうにあの背中があった時は、ユキは静かにドアを閉めた。閉めた戸にもたれて、暗い廊下でハアッと息を吐いた。あと何時間経てば、あの鬼気は消え失せるのだろう――。そんなことを、膝を抱えて思いながら。

 “インターハイ”が、御堂筋 翔になにを与えたのかはわからない。ユキはその試合を見ていないし、話を聞いたわけでもない。けれど、あれは確実に、彼のなにかを変えたのだ。それだけは、いつも御堂筋の背中を見ていたユキにはわかった。


 今日もユキは、見慣れたいとこの部屋のドアを、目を伏せながら静かに閉める。すべてを感受しなくなった男は、ユキの視線に気付かぬままドアの向こうに消える。まるでこの世に存在しないようだった。




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