「人とは愚にも付かないものだ」

 場面がいきなり変わるように、赤司 征十郎は唐突に言葉を投げた。パチン、パチンという音と、目の前にある四角い盤だけが今の空間のすべてであった相田 リコは、少しばかりギョッとしながら視線を少年へ向けた。

「人間は、生まれながらにして優れた感覚器を持ち合わせている。痛覚とはそれのひとつ、痛みを感じるための感覚器だ」

 また謎の脈絡をねじ込んできたな……と、リコは片眉を寄せた。81マスの将棋盤の上で、赤司とリコは静かな聖戦を営んでいる。

 目線を盤上からチラリともはずさずに、赤司は次の手を指した。1七歩だった。

 リコはむぅと顔をしかめながら、駒へと手を滑らせた。パチリ。1八飛車。

「痛みとは、人にとってひどくマイナスな要素だ。特殊な性癖でもなければ、喜ばしいことなどひとつもない。息が止まるような苦しみと、涙が流れるような辛さにのたうち回りながら、それが過ぎ去るのを待つしかない。いっそこの世に痛みという感覚が存在していなければ、人々はもっと安穏に生きていられただろうし、もっと平和に死ぬことができただろう。しかしですね、それではいけないんです。なぜなら、」

 柔和に微笑んだまま、赤司 征十郎は悩む様子もなく3二と金を指した。

「人は痛みによってあらゆることを学ぶ。しかし、一度痛い目を見て懲りたはずなのに、またしても同じ過ちを繰り返す。愚かでしょう? もしもこの世界の常識として、“一度受けた痛みは消えない”という決まりができたらどうします。痛みは癒されず、どんどん上乗せされていくんです。折れた骨の痛みは永遠に残り続け、肉を切られた痛みは未来永劫薄れない。その最終形態は、そう、死です。人は、積もり積もった痛みが頂点に達した時、死ぬのです。しかし、そうなってしまったらきっと人間は赤子から先に進めなくなるでしょう。日々の中で人が受ける痛みの数は底知れない。程度の違いこそあれ、回復しないのなら、きわめて早いうちに蓄積された痛みに耐えきれなくなります」

 盤上を眺め、手駒の並びを整える赤司の姿には、男くささのかけらもない。人形のように、マネキンのように、どこかつるりとした清潔さが漂っている。凪のような静けさが佇んでいる。一見すれば、スポーツマンというより、着物でも着て茶を点てたり、こうして純日本ボードゲームに勤しむのがお似合いの文化系男子だ。

 将棋に囲碁にチェスに乗馬。彼が自身の趣味だと称するものたちは、おおよそ今時の男子高校生の趣向からは外れている。

(でもスポーツマンなのよねぇ。それも行きすぎてるくらいに)

 人とは不思議なものだ――と、リコは思った。しかしふと、それが先ほどの赤司の言い回しと似通っていたことに気付いて、眉間の皺を深くした。

「……で? なにが言いたいわけ? さっぱり話が見えてこないんだけど。まさか妄想に近い謎の哲学をひけらかしたかったわけでもないでしょう」

 苛ついた様子を隠しきれないまま、リコはバチリと音を立てて駒を盤上に指した。3二玉。フンッと鼻を鳴らし、腕を組んで赤司を睨む。“さあどうだ”とは、わざわざ口に出すことでもない。

 赤司はリコの圧力をいなすように小さく笑いながら、ゆっくりと、しかし一寸のよどみもない手付きで5二銀を指した。力を入れたふうでもないのに、パチン、と高い音が鳴った。学び始めてから知ったことだが、将棋を嗜んでいる人間の指し方は、素人のものとは一線を画している。それはおそらく、碁やチェスなどでもそうなのだろう。ただ駒を“置く”のではなく、踊るように、あるいは撹乱させるように、その指先は短く舞う。そして、ひときわ高い音を盤上で奏でる。たったこれだけの動作で、相手の力量が窺えてしまうというものだ。

 リコはぐぬぬ、と喉の奥で呻いた。

「そんな突っかかるような言い方をしなくても。僕は素直に感心しているんですよ」

 微笑みながら肩を竦めて、赤司は“さあ、どうぞ”とリコの手番を促す。暇など与えてやらないと言うように。

「感心? いったいなんに」

 ヤケクソ気味に、リコは素早く次の手を指した。それは、決定事項のように4二玉であった。挑む目つきには、ほとんど険しさしかない。

「僕を相手に将棋での勝負を挑んでくるその心意気に、ですよ。勝てる見込みのない試合に、根性と熱意と青臭さだけで向かってくる。なかなかできないことです。賞賛に値しますよ」

 ひどくこき下ろされたことは誰の耳にもあきらかで、リコは憤慨のあまりドンッと勢いよく机を叩いた。

「……聞き捨てならないわね」

 ギラギラと相手を射殺さんとする彼女の目線に、赤司はふと眉をひそめてみせた。

「対局のさなかにそういったことは反則ですよ、相田さん。バスケの試合ならラフプレーに当たります」

「あら。なら相手の神経を逆撫でするような中傷をすることは、ラフプレーに当たらないのかしら」

「気を悪くさせてしまったのならすみません」

 厳かに一礼し、赤司は自身の持ち駒に指を這わせた。ゆるやかさと素早さを兼ね備えた指先が指す。6一銀成らず。

「痛みの話ですよ。僕には敗北する痛みというのがわからない。この身に受けたことがない。けれど、相田さんは違うでしょう。あなたは今まで、数多の痛みに打ちのめされてきたはずです。傷を負ってきたはずです。なのに、何度耐え難い痛みを受けようと、再びあなたの足はあの場に立つ。それは、痛みというのが癒えるものだからではないですか?」

「馬鹿らしい」

 毅然と、相田 リコは切り捨てた。怒りの矛先を、自陣の駒を動かすことに向ける。2一歩、2九歩成。真横に位置する部室の窓から、白く染まった景色が見える。初雪に覆われた景観は、ひどく寒々しい。

「アンタの頭にはプラスか正かYESしか存在しないのかしら。失うことや痛みを受けることにはなんの意味もないと、本気で思っているのかしら」

「ならば、その意味とやらを教えてもらおうか」

 リコに視線を向けたまま、赤司は2八歩を指した。まったく嫌みたらしい。

「お断りね」

 対するリコも、赤司を睨み付けたまま、その白い指で駒を指す。――3九と金。対局が終盤に近付いていることも、じわじわと狭まっていく退路にぶち当たっていることもよくわかっていたが、彼女は凛とした誇りを失わないまま、赤司の目を正面から見据えた。

「説明したところで意味があるとは思えない。だってアンタは知らないんだもの。その痛みも、それによって得られるものも。理解できないから、否定するんでしょう。無意味だと切り捨てるんでしょう。それを盲目的とは言わないわ。だって人は自らが知り得るものしかわからない。仕方のないことよ。だから、今ここでアンタに痛みが癒えるまでの回復期や薬やリハビリの話をしたところで馬の耳に念仏。それがどれほど苦難に満ちていて、乗り越えた先にある光がどれほど眩いかは、経験したことのある者しかわからない。……どん底から這い上がるのは辛いものよ。けれど、だからこそ這い上がった先にある景色は尊いの。遠泳の果てに、水面から顔を出して最初に吸う一息のようなもの――。あの感覚を知らずにその歳まで生きてきたなんて、ある意味ゾッとするわね。分からず屋にもなるわ」

「相手の神経を逆撫でするような中傷は、ラフプレーに当たるはずでは?」

 ふいに腕組みをして、赤司はふぅと息を吐いた。盤上で首を狩る前に、しばしのお喋りに興じるつもりのようだ。

「あらごめんなさい、正直者で」

 悠然と笑んで見せ、リコも前屈みだった姿勢を戻した。体重をかけたパイプ椅子が、ギッと音を立てる。

 赤司は探るようにリコを凝視した。

「……わからないな」

「ん?」

 独り言のように小さな声を拾って、リコは小首を傾げた。

「なにがよ」

「あなたの考えていることが、ですよ」

「はぁ?」

 そんなものわかるはずがあるまい、と跳ね返す前に、赤司が続けて口を開いた。

「あなたは僕が嫌いなんでしょう? なのに、何故かまうんです。わざわざ将棋盤を手に、勝負を挑んでくるんです。目にあまるのなら関わらなければよい話ではありませんか。試合会場で顔を合わせることは当然の不可抗力としても」

 リコの眉間に刻んでいた皺が、ひらりと広がった。力の抜けた眉が、重力に従うようにゆるく下を向いた。

「よく知りもしないのに、嫌いになりたくないからよ」

 めずらしく赤司が、思いきり困惑をあらわにした不可解そうな顔をした。“なにを言っているんだ”と、顔面だけで語っている。なんとなく、リコは視線を横に逸らした。

「私はキミのことをよく知らないわ。知っているのは断片的な要素。それも、私にとってあまり好ましくないものばかり。だからってね、それだけでキミを嫌いだと決め付けてしまいたくはないの。だってそれこそ盲目的でしょ? にわかの分際で、物事を知ったかぶりするのは最高にダサいわ。そういう人は客観的に見ても不愉快だもの。だから、自分はそうなりたくないの。あからさまに傷付けられたわけでも、貶められたわけでもないなら、まだ目を凝らす必要があると思う。“好き”ならまだしも、“嫌い”は後から取り返しがつかなかったりするから」

「まるで聖人君子だな」

 清らかな顔に馬鹿にした嘲笑を浮かべ、赤司は背もたれに体を預けた。常に背筋がまっすぐ伸びているイメージの彼がそうすると、急に空気がだらけてしまったように錯覚する。

「そんないいものじゃないわ。こんな綺麗事を言ってるけど、第一印象だけで『無理』って敬遠してしまうこともザラだし、嫌いな人のことをわざわざ知ろうとするのはひどく億劫よ」

「それは同感ですね。己にとって無価値な人間は、どこまでいっても無価値なものだ」

 傲慢きわまりない発言をそれとなくかわして、リコは頬杖をついた。

「でも、そういう自分を見つけるたび、自己嫌悪でおかしくなりそうなのよ。そんなふうに表面だけで他人を判断する自分がね。それが嫌で、だからできるだけ嫌わないように意識してるの。言ってみればただの自己陶酔。いい子をしている自分に酔っているだけなのね」

 さて、とリコは姿勢を正した。はずしていた視線を赤司に戻す。彼は考えるようにじっとリコの目を見ていた。ただ深く沈思しているだけの顔だった。ふふっとリコは笑って見せた。赤司の眉毛がピクリと動く。それを合図にしたように、彼もよっこらせとばかりに元の体勢に戻った。細く息を吸って、吐いて。すうっとリコの瞳を射抜く。平らで奥底が知れない、すべてを見通すようなオッドアイ。ずいぶん不純物のない目だな、とリコは意外に思った。

 彼の指が駒をつかむ。音もなく、ひらりと蝶のように、帝王はこの局面に幕を引いた。

 ――パチン。

「3二金。僕の勝ちです」

 抑揚のない声で赤司は言った。勝負を制したことに対する喜びなどは、そこにはかけらも見当たらなかった。

 リコはひとつ溜め息を吐くと、椅子にのけぞって天井を仰いだ。

「あ――――、やだやだ。なんなのよもう」

 不満さを全面的に押し出して、リコは粗暴な口調で言った。

「いや、あなたには尊敬の意を禁じえませんよ」

 赤司が笑う。リコはむぅと口を尖らせると、弾かれたように上半身をまっすぐに戻した。

「どうしてわかったの? 私がやろうとしていたことが」

 真剣な表情で問うリコに、赤司は標準装備のような微笑みを返した。ゆっくりと彼女から焦点をはずし、盤上に並んだ駒たちを見下ろす。

「1989年、NHK杯、対加藤 一二三(かとう ひふみ)戦で羽生 善治(はぶ よしはる)氏がはなった伝説の『5二銀』ですね。この対局を持ち出したことに、あなたのセンスの良さが窺えます」

 そっと手を伸ばし、彼は自らが指した銀に触れた。

「対・加藤戦で、終盤61手目に羽生氏が加藤陣に打った妙手5二銀。これは稀代の天才と謳われた羽生名人の対局の中でも、もっとも有名な一手と言われています。羽生氏は当時五段の棋士でしたが、九段である加藤氏をこの一手で完全に圧倒しました。傍目にはなんの意味もない“ただ”の駒。しかし、終盤に至り、それはあまりに鋭い牙を剥く。出されてしまってからではもう取り返しのつかない、絶対的な一手です。羽生氏がこの手を指した時、解説の米長氏が『おぉ、やった!』と咆哮したというのも、また有名な話です」

 すうっと音もなくリコに視線をよこし、赤司は微笑む。リコは苦いとも酸っぱいとも言えぬ顔をして、ギリリと唇を噛んだ。

 少年の美しい指先が、盤上の二つの駒を交互に指差した。

「飛車でとっても、金でとっても、加藤氏の玉は即詰みとなります。あの5二銀はいわば一撃必殺。首を狩るための死に神の鎌のようなものだったわけです。その後、展開はあっという間に羽生氏のものとなり、加藤氏は投了を余儀なくされます。当時無名であった羽生氏のこの勝利は非常にすごいことで、彼の伝説を語るにはけしてはずせない一戦だったとも言えます」

 足を組み、赤司は膝の上に肘をついた。ついっと顎を指でつまみ、再度目の前の盤上に見入る。

「――僕が羽生氏で、あなたが加藤氏か」

 はあっ、とリコから重量感のある溜め息が上がった。

「さすが、としか言いようがありませんこと! 私よりよっぽどおくわしくていらっしゃるのねー。まあまあ、確かに私なんかが勝負を挑むには無謀なお相手でしたわ。てゆーか、私が訊いたのはそんなことじゃないんだけど」

「そう怒らないでください。僕は本当に感動しているんですよ。将棋を嗜み始めて日が浅いであろう女性と、まさかあの一局を再現できるとは」

 ニコニコと愛想よく笑いながら、赤司はチラッと目線を逸らす。意味深な視線につられてそちらを見やると、机の下に置かれたリコの鞄へと注がれていた。途端、あっ! とリコは目を見張る。赤司と鞄をパッパッと見比べて、彼女は盛大に顔を歪ませた。

「ま、まさか……」

「盗み見だと怒らないでくださいね。あなたが鞄を開いた際に、偶然、不可抗力で、視界に入ってしまったんです」

 ぬけぬけと回るその口を、今すぐ縫い付けてやりたくてたまらなかった。赤司の言うとおり、リコは将棋に対してまだ造詣が浅い。勉強中だ。監督として練習メニューを考えたりするかたわら、時々将棋関連の雑誌などで細かいルールを学んでいる。時間を有効活用したい彼女は、最近もっぱら雑誌を鞄の中に入れ、たまに出してはページを眺めていた。

 今現在、彼女の鞄に入っているのはおそらく一番メジャーな将棋総合雑誌。カラーページが豊富で、知識の少ない者でも比較的入りやすい。特にタイトル戦の解説は「詳しく見やすく」をモットーにしているだけあって非常に興味深い。プロ棋士の自戦記などは、ついつい時間を忘れて読みふけってしまうほどだ。

 今回の特集は『蘇る伝説の対局』。その中に、羽生 善治が加藤 一二三と対戦したNHK杯の記事も載っていた。そう、彼が先ほど述べたまんまのことが書かれていたのだ。

「その雑誌は僕も購読していましてね。先日見たばかりなんですよ。羽生氏と加藤氏の対局は巻頭カラーの扱いでしたし、なんとなしのお試しのつもりで真似てみただけだったのですが」

 きぃーっ! とリコは拳を握りしめた。

「だからってそれだけで気付く? 普通!」

「そしたらあなたが本当に加藤氏の手を返してきたもので。それならどこまでいけるものかと、試させていただいたんです。まさか完璧に記憶していらっしゃったとは。テツヤに聞いたとおり、頭の良い方なんですね」

「くっそー、全然うれしくない!」

 頭を抱えて、リコは悔しそうに歯ぎしりする。それを優雅に眺める赤司。勝者としての風情が嫌みなくらいに似合っている。まったく忌々しい奴だ。

「別に僕は後手でもよかったんですよ? 年功序列というもので」

「なに言ってんの。将棋は普通、格上のほうが先手をとるものでしょ。キミと私じゃ歴史が違うわ」

「本当によく勉強していますね」

「心底感心した顔すんな!」

「失礼。いや、しかし、それならあの対局をなぞらえる必要もなかったのでは?」

「まさかやろうとしていることを見破られるなんて思ってなかったもの。一度やってみたかっただけよ。だってすごいじゃない、あの対局。あれを見たらつい自分でも実践してみたくなるのが人情ってものよ」

「優秀な者の模倣は、いつの世もステップアップに重要な役割を果たしますからね。相田さんのご判断は間違っていませんよ」

「模倣、か……。そういうのは黄瀬くんなんかが得意よね。将棋に活用できるかはわからないけど」

「無理だろうな」

 ばっさり言われてる……。

 リコはわずかばかり、黄瀬の頭脳の侮られ方に同情した。

「緑間 真太郎なら、多少有意義なお相手が務まるものかと思いますが」

「あら、そうなの?」

「ええ。中学時代はよく彼と一局交えていましたよ」

 じじくさい中学生だな……。

 微妙な視線を向けながら、相槌を打つ。

「そうなんだ。なら、もうすこし腕前が上がったら、緑間くんにもお相手してもらおうかな」

 あの堅物そうな彼は、いったいどんな戦略を立ててくるのだろう。そんなことを考えて口元を綻ばせていると、

「それは駄目だ」

「え?」

「将棋を打ちたいなら僕を呼んでください。いつでもお相手になりましょう」

「いや、だってさっき『相手も務まるでしょう』って自分が……ていうかキミ、普段は京都――」

「ところで、ひとつ質問があるんですが」

「無視!?」

「どうして将棋を始めたんです?」

 彼女の発言を全面的にシカトして、赤司はさらに言葉を接いだ。リコは口を開けて呆然とその顔を見つめる。赤司は表面上の笑みを消し、真面目な面持ちで彼女を見ていた。嘲るふうではないが、妙な迫力がある。悪いことをしたわけでもないのに、なにやら責められているような気分になりながら、リコは口を開いた。

「絶対に勝ってやろうと思ったのよ……」

「?」

 赤司が首を傾げる。

「――そう、赤司 征十郎、あんたにね!」

 ビシィッと赤司に人差し指を突き立てながら、リコは高らかに言い放った。彼女の勢いに押されてか、赤司の頭がすこしばかり後ろに逸れる。

「私はあんたが納得できないわ。負けたことがないですって? 認めない! そりゃあ人生はその人のものだし、勝とうが負けようが他人には関係ないわ。ただね、私が納得できないのよ! 悔しいの。負けず嫌いなのよ、私。だから、バスケとは離れたこういうサシの場で戦って勝ちたかったの。あんたの得意な土俵でね!」

 「もちろんバスケの試合でも負けないけど!」そう言って腕を組み、リコはフンッと息を吐いた。

「こうして合同練習という名目のもと、同じ場所に会する機会があったからには、俄然闘志が湧いたわ。事前の勉強も怠らなかった。なのに、せっかくの研究の成果は一番屈辱的なかたちで終わるし、まったく一泡吹かせられなかったじゃない。そりゃ、始めて日の浅い私が圧勝できると思ってたわけじゃないけどね。もうちょっとそのポーカーフェイスを崩すことくらいできると思っていたのに」

 ああだこうだと言い募っているうちに、赤司は胡乱げな顔から次第に困惑した顔へ変化し、最後には呆れたような不可解そうな顔になった。

「変わった人ですね」

「あんたには言われたくないわ」

「しかし、――ふむ。なかなか興味深い。頭の出来も、監督としての手腕も認めざるをえない優秀さだというのに、どうしてそんなに馬鹿なのか」

 なぜ空は青いのかと訊くくらいの率直な言い方で、赤司は言った。リコは再び、開いた口がふさがらない状態である。

「あ、あんたは……なんでそう歯に衣着せぬ言動ばっかなの」

「いえ。社交辞令であやふやにするほうが失礼だと察したもので。上辺だけのやりとりがしたいわけでもないでしょう?」

 確かにそうだ。繕った仮面越しに話をしたいのではない。だがしかし、仮にも他校の先輩相手にその発言はいかがなものか。

 すると、リコの文句や説教を待たずして、赤司がふいにリコの手をとった。指先をそっと柔らかく握られただけだというのに、有無を言わせぬ手付きであった。突然のことに、リコの反応は数秒ほど遅れた。

 ガリリ、と不吉な音。それは皮膚の上から骨を軋ませる音。少年の整列された歯が、少女の細い指に牙を剥いた音。

 リコは絶叫した。

 彼の手をはたき落とす。歯を立てられた指を守るように自分の胸元へ隠して、リコは信じられないというふうにわなわなと震えた。ギッと鋭く赤司を睨む。

「なにすんのよ馬鹿!」

「たとえばの話です」

「はぁ!? じゃなくて――」

「たとえば、僕が今あなたに『好きだ』と告白したなら、どうしますか?」

 ものの見事に遮られて、吐き出そうとした叫声は喉でつっかえた。おまけに内容を噛み砕くのに少々の時間を要する。勢いを飲み込んだせいで二、三度引きつりながら、リコはもう一回「はぁ?」と怒鳴った。

「どうするもこうするもないわ。お断りよ! 私は目上に対して不遜な人間は嫌いだし、いきなり女の子の指を噛むような不届き者も嫌いよ」

 ほとんど悲鳴のような声でリコは吐き捨てた。否が応にも、顔がじわじわと紅潮してきたのがわかる。

 赤司は呑気に苦笑しながら、ゆるりと頬杖を付いた。

「これはこれは。ずいぶん嫌われたものだ。そんなに全力の拒否をせずともよいでしょうに」

「あんた自分の行動を省みなさいよ。拒否されない要素があったと思ってるの? いくらあんたが負けることを知らないっつったって、人の感情までは操れるものじゃないわ」

 ずばり、と言ってやると、ふと赤司が目を伏せた。憂いを秘めた瞼が、静かな思案を浮かべている。

「なるほど、これが痛みか」

「はい?」

 あいかわらず話についていけないまま、またもリコは疑問符を頭上に羅列する。

「痛みとは、肉体に受けるものだけではない。精神にも痛覚はある。それも、精神の傷は肉体と違って治りが遅い。もしかしたら一生完治しないかもしれない。癒えない傷を一生抱え込んだまま、心のどこかに影を落として白日の下を歩かなければいけないかもしれない。そうすると、本当の意味で人を殺すのは心の痛みというやつなのでしょうね。治る見込みがないまま、蓄積されていく重みに耐えきれなくのはきっと心のほうなんだ。そうか、なるほど。勉強になる。あなたが僕を分からず屋と言ったのも、今なら頷ける気がするな」

「……ごめん、現状じゃ私の方が分からず屋だわ。あなたがなにを言ってるのか1ミリも把握できないもの」

 まさにお手上げというかんじで、リコはただ赤司を眺めた。勝手になにやら納得している様子の独裁者は、リコをそっちのけで一人思索にふけっている。

「相田さんは言いましたね。痛みを知らない僕には、治癒のための薬やリハビリや回復期の尊さがわからないと」

「言ったけど……」

「ならば教えてください。この小さな棘が全身を覆う茨になる前に、遠泳の果ての一息目とやらを、他でもないあなたが」

 唄うように言った赤司に対して、リコはしばし無言になった。

「どうしてそう回りくどいの。伝えたいところが理解できないんだけど」

 一筋縄じゃいかなそうなところも魅力だ。そう、赤司の口は紡いだ。

「答えを探すのはあなたの役目だ。僕は充分ヒントを出した。これ以上不利な条件を科すのはおもしろくない。あえてなにかを言うのであれば――」

 赤司 征十郎は唇を綻ばせた。おそらく初めて目にする、いたずらっ子のような彼の笑顔だった。

「僕が打ったのは一撃必殺の5二銀。それはじわじわとあなたの逃げ道を奪う死に神の鎌。もういやというほど知ったでしょう、相田さん。僕は勝利以外を認めない。敗北する痛みなど、やはりこの身には正しくない。息が止まるような苦しみも、涙が流れるような辛さも、過ぎるのを待つだなんてとんでもない。根絶するのが僕という人間だ。今にあなたはそれを目の当たりにすることになる。さあ、ようこそ底なし沼へ」

 赤司は悠々と、どこかうっとりと、芝居がかった口上を読み上げる。これは彼の天帝の目が告げる予言なのか、それともただの戯れ言か。なにひとつとして意味を解せぬまま、リコはとりあえず「そう簡単に狩られるようなタマじゃないわ」と、向かいの男を睨め付けた。

 食えない表情で彼女の眼光を受け止める少年。その瞳の奥に、なにやら見知った光を見た気がして、リコはとっさに視線を逸らした。彼に噛みつかれた指が視界に入る。

 この指の意味は知っている。だが、赤司 征十郎の意図はわからない。結局、彼を知るためにわざわざ設けた時間は、彼をさらに不可解な存在として再認識するだけの時間として終わってしまった。

 リコは自分の手を眺めて首を傾げる。

 それは左手の薬指だった。




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*『花の見た夢』様へ提出




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