※大学生パロ・捏造過多




 真っ白な平面世界が突然の振動によって崩され、リコは夢と現の狭間に投げ出された。正確には“呼び戻された”という。すやすやと気持ちよく漂っていた眠りの国は、今や中途半端な名残だけを残して消えていく。どんな夢を見ていたか、すでに彼女にはわからない。

「おはようございます」

 健全そうな、どこか潔癖さを感じさせる声音が、頭上から落ちてくる。まだはっきりとは覚醒しない眼(まなこ)をゆっくりと巡らせると、赤司 征十朗がベッドの端に腰かけて、薄く微笑んだ。

「気持ちよくお休みのところをすみません。でも、そろそろ支度を始めないと遅刻しそうなので」

 彼は、申し訳なさそうに眉を下げた。リコは寝ぼけた顔を隠すように、手の甲を額に当てた。

「ううん、助かった。完全に爆睡してたから、たぶんこれ一人じゃ起きられなかったわ」

「ならよかった。お節介だと叱られたらどうしようかと」

 王子が姫に触れるような繊細な手つきで、赤司は布団からゆっくりとリコを起き上がらせた。リコは唇を真横に伸ばしたまま硬直する。下心の感じられない、あまりに自然な紳士的行いは、女の子扱いというものに慣れていない彼女を驚かせた。または置いてけぼりにした、青ざめさせたと言ってもいい。

 だから、恭しくリコの手を導いて立ち上がらせた赤司が、「夜更かしした後ですし、消化の良いものをと思って、お粥を作ってみたんですが」と笑うのに、コクコクと頷くことしかできなかった。

 ここは、一人暮らしをする赤司の部屋だ。


 赤司とは大学が同じだった。バスケ部を引退してからは、黒子たちの試合に応援に行ったりするくらいしか、バスケに関わることがなかった。たまに指導に行ったりもしたが、自分たちで自立することも大事だろうと、極力見守る体勢についていた。

 洛山の主将として君臨した赤司は、三年間その地位を確固たるものとしたまま卒業した。だが、リコは試合会場で対峙する以外に、赤司をくわしく知っていたわけでもない。彼のその後など知るよしもなく、たまに開かれる誠凛高校バスケ部OBの集まりでその話題が花開くこともなく、彼の近況が耳に入ることもなかった。仲違いを払拭したキセキの世代がたまに会っているらしいのに、よかったわねと安心しているくらいだった。

 そしてある日、相田 リコは赤司 征十郎と再会した。

 赤司は大学から再び東京に戻ってきていた。バスケの推薦もあまた来ていたらしいが、そのどれもを蹴って、彼は偶然にもリコと同じ大学へ進学した。やりたいことがあるのだそうだ。大学を卒業した後は将棋の道へ進みたいと思っている、という話も小耳にはさんだ。


「飲み物はコーヒー、紅茶、日本茶、ミネラルウォーター、どれにしましょう? ジュースは買い置きがないので、我慢してもらわなくてはならないのですが」

「あ、じゃあ、その……紅茶で」

「了解しました。すこし待っていてください」

 はい、と手渡されたのは、白いタオルだった。柔軟剤のCMに出てきそうな、ふかふかとした柔らかな手触りのタオルだ。

 赤司がある方を指差す。それをたどって見ると、風呂場らしきドアがある。無論、洗面所もそこに併設されていることだろう。“茶の用意をしている間に顔を洗ってきてください”という、周到な時間配分だ。リコは思わず舌を巻いた。下手な新妻より準備がいい。

 赤司の部屋は2DKだ。リコが寝ていたのはベッドのある寝室で、もう片方の部屋はダイニングの仕様になっている。広々とした空間の方が落ち着くのだと、赤司はわざわざ大学から電車で四五分かかる場所に、比較的安値で部屋を借りていた。だったら実家で暮らせばよかったのでは? と尋ねたこともあるが、「一度くらい、一人で暮らすという経験を積んでもよいかと思ったもので」と、なんとも無難な返答を返された。彼の家庭が一般よりかなり裕福で、そして少し難しいという話は小耳に挟んでいたので、それ以上の言及は避けた。

 言われたとおりタオルを持って洗面所に向かう。顔を洗うと、頭がだいぶシャッキリした。タオルは予想どおり肌触りがよく、リコの家とは違う洗剤の香りがした。

 フウと息を吐くと、そこにある景色たちについ視線が向かってしまった。台に並ぶ歯ブラシや歯磨き粉などといった日常的な物たち。それらが、赤司という人物とうまく結びつかない。だが、彼と再会してからそんなギャップを感じる機会は多かったので、赤司について考えを改め直す事柄がまた一つ増えただけとも言えた。普通に景色に溶け込んでいるヒゲ剃りに、何故だか気まずい気持ちになりはしたが。

 当たり前のことだが、赤司 征十郎は普通の人間であった。なにか、超越した神的雰囲気をかもし出していたが、けっしてそんなものではなかった。その志やら信念が常人と違っていただけで、赤司自身は普通の生身の人間だった。初めて対戦した頃、彼のファナティックで傲慢な態度を「ふざけんじゃないわよ」と一蹴したのは他ならぬリコであったが、やはり彼女も心のどこかで赤司を特異な存在として見ていた部分があったのである。

 そして今、あの頃見られなかった彼の「日常的部分」に触れることで、リコは彼の輪郭がはっきりしはじめているのを感じていた。一言で言うなら、赤司のことを多く知り始めていた。不可思議な感覚だった。


「ちょうど用意ができましたよ。どうぞ、座ってください」

 朝日に照らされる赤司の笑顔は眩しい。涼しい外見とあいまって、まさに爽やかとしか言いようのない朝の風景だ。

 リコはといえば、その爽やかさに逆に気圧されてしまっていた。こういった状況を、どう受け止めればいいかわからない。「失礼します」と、一人暮らし用のローテーブルの前に腰をおろす姿には、普段の勝ち気な様はかけらもなかった。きちんとした小綺麗な座布団に縮こまって座るくらいしか、今の彼女にできることはなさそうだった。

 赤司は、箸・スプーン・フォークといったカトラリーたちをひととおりそろえて、リコの前に並べる。食事の用意はすでに整っていた。せめてなにか手伝いたいと思ったが、口を出すこともはばかられる赤司のテキパキとした動きに、結局「あ……」と声を漏らして一礼するしかできなかった。

 最後に、蒸らし終わったらしい紅茶が、リコのカップに注がれる。ふわりと、かぐわしい芳香が寝起きの鼻をくすぐった。

「ダージリンはお嫌いじゃなかったですか?」

「……好きよ」

「よかった」

 男とは思えない、完璧な用意と気遣いと立ち回り方だ。女子力、という言葉がリコの脳裏に浮かぶ。

 テーブルの上には、刻みネギのかかった卵粥と、レタスとキュウリとトマトのサラダ、互いの飲み物の入ったカップが並ぶ。嗜好を考えてか、クロワッサンとロールパンの入った籠も置かれていた。きわめつけに、「食後には刻んだ苺入りヨーグルトもありますので、お楽しみに」などと言われては、狭い肩身がなおのこと狭くなる。

「なにからなにまですみません……」

 蚊の鳴くような声で謝罪すると、「これくらい、気に病むようなものではありませんよ。さあ、召し上がれ」と極上の微笑。つくづく、見知った彼の姿から変わったものだと思いながら、リコは手を合わせた。

「いただきます」


 今の赤司は、牙を抜かれた狼だった。彼はあの日、相田 リコ監督率いる誠凛高校バスケ部に敗北したあの日から、少しずつ変わっていった。勝者としてあり続けた赤司の、初めての敗北。感じたことのない絶望・空虚・無念、そして受け入れられない彼の心。すべてを解き放ったあの日から、すでに四年の月日が流れた。

 一度はなくし、消えてしまったなにもかもは、赤司をひどく打ちのめした。だが、それは同時に、彼という人間をよりクリアなものにシフトチェンジした。盲目さがなくなると、今度はやけに恐ろしい怪物のようになった。やはり、苦渋を舐めた人間というのは、這い上がり方も執念の沙汰だ。その鬼気迫るリベンジの念には、リコも身震いを覚えたほどである。二度目に対戦した際の、赤司の静かな面持ちの裏に隠した般若の形相を、いまだリコははっきりと思い返すことができる。汗一つかかずに「何者も、見下ろすことは許さない。頭が高いぞ」などとのたまっていた頃の彼からは、およそ想像もつかなかった。

 リコが知っている赤司といえば、そんな面くらいだった。いくら試合後にどんな変化を遂げていようと、彼のプライベートにはいっさい触れたことがない。どんな人物か判断する材料は、コート上の帝王の姿くらいのもので、リコは赤司という人間がどういった性質の者か、正確には知らなかったのである。

 それゆえ、キャンパス内でばったり赤司と顔を合わせた時、リコは引きつる以外のなんの反応もとれなかった。ともすれば、警戒するように相手の目の奥を探ったりもしたものだ。

 そんな彼女に赤司はうっすらと笑い、「相田さんではないですか」と声をかけてきた。拍子抜けするほどの無圧力な空気に、リコは「はあ」と怪訝な顔をした。あれは夏のことで、赤司は黒いポロシャツを着ていた。赤い髪や瞳とあいまってか、特別派手でもない格好がいやに魅力的に映った。モテるだろうな、とひっそり思った。装飾といえば腕時計くらいのものだったが、それでもなぜか決まっていた。

 窺う視線を捨てきらないリコに対し、「相田さんもこの大学だったんですね」と赤司は笑った。リコの知っている狂気じみた笑みとは違う、邪気のない笑いだった。「赤司くんこそ」とリコは答えた。肩にかけた鞄をかけ直しながら、「こんなところで会うとは思わなかったわ」と言うと、彼は「僕もです」と目を細めた。

『相田さんが監督を引退されてからは、ベンチに座っている姿を拝見することもありませんでしたしね。その後、お元気でしたか?』

『ええ。たまに後輩たちの練習は見ていたけれど、それもそんなに頻繁じゃなかったわ。後任の方にできるかぎり任せていたし、引退した人間が出張るのもどうかと思ってね。優雅に受験勉強に専念していたわよ』

『相田さんはそういうバランスの取り方がお上手な印象があります。僕の勝手なイメージですが』

『やめてよ。なんだか照れるわ』

 実際、リコはだいぶはにかんでいた。赤司は、なんの抵抗もなくそういうことを言っているようだった。だから、それが嘘でないことくらい理解していたが、どうにもごまかす言葉を発さずにはいられなかった。

『もう私は誠凛の監督じゃないんだから、そんなに持ち上げることないのよ』

『僕がお世辞を言うように見えますか?』

 そう言って強く瞼を見開いた顔には見覚えがあった。面影などというものではない。あの頃見たままの、赤司だった。

『僕は他人を過大評価しない。お世辞やおべっかなどは虫酸が走る。相田 リコ。あなたは優秀な監督であり、導き手だった。それはこの僕こそが証人だ。この赤司 征十郎をくだした――、それだけで僕があなたを評価する理由にはなるでしょう。他の人間がどう言おうとこれは不変であり絶対的な事実であり、僕が認めた唯一の敗北だ。覆すような発言は、たとえ当人のあなたと言えど許しませんよ』

 つらつらと述べた赤司をなかばポカンと見上げながら、リコは溜め息を吐いた。

『あいかわらずね、赤司 征十郎』

『そう思っていただけたほうが、こちらとしてもやりやすい。ひとまず、お茶でも飲んで親交を深めましょうか』

『いいわよ。もう、引き出されて困る情報もないしね』

『おや。ならば、スリーサイズ云々といった個人情報も、なめらかに口を割っていただけると』

『殴るぞ!』

 そんな軽口を叩きながら、赤司とリコは肩を並べて歩きだした。あれが数ヶ月前の話だ。

 得意なタイプではないと思っていたのに、赤司とリコは想像以上に打ち解けた。どちらも賢く、頭が回る。小難しい会話の応酬もお手のもの、そこにユーモアやジョークを織り交ぜることも容易い。互いにとって、有意義な話相手だと言えた。また、バスケの話に華を咲かせられるというのも大きかった。敵同士であった頃は認められなかったものも、寄り添う側になればどれも素晴らしいプレイであると賞賛し合えた。興味深いものに対する探究心も同じようにあった。そんなわけで、二人がただの知り合いから友人として仲睦まじくなっていくのに、たいした時間は要さなかった。


「味はどうですか?」

 テーブルをはさんだ向こう側から、赤司が微笑んだ。粥をひとすくい口に含んでから、「おいしいです」とリコは答える。

「それならよかった。女性に出す朝食として、こんな質素なものでは失礼だったかなと不安に思っていました」

 眉を下げる赤司に、リコは「とんでもない」と首を振る。

「すごくお腹に優しいわ。正直、寝不足がきいたのか、あまりご飯を食べる気分じゃなかったんだけど……するする入ってきちゃう」

「うれしいですね。よければ、おかわりもどうぞ」

「ありがとう。至れり尽くせりで悪いわね。――そうだ、お礼に今度は私が赤司くんにご飯を――」

「それはご遠慮します」

 無感動な顔でバッサリと切り捨てられ、リコはグッと唇を噛む。

「ちょっとちょっと、なによその即答は。これでも私、日々、料理の研究に勤しんでるんだからね」

「勤勉なのは相田さんの長所ですが、あいにく僕はいまだに部屋のキッチンを地獄絵図にされたことを忘れてはいませんので」

 その話を持ち出されては、黙るほかない。すこしずつ垣根のない付き合いをするようになった頃、リコは赤司の好物が湯豆腐であるということを知った。お節介な彼女の性分、そんなことを聞いたらすぐさま「作ってみるわ!」となってしまったのは、仕方がないことといえた。そして、リコの料理の腕前など知るよしもない赤司が、喜んでお願いしますと答えてしまったのも、また仕方のない話であった。

 ――結果、生まれたのは、惨状としか言いようのない赤司の部屋のキッチンと、“奇怪な物体”以外の言葉で形容できない“食べ物であった物”と、「しばらく料理はしない」という約束だった。その時の赤司の顔は、数年前、「もしも負けた場合は、両の目をくり抜いてお前たちに差し出そう」と部員たちに本気の顔で告げたものより、数倍恐ろしかった。

「料理の不得手は桃井が最高峰だと思っていましたが、相田さんもなかなかのものですよね」

「そ、そんなに言わなくたっていいじゃない……。赤司くんにはお世話になってるから、なにか恩返しできればな、って思っただけなのに……」

「ええ、もちろん。相田さんが僕のために頑張ってくれたことは百も承知です。その気持ちはとてもうれしく思っていますよ。でも、キッチンの有り様もそうですが、相田さんも切り傷やら火傷やらをいくつか負ったでしょう。小さなものばかりでしたが、生きた心地がしませんでした。だから、少し意地悪です。あれだけ心配させたんですから、このくらい大目に見てもらわなくては」

 しれっとした顔で人を黙らせてしまうところはあいかわらずである。

 けれど、

「これから少しずつ学んでいけばいいんです。僕がしっかりサポートしましょう」

 その後にこんなフォローを入れられては、思わず笑む以外にない。てらいのない、率直な誠意は、下向き加減だったリコの気持ちを容易に引き上げた。


 ――そしてふと、リコは思い至った。よくよく考えれば、一人暮らしの男の部屋で料理をする友人というのは、なんだかおかしな話ではないか。そういったことは普通、彼女のするものだろう。赤司とリコの間に男女の関係はない。一度たりとて、そういった関係になったことはないのだ。

 そう、今だって――

「ん?」

 リコの視線に気付いた赤司が、その薄い瞼を瞬かせる。

 ――そう、今だって、こんなふうに二人で朝を迎えてはいるが、けしてそこに艶めいた密事は介入していない。この朝は、事後の甘い夜明けなどではなかった。二人は同じ屋根の下で一夜を共にしたが、肉体関係はいっさいない。手を繋ぐことさえしていない。

 昨晩の顛末はなんとも色気のないもので、赤司の部屋でバスケットのプロ試合のDVDを見ていたら白熱してしまい、そのまま眠りこんでしまったというものだ。リコも赤司も、バスケのこととなると、学生時代の顔に早変わりする。リコはもともと食ってかかるところがあるし、赤司も平素が紳士的とはいえ、その根本に息づく思想に変わりはない。二人の舌峰に際限はなく、高度なプレイの解釈を延々とぶつけ合った挙げ句、疲れ果てて眠るまで、バトルは続いた。そして、今朝の目覚めに繋がるのである。

 さすがにこれはまずかったわよねと、リコはよく機能しだした頭で考えた。今まで、赤司の部屋に遊びに来たことはあったが、泊まったのは初めてだ。親にはいちおう、友人の家に遊びに行くから遅くなる、最悪泊まる可能性もある、と伝えている。もちろん、それが男友達の家などとは口が裂けても言えない。過保護な父が、赤司を抹殺しに来かねない。

 しかし、泊まりというのはただの保険だ。きちんと夜には帰る気でいた。それなのに、まさか本当に朝帰りになるとは――

 鈍感やらガードが甘いやら言われるリコでさえ、これは無防備すぎたと反省する。赤司はまったく気にした素振りはないし、一ミリたりとて手は出されていないのだが。

「相田さん? どうしました? やはり口に合いませんでしたか?」

 深刻になりだした赤司に、リコは大急ぎで首を振った。

「違う違う、おいしいわすごく。ちょっと別のことを考えてて……」

 赤司は首を傾げたが、それはなんだと問いはしなかった。言いたいなら言え、言いたくないなら言わなくていい。そうした余裕のあるおおらかさを、彼は存外身に付けている。

 リコは、手に持ったスプーンに目線を落とした。しばし逡巡したのち、それをカチャリと置く。

「よかったのかな、って思ってるの」

 今度は逆の方向に、赤司は首を傾けた。

「赤司くん、いま彼女いないわよね?」

「はい。というか、僕にはいまだかつてそういった人ができたことはありませんが」

 ここへきてまた一つ、彼の意外なプライベートを知ってしまった。ちょっとばかり呆然としながら、なんとか「あ、ああ、そうだったの」と返す。

「だから、こうやって仲良くしてることになんの抵抗もなかったわけだけど……今回のはちょっと軽率だったかな、って思って」

「ふむ」

 赤司もスプーンを置くと、口元に手を当てた。

「確かに、僕もそれは考えていました。恋人関係にない男女が一夜を共にするというのは、すこしばかり不健全だったろうかと」

 これだけの発言ですぐさま理解するその聡さはさすがだ。

 思案する様子を見ながら、リコは妙な寂しさを感じていた。言い出したのは自分だというのに、どこか突き放されたような感覚を抱いてしまった。

「けれど、僕たちの間に本当に不健全なことが起こったわけじゃない。僕らはただ、ありし日の情熱を語り明かしただけだ。これはけっして人から咎められることではないはずです。女性の相田さんとしては複雑かもしれませんが、そうですね――、友人と雑魚寝した、くらいですましてもらえると、僕としてもありがたい」

 ほらこれで解決した、と言わんばかりのあっさりした態度に、リコは口を開けたまま言葉をなくした。視界が狭くなるような、頭を後ろから押さえつけられるような、奇妙な衝撃。予想外に、彼女はショックを受けていた。

 またも黙りこくってしまったリコを、赤司は窺うように見つめる。


 彼自身の手でざっくばらんに刈られていた短髪。高校時代から、その長さが大きく変わった様子はない。当時のことを思い出すと、彼が火神にしでかした所業は許しがたいものだ。あの頃は、こうしてこの人とふたりきりで朝食をとる風景など、想像すらできなかった。世間話をすることさえ、ありえないことのように思っていた。

 黒子や火神を迎えて参戦したWC。決勝で初めて対峙した洛山高校。一年生ながら、すでに王者の頂点に君臨していた赤司 征十郎。

 根は悪い奴ではないのだと、完全無欠の独裁者を、呆然とゴールを見上げるその瞳を、あんなにも巨大に見えた背中がポツリとライトに照らされている様を、ただの意固地な少年だと思ったあの日。

 もっと彼のことを知っていればよかった。もっと触れる機会を作っていれば、優しくすることだってできたのに。けれど、その役目は自分ではないと、あの頃のリコは思っていた。

 そして、今でもそれは確かな事実だと感じている。キセキの世代、以前の仲間、そして洛山のチームメイト。彼を支えるにふさわしい人々は、他にたくさんいたのだ。リコができることといえば、そのいけすかない鼻っ柱をへし折って、「どうだ」と言ってやることくらいだった。


「相田さん」

 静かに、けれど空気を裂くようにはっきりとかけられた呼びかけに、リコは体を震わせた。

「今から僕は至極どうでもいい話をする。朝のニュースのようなものだと、聞き流してくれてかまわない」

 毅然とした前置きだった。あまりどうでもよくなさそうだと思いながら、リコは赤司の顔をじっと眺める。

「君は僕が好きなのか」

 息を吐くように爆弾が放たれた。ちょうどリコもハッと息を飲んでしまったので、その爆弾は彼女の口に吸い込まれ、脳味噌のあたりで爆発した。

「なっ――!」

「ああ、すまない。聞き流してくれと言ったのに、質問形で話をするのはルール違反だな」

「そういうことじゃなくて! 急になにを……」

「初めに言ったはずだ。これは至極どうでもいい話。いわば、ただの独り言だよ。深く考えず、軽い気持ちで流してくれ」

 無茶言うな!

 まさに、愕然、という言葉がふさわしい。机についた手がブルブルと震えた。リコの顔は青ざめ、しかし湯気でも立ちのぼりそうなほど赤かった。

「確かに僕たちは、はたから見て恋人同士かと誤解されるほど、親しい友人関係に発展した。以前テツヤに会った際、そのことについてかなり驚かれたし、いまだ信じられない様子でもあった。……のわりに『カントクのこと、よろしくお願いします』と頭を下げてきたが」

 黒子くんらしい、とリコは小さく吹き出す。

「それはなにもテツヤだけじゃない。洛山の元チームメイトや、キセキの面々にもその話をしたが、だれもかれも『意外だ』と半信半疑だった。桃井だけは、あの柔軟な思考で受け入れていたようだが、男連中は首を傾げるばかりだ。まあ、それも仕方のないことだろう。高校時代、僕たちはお世辞にも仲が良いとは言えなかったし、繋がりと言えばバスケとテツヤ、その程度だった。君も、誠凛のOBの方々にさんざん問い詰められたことだろう」

 そのとおりであったので、リコは引きつった半笑いで目を逸らした。「何故!?」「アイツといて話弾むのか!?」と疑いの眼差しを向けられたのは、記憶に新しい。特に火神は「オススメしねーぞ、カントク! ……です!」と必死の形相だった。

「でも、みんなが言うより私たちずっと相性がいいみたいだわ。私も昔は『腹立つ、絶対ボコボコにしてやる、赤司 征十郎!』って思ってたけど」

「しかしながら、僕たち二人は思いのほか意気投合した。この出会いは、僕があの頃バスケをして、相田さんが監督をしていなければなかった出会いだ」

 おもむろに、赤司は立ち上がった。ビクリと肩を揺らし、挙動不審にその動きを追っていると、彼はぐるりと机の周りを回って、リコの横に腰をおろした。

「ためしてみようか」

 そう言って微笑み、彼は両腕を広げた。

 リコは呆気にとられて、眼前の赤司を上から下まで見た。

 色を持つようになった彼の瞳。まるで凍らせたように、なんの感情も見いだせなかった、過去の冷徹な目ではない。浮かべた微笑みは、勝利以外のなにものも見えていないのではと思わせた、昔の笑みではない。伸ばされた腕は、待ち受けるたくましい体は、相手選手の未来を読み、屈服させ、自身のための道を開かせた、天帝のものではなかった。

 いつか、黒子が言っていた。

 ――「赤司くんは、本当は誰よりも思慮深くて、優しいんです。周りのことをよく見ていて、かすかな変化もすぐに読み取ります。ただ、時に頭の固い思考に陥ってしまうのが玉に瑕ですが」――

 褒めるだけでなく、しっかりと短所を指摘するあたりはさすがだと、リコは笑ったものだ。

 そうして、その真の意味を知った。リコは、赤司の本質が暴君ではなく、大人びた温和な青年であることを知った。その紳士さには、黒子と通ずるものがあるということを知った。中学時代はその優しい部分が大多数であったこと。仲間を大事にし、また固執しすぎていたこと。そのため、キセキの世代がバラバラになった後、まるで戒めのように残った唯一の絶対――“勝利”にしがみつき、傾倒し、壊れていってしまったのだということ。出会った頃の赤司は、ちょうどその渦中にいたのだということも、すべて今になって知ることができた。

 しがらみを解き放った今、赤司は以前のように理知的で聡明な、みんなのまとめ役としての赤司 征十郎へ戻った。だが、時として高校時代の彼がちらちらと見え隠れする。あれも彼の一部なのだから当然だ。あいもかわらず自分に逆らう人間には容赦しないし、何事に関しても勝つことが最上の手立てだと信じている。それが剥き出しだった頃と違い、今は上手に皮をかぶっているが、ふとした時に見せる正論すぎて腹の立つ持論には「理不尽だ!」と声を大にして叫びたくなる。まあ、それに真っ向からぶつかれる度胸があるからこそ、リコは赤司とうまくやっているのだろう。


 僕が好きなのか、という問いに、首を振る理由が見つからなかった。


 リコはおずおずと、赤司の懐へもぐり込む。抱きつくのではなく、もたれかかるように彼の胸へ頭を預けた。そうっと、赤司がリコの体を包む。先ほどのタオルと同じ柔軟剤の匂いと、男の香りがした。

「不快ではないかい?」

「ええ。なんだか無性に安心するわ」

「ならよかった。ということは、君は僕のことが好きなんだね」

 決め込んだように言われると、リコの性格上、素直に頷くことができない。

「赤司くんはどうなのよ」

「僕? お察しのとおりさ。相田さんに対して、かなりの愛情を傾けている」

 シンプルに好きだと言えばいいのに。なかば呆れながら、それがこの人だと、リコも両手を赤司の背中に回した。

「私も、好きよ」

 赤司の腕の力が強まって、互いの密着度が深くなる。リコの柔らかな茶髪に、赤司は頬をすり寄せた。

「欲望のまま、食べてしまおうかと思ったことも多々ある。でも、フェアじゃないだろう。僕が本気でかかれば、女の君に勝ち目はない。なし崩し的に寄り添うなんて馬鹿らしい。それで離れていかれるのはもっと耐えられない」

 彼の肩越しに、凍った白い窓が見える。外は寒そうだなぁとリコは考え、このあたたかな腕を心底愛おしく思った。

「赤司くんって、その……いつから私のこと好きだったの?」

 今さっき確信したリコと違い、赤司の口ぶりはかなり前からリコを特別視していた物言いだ。

「さあ。僕にも明確な時期はわからない。もしかしたら、」

 白い窓ガラスのような、静謐さがおりた。

「君が誠凛で、監督として毅然とベンチに座っていた頃から、僕は君の虜だったのかもしれない」

「…………」

 ちっとも恥じらう素振りのない告白に、耳が溶けてしまいそうだった。赤司の声音が、今まで聞いたこともないほど甘ったるかったのも理由だろう。

「な、なんで急に敬語じゃなくなったの?」

「せっかくの本音が他人行儀だと、腹を割った気にならないだろう。それに、これで晴れて僕らは彼氏彼女の関係になった。自分を諫めるための年上扱いも、必要なくなったというわけだ。そうだろう? リコ」

 初めて下の名を呼ばれた彼女は、唇をへの字にして眉を寄せる。

「流れるように事を進めるね、赤司くん」

「長く機を窺った。すべては君に好かれるために。その願望が叶ったんだ。少しばかりわがままを言ったところで、大目に見てくれ」

 うっとりと囁くものだから、リコとしてもこれ以上責め立てられない。だが、照れくささだけはどうにもならなかった。あやすように背中を撫でられるのも恥ずかしい。殺伐と睨み合うほうが、まだ挑戦的になれる。

 ふいに、赤司はリコから体を離した。赤と橙の瞳が、真正面から彼女を見据える。狙うような色気をまとった笑みは初見のもので、また一つ新しい彼を知ったのだと、リコは肩を竦めた。

「奥手な君のことだ。ここで『ならば』と押し倒そうものなら、しばらくの間、口を利いてくれなくなることは目に見えている」

 否定しきれず、「うっ」と口ごもる。それさえ見透かしたように、赤司はふっと目を細めた。

「ようやくここまでこぎつけた。それだけで万々歳だ。僕はこう見えて我慢強いほうでね、そして執念深い。ほしいものは間違いなく手に入れようとするし、そのための努力も惜しまない。手中におさめたなら、今度は絶対に手放さない。それだけの覚悟があって、君は僕を好きだと言うのかい?」

「めんどくさいわね」

 きっぱりと言い放つと、赤司はめずらしくキョトリと目を瞬かせた。その胸の真ん中あたりへ、リコはビシリと指を突き立てる。

「好きになったら相手の全部がほしくなるのは当然! 相手に好かれたいと思うのも、そのために頑張るのも当たり前のことでしょ。普通のことよ。だから、なんにも躊躇することなく、必要とすればいいの」

 高々と告げるリコは、まさに威風堂々。「さあ、勝ってこい!」と部員たちの背中を押す、“カントク”であった頃のリコと、なんら変わっていなかった。

 ――もしかすると赤司は、ずっとこんなふうに叱咤激励されてみたかったのかもしれない。


「勇ましいことだ。それでこそ、僕の好きになった女性」

「赤司くんは傲慢なわりになぁんか一歩引いてるのよねぇ」

「そうしなければ押さえ込めないものがあるということだよ。僕も一人の男だからね。自分自身の理想が高いせいか、汚い部分まで受け入れてもらえるものかわからない。できることなら、綺麗なものだけ見せていたい」

「そんなかたっくるしい付き合いはごめんだわ。冗談じゃない。本音も愚痴も不平不満も悪いところも全部見せて。そうじゃないと意味がないでしょう」

「本当に――」

 再び、赤司はリコを抱き寄せた。軽く爪を立てるように、指先に力が込められる。

「かなわないな」

 吹き出し笑いと共に出された声は、ひどく無邪気で、リコまで意味もなく笑いだしてしまった。


 そうして、ひとしきり笑った後、講義の開始時刻が間近に迫っていることに気付いて、大慌てで支度を整えるはめになるのだが――

 幸せな恋人たちには、そんなこと、取るに足らない些末なアクシデントにすぎなかった。


「一段ずつ登っていこうじゃないか。ひとまず、その寂しい呼び方はやめてもらおうか」

「ぜ……善処するわ」




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