そこに死体がある。正確には死体ではなく、“死体のように脱力し、机に突っ伏した紫原 敦”がいる。長い腕をめいっぱい放り出し、机に熱烈なキスをする勢いで額をこすりつけている。これがドラマの死体役であったなら、その見事な魂の抜け方に、荒木 雅子も「うまいうまい」と手を叩いて褒めてやるところだが、誠に口惜しいことにここは日曜日の午後から放送されるサスペンスドラマの撮影現場などではない。東北秋田の辺境、陽泉高校一学年エリアのとある一角。簡単に言えば教室。授業をし、昼食をいただき、敬意やらとは程遠い雑な掃除をする場所。今は夕暮れに照らされて、暗闇と橙色のコントラストを携えている。

 等間隔に雑然と並んだ同じ造りの机たちの一つに、紫原は座っていた。一般生徒のサイズに合わせた机と椅子は、規格外の図体の彼には窮屈そうに見える。伸ばした足は一人分のエリアを優にはみ出しているし、紫原が覆い被さると茶色い卓面の範囲がいやに少なくなる。まるで、大きな生き物が小さな生き物にしがみついているようだ。彼の前に椅子を置いて座る雅子は、ひっそりと机に同情などしてみる。だが、目の前の見た目は大人、頭脳は子どもの大男には、そんな優しさを持って接しはしない。

「おいこら、まだ問題は終わってないぞ。解け」

 腕と足を組み、その足で彼がへばりついた机の足をガツンと蹴る姿に容赦はない。顎を上げて見下ろす目つきは100%ガンたれているとしか言えないドス黒さで、背後に漂う威圧感をことさら重たいものにした。

「まさ子ちん、もうオレ無理。燃料切れ。お腹すいた。お菓子……」

 うつ伏せの頭からくぐもった声がする。死んでいるわけではないのだ。雅子の圧力をシャットアウトして、紫原は欲望優先としか言えない子どもじみた不平を述べた。

「お前、何分ごとに燃料切れるんだ。さっき食ってからまだ2分と45秒しか経ってないぞ。試合中はもうちょっと保つだろうが」

「だって負けるのヤダもん……」

「じゃあ、これも勝負だと思えばいい。期末テストという名の試合だ。平均点以下は負けだ。負けたら次のバスケ部の試合にも出してやらんぞ」

「えーっ! 横暴ー」

 ようやく頭を上げた――といっても、完全に面を伏せた状態からわずかに上げただけだが――紫原は、駄々をこねる小学生のように言った。実際そのまんまだった。

 雅子の苛立ち指数がジリジリと上昇していく。似たようなやりとりは、この勉強会という名のお守りが始まってから十と三回ほど繰り返した。「まさ子ちん、オレもう飽きたー」「……これであと5分集中しろ」「わーい、おかえりオレの豚キムチ味」という流れで凌ぎ続けて、はや数十分。食べた後すぐは、彼も仰せのままに問題集と真剣に睨み合っている。だが、それもほんの数分のこと。正確に言えば2分45秒のタイムリミット。まさに童子。結婚もしていないのに、ママ回の席で自分の子どもをいかに長い間おとなしく遊ばせておくかに切磋琢磨するお母様方の心情を理解してしまう。紫原から奪った菓子を人質に、馬の鼻先に人参をぶら下げる方式で進めてきたが、いい加減にイライラも最高潮である。雅子はその印象ほど気の短い女ではないが、意味合い的にはやはり短気だった。

 それでも、大人の余裕と我慢と見栄でこめかみの怒筋をいさめ、「ほら」と手元のビニール袋から、彼の愛食する菓子を取り出す。

「まさ子ちん……!」

 さながら、砂漠でオアシスを見つけた旅人のごとく、紫原は表情を輝かせた。皇帝から褒美を頂戴するような恭しい手つきでまいう棒シーザーサラダ味を受け取り、好きな人の隠し撮り写真を見つめる女子中学生みたいなうっとりした視線を送る。初めてもらったバレンタイン・チョコの包装紙を破るように、10円の駄菓子の包み紙を丁寧に裂く。恍惚とも感動ともつかぬ表情でそれにかじりつき、満面の笑みで咀嚼する。その輝かしい笑顔と対照的に、雅子の顔の上半分には縦線が増える一方である。よくそれだけのことでそんなに感極まれるものだ。彼女は思わず頭を抱えた。

 バスケ部員が紫原に勉強を教えたがらない理由が、此度の経験でよくわかった。紫原は、別段頭が悪いというわけではない。確かに出来がいいとは言えないが、人並み程度に試験を乗り越えられるくらいのレベルである。よけいなものが入っていないので、「これはこうだ」と言ってやると「なるほど、これはこうなのか」と理解することができる。飲み込みは悪くない。バスケへの取り組み方と似たものだ。しかしながら、元来の面倒くさがりやな性格や、興味のないことに対して徹底的に意欲を示さない姿勢から、授業内容の聞き漏らしが著しく多い。この授業でなにを聞いていたんだ、と問えば、「空見てた」だの「お腹減ってそれどころじゃなかった」だの、もはや罵声も尽きるというものである。

 そんなわけで、その抜けを埋める作業がテスト前には必要となる。彼が普段のテストを人並みに乗り越えているのは、ひとえに氷室の尽力があってこそだったのだと、雅子はいっそ賞賛する気持ちで思った。常ならば、その氷室が根気強いアシストと見事な紫原転がしでなんとかしているのだが、あいにく今日は私用でいない。

 面倒見がよく、落ち着いた物腰の氷室は、紫原の保護者のような立ち位置にいる。一日くらいかまわないだろうと思うのに、ぼんやりした後輩が心配でたまらないのか、彼はテスト週間に入る前の最後の部活で、皆に向かってこう言った。

「一日だけでいいから、だれか敦の勉強を見てくれる人はいないか」

 全員がサッと目を逸らした。部員内で「お前がやれよ」「いやお前が」という目配せが交わされる。

 ――女子かお前らは。

 腰に手を当てながら、雅子は内心でそう毒づいた。

 一週間のうちのたった一日だけでいい。他の日はすべて自分が見るからと、氷室は必死になって周囲を見渡す。だが、依然として部員たちの目線は明後日の方角から戻ってこない。雅子は爪先で体育館の床を叩き始めた。丹念に磨かれた床が、タン、タン、と小気味よいリズムを立てる。当の本人はまるで他人事のように、その光景をぼうっと見ている。あまつさえ「お菓子……」と呟き、自分の買った菓子の入ったビニール袋を探しだす始末だ。氷室を取り囲む部員たちは、いまだ我こそは逃げるの態度を屈さず、意味不明に口笛を吹いたり、バッシュの紐を結び直したりしている。雅子の爪先が、ダン! とひときわ大きな音を立てた。

「その役目は私が請け負おう」

 え、と振り向いたバスケ部の面々は、途端にギクリと固まった。背後で腕組みをして立っていた雅子のオーラが、誰の目に見てもまずい気配を放っている。毒を持った大蛇の幻が見えるようだ。体からなにかがほとばしっている。「え、これが噂に聞くゾーンか?」と的外れな数人が目をこすった。

「チームメイトが困ってるのに知らんふりとは、お前らいい根性してんじゃねぇか。そんなんでよくチームワークがどうだの言ってられるな」

 全員の顔からザアッと色が消える。それを見てニヤリと口元を歪める雅子の笑みは、どう見ても悪役のそれであった。

「気が変わった。氷室以外の部員は残って筋トレメニュー×5セットをこなしてから帰れ」

 ぎゃああああ! と阿鼻叫喚の渦が巻き起こった。お前のせいだ、お前のせいだ、と騒ぎ立てる男共を「うるさい!」と一喝する。いつから持っていたのか、愛用の竹刀をスウッと取り出し、陽泉高校男子バスケットボール部の女監督、荒木 雅子は、鋭い目つきでこう言った。

「筋トレメニュー×5セットだ。同じことを二度言わせるな。1回でもサボれば、さらに5セット上乗せするぞ。わかったらさっさとかかれ!」

 それが“監督としての”本気の号令であることを瞬時に察した部員たちは、目の色を変えて素早く筋トレの体勢に入る。その中に律儀に氷室が混ざっているのを見て、まったくできた奴だと雅子は嘆息した。

「えぇ〜、マジで? もう疲れたしー」

 ……だというのに、その相棒はこんなにもできていない。痙攣する頬を押さえつつ、雅子は紫原 敦に振り返った。

「元はといえばお前が原因だ。お前がやらんで誰がやる。とっとと位置につけ。さっきも言っただろう、紫原。同じことを何度も言わせるな」

 紫原はおもいっきり顔をしかめたが、彼とてこれがジョークの類でないことは理解している。いや、させられていると言ったほうが正しいか。その竹刀が飛んでくる前にと、紫原はしぶしぶといった様子で氷室の横についた。

 主将の野太いかけ声が響く。濃密な練習で疲弊しきった体に鞭を打ち、部員たちは筋トレを開始した。

 ――まったく。いくら紫原が聞き分けのない奴だからと言って、そこまで嫌がることはないだろう。いつも熱心に面倒を見ている氷室に手を貸そうともせず。

 雅子の中に、正義感に似た、まっとうな感情が働く。監督としての責任感のようなものもあった。

 他の奴らがやらないなら、私がやってやる。

 そう思ったのだ。彼女は本当に純粋に、そう思ったのだ。そして、その生真面目な性質が災いし、こうして頭を抱える羽目になっている。

「まさ子ちん、どしたのー?」

 眼前で、紫原がのんびりと首を傾げる。すでにまいう棒はたいらげて、指についた粉を舌で舐めとっている。それに対して「行儀が悪いぞ」というコメントを送ることしかできないくらいには、雅子は疲弊していた。今ならバスケ部員たちのあの反応にも納得できる。これは戦いだ。それも、相手と戦うのではない。怒り、狂い、投げ出してしまいそうな自分との戦いなのだ。起こしては倒れ、起こしては倒れを繰り返す棒を相手にするような、果てしない根比べ。しかも、部員たちにあれほど強気に宣言したものだから、「もう知らん」とキレて出ていくこともできない。結果、溢れ出る怒りを押さえ込んで、彼を手懐けるほかないのだった。こんなことを今まで涼しい顔で行っていたのかと思うと、ほとほと氷室には頭が下がる思いである。

「氷室にはかなわんな……」

「ん? 室ちん?」

 まいう棒を補給したおかげで再び問題集を開いた紫原は、なんのことだと言うように雅子を見た。

「ああ。アイツはいい旦那になるに違いない。……いや、いい父親、かな。なんにしろ、ああいうタイプが結婚相手だと苦労しなさそうだ」

 正直な感想と賛辞を口にしたつもりだったが、紫原は少し眉を寄せた。

「なにそれ。まさ子ちんって室ちんみたいなのが好みなわけ?」

「好み……というのとはちょっと違うが、氷室ならまあ、女との交際もソツなくこなすんじゃないか」

 言ってから、馬鹿か私は、と我に返った。交際もなにも、相手は高校生だ。いくら真面目な話でなくとも、選手を導く立場の自分が、教え子を相手にそんな色恋を混ぜた話をするのは完全にタブーである。それも、生徒であり、同じチームメイトの紫原に対して。

 ――失言した。

 疲れていたのかもしれない。血が登ったり下がったりの繰り返しの中で、感覚が麻痺していたのかもしれない。――いいや、それは言い訳だ。自分は、気を抜いてしまっただけなのだ。紫原を叱咤できないほどにぼんやりとして、思考をそのまま口に出してしまったのだ。

 くそっ、と胸中で舌打ちし、雅子は先の発言を撤回するための二の句を告ごうとした。

「キモーい」

 紫原の声が、それを遮る。

 言葉の意味を理解するのに少々の時間を要した。知らず、瞼が内側から圧迫される。

「まさ子ちんってなに? 年下好き? ショタコン? うーわー、なにそれ引くし。キモ」

「は?」

 なにを言っているんだ、の海から抜け出せず、彼女は間抜けに声を漏らした。ダラリと頬杖をついた紫原は、まるで試合中、気に入らない人間や鬱陶しいと思った相手に向けるような目で雅子を見ていた。眉間に寄った皺が深い。

「おい、紫原。目上の人間に向かってなんだその口の利き方は」

「今そういうこと気にする必要あんの? 完璧プライベートな話じゃん。まさ子ちんのさっきのだって、生徒に言うようなことじゃないっしょ」

 ズバリと言い当てられ、雅子は軽く奥歯を噛んだ。紫原にはこういうところがある。敵意と好意の裏表が激しい。好きな相手にはくっついて離れないのに、嫌いな相手はとことん嫌悪し、見放し、かえりみない。気に入った相手であっても、自分の思いどおりにいかなかったり、嫌になってしまえば、掌を返したように冷血になる。自身の感情の起伏を隠さない。その時思ったまま、感じたまま、繕いもせず相手にぶつける。まったくお子様じみたものだ。けれど、だからこそグサリと抉る。

 雅子はフーッと息を吐いた。

「確かにそうだな。私が言っていい台詞じゃなかった。悪い。反省する」

 紫原は、ジトリとした視線を揺るがさない。

「そうやって逃げるのずりーよな。それで室ちんへの気持ちごまかしたつもり?」

「氷室への気持ち? 馬鹿を言うな。私が言ったのはあくまで一般論。客観的に見た感想を述べたまでだ。女っていうのはそういう擬似的妄想が好きな生き物なんだよ」

「室ちんで妄想するってこと? 付き合ったり、チューしたり、結婚したり、そういうこと」

「……話をきちんと理解してから口を開け、紫原。そんなんじゃ社会に出てから苦労するぞ」

「俺、難しいことわかんない」

「それでも、考えなくてはならない時が必ず来る。いつまでも子どもじゃいられないんだぞ」

「……そうだね。まさ子ちんはもうオバサンだから、そういうのわかるんだよね」

 雅子の後頭部あたりで、ピシリという音がした。静かに、蛇が地面を這うように、彼女は視線を上げる。紫原の不機嫌な面持ちとは裏腹に、彼女は今一切の表情というものを取り払っていた。

「ああ、そうだ。ワタシハオバサンダカラナ。氷室みたいなガキンチョを相手にはしないし、氷室もこんなオバサンを相手にはしないだろうよ。これで満足か?」

「もー、まさ子ちんウザーイ」

 顔を歪める紫原から、とても自分の部の監督に向けるものではない、率直な口が飛び出る。ここに他のバスケ部員がいようものなら、ガタガタと肩を震わせて絶句しただろう。雅子の顔面からは、あいかわらず色が消えたままだ。

「そんなウザいからまさ子ちん結婚できないんだよ。室ちんなんかで妄想するからだよ」

 ケッ、と唾を飛ばさんばかりのこういう態度は、試合の最中などによく見られる。彼は勝利に固執し、敗北することをなによりも嫌がる。だから、負ける状況というのが大嫌いで、弱い人間も同様に嫌う。または、彼にとって「ウザい」という認識に分類される対戦相手。小賢しい、生意気な、けれど食らいついてくる者。特に、ガツガツとした熱血タイプ。そういった者に対しての容赦のなさといったら、本当に普段のあのポウッとした男と同一人物かと疑うほどだ。彼が一番中身の幼さを全開にし、または年相応の癇癪をさらけ出す場面。

 ――そう、相手は子どもなのだ。図体ばかりデカくて、バスケのスキルは飛び抜けているけれど、しょせんは16歳のクソガキ。思春期。男と女をそういうふうにしか考えられない。周りにいるのは同年代の若い女子たち。私はオバサン。正論だ。これだけ歳が離れている。私がお前をクソガキと称するように、お前は私をオバサンと称する。道理だ。まったく、笑えるくらいに、そのとおりだ。

 雅子は膝に乗せていたビニール袋に目を落とした。指でチラリとめくってみると、細長い菓子が一つ残るだけになっている。あれだけ大量にあったというのに。

 その最後の食料を、雅子は手にとった。まったく、こんなものを動力源にしなければいけないなんて、本当に仕方のない子どもだ。仕方がない。仕方がない。仕方が――

 バキッ

 と、鈍い音がした。目の前でだらしなく座る2メートル8センチの巨人の時間が止まる。今起こったことが信じられないというように、呆然と雅子の手の中のまいう棒を見つめている。

 雅子も、自分が握り潰した紫原の菓子をじっと見下ろす。思いきり握ったので、もはや大半がサラサラとした粉であることが、触覚から伝わってくる。とりあえず封を切ってみた。わずかに固まりは残っているが、予想どおりほぼ粉の状態である。こぼさないように注意しながら、雅子は上を向き、紫原の前でその中身を一気に口の中へと放り込んだ。チョコレートの味がした。

 一連の流れを、紫原は呆けたまま眺めていた。雅子が咀嚼を始めてから二秒ほどして、

「ああぁぁ――――――っ!!」

 信じられないほど大きな声が出た。

「まっ、まさ子ちんが食べた! オレのまいう棒食べた! チョコ味食べた! 勝手に砕いて食べた!」

 怒涛の勢いで言い募りながら、紫原は雅子からビニール袋をひったくった。カサリという音しかしない、からっぽの内部を覗き、口を開けっぴろげたまま再び絶句する。みるみるうちに呆然から愕然、そして絶望へと表情を変える紫原を、雅子はのんびりまいう棒を食みながら見ていた。

 これでお互い様だ。馬鹿な奴め。だからガキだというんだ。

 結婚適齢期、しかしもうすぐそれすら超えて三十路にさしかかろうとする年齢の女に、軽はずみな発言をするからだ。見た目とそぐわない、赤ん坊にたとえられる内面を持っていたとしても、無菌室で育ってきたわけではない。いちおうは十六年、俗世に揉まれて生きてきたのだ。この男が今までどれほど周囲に甘やかされてきたかは、一年足らずの関係でも想像に難くない。しかし、今は違う。今、紫原は、雅子の監視下にある。言っていいことと悪いことの違いくらい理解してもらわなくては困る。雅子は彼の監督・指導者として、バスケ以外のことも教えなければならない。縦社会の厳しさ、目上の者を敬う姿勢、美しい敬語の使い方、当然の我慢。心のどこかで手遅れだともう一人の自分が囁いていようが、そんなことを言って投げ出していては元も子もない。それは人が大人になるにつれ、当たり前に身に付けなければいけないことであり、つまり“オバサン”と言われてカチンとくる年齢の雅子も、自然と受け入れることを強いられたものたちである。先輩は後輩に託すもの。今のままの人生観で大人になった時、困るのは紫原なのだ。そんな事態に彼を陥らせないためにも、多少厳しくとも、時には心を鬼にして辛く当たることも必要だ。

 自身の苛立ちを抑えるための完璧な言い訳に、雅子は一人うんうんと頷いた。そして、ガタリと椅子をひく音が響いたかと思いきや、

 勢いよく腕を引かれた。

 ぶつかったとしか言えない痛みを伴って、唇が合わさる。ここには雅子と紫原しかいないのだから、今キスをしている相手は紫原 敦に相違ない。普段はお菓子かバスケットボールくらいしか持たない大きな手が、雅子の腰に無骨に回る。長身の彼に立ち上がられ、その唇の高さに合わされてしまうと、足が地面とさようならした。嘘だろ、と思ったが、今や爪先すら空気の上に立っているのである。どうやら彼は二人を隔てていた机に膝を乗せて距離を縮めてきたようだが、それでも数十センチの身長差の前には勝てない。

 あまつさえ、紫原は容赦なく舌を突っ込んできた。雅子の口内に残る菓子の残骸を舐めとるように、所狭しと動き回る。嘘だろ、ともう一度思った。そこまでするのか。

 紫原の菓子への執着は知っていたつもりだが、まさかここまでとは思わなかった。普通の人間ではありえないことだ。

 甘い欠片を一粒もあますことなく捕らえられる。もちろん、互いの唾液も喘ぎ声も絡み合った。生理的な反応とは困ったものだ、と雅子は眉をしかめる。

 すっかりまいう棒チョコレート味を吸収しきって、紫原は雅子から唇を離した。上がった息がゼェゼェと耳につく。至近距離で見つめる紫原の目が、どこかうっとりときらめいていた。

「まさ子ちん、かわいい……」

 ふわふわと熱に浮かされたような声で、紫原が囁く。そのまま手に力がこもり、彼はもう一度顔を傾けた。恍惚と、その瞳を閉じる。目の前の男より何年も生き、人生の荒波に揉まれ、それなりの経験則を持つ荒木 雅子の脳内に、次の言葉が浮かんだ。


 食 わ れ る


 再度、唇が触れ合う刹那、雅子はグイと紫原の肩を押した。

 パシン、と肉が肉を打つ音がした。素早さを重視した結果、それほど振りかぶることはできなかったが、彼の目を覚ますには充分だったようだ。紫原はギョッとしたように、横に逸れた顔を雅子の方へ戻した。その表情がみるみるうちにしょぼくれていく。叱られた子どものような、泣いている子どもを前にしたような――。それを見ただけで、現在自分がどういう顔をしているかは予想できた。

 躊躇いがちに、紫原の手が離れていく。足がリノリウムの床について、ようやく安定感が戻ってきた。紫原は少しよろけながら、崩れるように椅子に座る。雅子も先と同じように、腰を降ろした。

 紫原は俯いて、ジッと押し黙っている。こうべを垂れた姿は、普段より幾分小さく見えた。

「……まさ子ちん、ごめんなさい。調子に乗りました」

 ポソリと、紫原が呟く。静かな教室でもなければ聞き逃してしまいそうなほど、か細い声だった。

 ――こういうシンプルなところは、長所だと思うんだけどな。

 雅子は五秒ほど紫原のつむじを睨みつけると、ハアッと重い溜め息を吐いた。

「今度やったらブッ殺す」

 紫原はガバリと頭を上げると、数秒間の不安げな面持ちの後、ふにゃりと相好を崩した。

「うん」

 ひどく安堵したふうに、頬をゆるめる。締まりのない顔だ。もっとも、バスケをしている時以外で、あまり締まった顔を見られることはないが。

「よかった。オレ、もう絶対まさ子ちんに嫌われたと思った」

 肩をすぼめて、おずおずとこちらを見る姿に、雅子はあらゆるものがないまぜになった溜め息を零した。

「本来ならふざけるなと一発ぶん殴ってやるところだがな。まあ、私にも非はあった。すまん。今度新しいのを買ってやろう。チョコレート味だったか」

「いーし、別にそんなん」

 めずらしく慌て気味に首を振るあたり、どうやら本当に悪かったと思っているらしい。それなりの年相応さは、かわいらしいなと目を細めるには充分だった。

「なら、今回のことはお互い様として水に流そう。お前も気に病むな。私も忘れる。さあ、心配事もなくなったところで、取りかかるとしようじゃないか」

「まさ子ちん、男前だね……」

 話題をスッパリ切ったという意気を見せ、忘れ去られていた問題集をポンと叩くと、彼は眉を八の字に下げた。

 意にも介さず、雅子は転がっていたシャープペンシルを手にとった。器用にクルリと回して見せる。

「男前上等。ここで仮に私が『責任とれ』なんてめそめそ泣きだしたらどうする」

「オレはいーけど」

 カラン、と床にシャーペンが落下した。手遊びの道具がなくなった雅子の右手は、空中で停止したまま行き場がない。一秒に満たない思考の混濁を振り払い、雅子は平素のキリリとした顔を瞬間装備した。

「バカなこと言ってないでさっさとやれ。留年してたら結婚なんてできんぞ。いつまでも高校生、なんて奴を相手にしたがる女はいない」

「えっ。じゃあ、卒業したらまさ子ちん結婚してくれんの」

 そういう意味じゃねーよ。

 どうしても話の小筋しかとらえられない紫原に、雅子は今日何度目かしれない、ドッと疲れた気持ちになる。会話の流れから、気の利いた返しをしたまでだったのに、まるでふりだしに戻った気分だ。

 ちらりと見やれば、彼はそわそわするのを隠しもせず、雅子の返答を待っている。2メートルを超えた大男が乙女ちっくに頬を染めている図など、雅子でなくとも萌えるはずがない。だから、その小首を傾げる仕草はやめてくれ、と雅子は内心で舌打ちした。

「お前が卒業するまでそのつもりでいて、なおかつ私がまだ未婚だったらな」

「大丈夫、まさ子ちんならあと5年は売れ残ってるはずだから」

 爛々と目を輝かせるエースに、バスケで培った技術とはまったく関係ない、瓦割りのようなチョップをおみまいする。痛い痛いと抗議する声を、フンと鼻を鳴らして一蹴。取り付く島もないと悟ったのか、紫原はしぶしぶと問題集を開き始めた。ようやくか、と雅子も肩の力を抜く。

 窓の外に目をやると、夕暮れだった空はすっかり夜へと呑まれ始めていた。赤と青のグラデーションが、遠い向こうで混ざり合っている。陽が落ちるのが早くなった。この前まで、夜の七時でも明るかったというのに。進んでいく時を間近で感じると、なぜか無性に取り残された気分になる。知らない間にあらゆるものが自分の脇を通り過ぎていったような、不可思議な焦燥を抱く。

 そうやってきっと置いていかれるのだ。移り変わる季節の空模様のごとく、あっという間に。手塩にかけた選手たちも、そう遠くない未来、自分の手を離れて飛び立ってしまう。あさはかに承諾してしまったことを後悔しないわけではない。だが、まだ若い彼のこと。これから先、いくらだって出会いはあるだろうし、その中にはもっと好みの女、好きになれる女も存在することだろう。大人の女が好きなら、それこそ高校を出てから方々に出会いが転がっている。閉鎖的空間で見つけた一人に縛られているのは、きっと三年間のこと。もしくはもっと短い、一瞬の勘違い。

 ならば、今は舞い上がらせておけばいいかと、雅子は思う。それで目の前の問題集に精を出してくれるなら、ふざけた口約束であいまいにしておくのもいいだろう。本気の話でもない、いつか消えてなくなっていく不確かなものならば。

 歳はとりたくないものだなぁ、と雅子は椅子の背もたれに体を預けた。陽泉高校男子バスケットボール部の監督となってから、はや数年。瞬きをするような速さで、高校生というのは駆け抜けていく。青春を謳歌し、成長し、未来を夢見ながら巣立っていく。それを傍らで支えながら、その実いつもハッキリした寂しさを抱えていた。教師や指導者であればおかしな話ではない。思い入れが強いのだから、胸にぽっかりと穴が開くのも自然な話だ。そうわかっていながら、指導する手に熱が入ることを止められない。自分は指導者で、彼らと同じバスケットボールプレイヤーだからだ。寂しい悲しいなどという感傷は、汗水垂らす熱さには不似合いである。

 雅子は笑った。キョトリとして面を上げた紫原の頭を、乱雑に撫でる。だらしなく伸ばされた長い髪が乱れ、紫原は「う、え、あ」と妙な声を上げた。

「よーしよし」

「なに、なんなの、まさ子ちん」

「いや、なに」

 雅子は一度、遠いところを見る目つきで紫原を眺め、ひそめるようにその切れ長の目を細くした。

「いつかお前と酒を呑む日がくるのかなぁ、と思ってさ」




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