駅は信じられないくらいの混雑だった。混んでいるのはいつものことだが、今日は格別である。理由はあきらかで、今夜行われる花火大会に集うため、皆が電車を利用しているのだ。

 友達と、あるいは一人で花火や屋台を楽しむ者。世の中の娯楽など無関係、仕事や部活で疲れた体を休ませようと家路を急ぐ者。この人混みにうんざりし、静かさを求めて都外へ赴く者。普段となんら変わらぬ日常生活を送っている者。あらゆる人間が、掃除機に吸い込まれるように駅へと飲まれ、吐き出される。詰め込まれ、目を回しながら、夕暮れの駅内の流れに乗る。


 はあ、と吐いた溜め息は、電車の訪れを知らせるアナウンスや、車体が線路を踏む鈍い音、喜怒哀楽の様々な話し声にかき消された。

 相田 リコは、自身の魂の残量が底突きかけているのをひしひしと感じながら、人の波に揉まれていた。

 ありえない人出である。夏の風物詩、一大イベントの存在は知っていたが、リコに出向く予定はなかった。みっちりと充実した部活の疲労感を引きずったまま、家に帰ってダラリとしていたかった。その矢先にこれだ。帰宅ラッシュの時間帯ということもあり、広大なはずの駅はまさに人の海。しくじったかなと、彼女は再び誰にも聞こえぬ吐息を零した。

 夏場は日が長い。屋内競技のバスケ部にそんなことは関係ないが、やはり冬場よりも練習を引き伸ばしたくなる心理が強まる。暑い、しんどい、ダルいとボヤく部員たちも、なんだかんだでバスケ馬鹿の集まりであるから、朝から晩まで水溜まりができそうなほどの汗をかきつつ、練習に打ち込んでいた。正式な終了時刻となり、リコが部室で個々の練習法の精密化に頭を捻り、ノートにあらかたのことを書き込んでさあ帰ろうとなった時も、まだ体育館からはボールをつく音が聞こえていた。

 当然、若き女監督からの雷が落ちる。

 ――適度な休息は大事。体を酷使しすぎるのはよくない、って言ってるのに。

 もみくちゃになりながら、リコはむぅと口を尖らせた。しかし、そこに真の剣呑さは見当たらない。真摯に練習に励む部員たちを誇りに思い、慈しんでいるのは、他ならぬ相田 リコ監督なのであった。


 形ばかりの「しょうがないわね」という表情を浮かべながら、リコは下へ向かう階段にさしかかった。

 ふと、違和感を感じる。

 あやふやに背景を消していた脳の視覚処理が、いきなりブゥンと音でも立てて機能し始めたような感覚だった。なにかを、察知したのだ。

 たとえば白いシーツがあるとする。目に眩い、純白の清潔なシーツだ。もしもそこに赤いシミがテンと付いていれば、それがどんなに小さなシミであろうと、紛れることはできない。浮き上がるように意識を引きつけ、白色の波間にチラチラと姿を見せる。異質なものは、ごまかすことができない。


 大変な人混みだった。都会育ちのリコでさえ辟易とするような、一年に数度の異様な混み具合。その中で、彼は確立されていたのだ。

 それは、彼が浴衣姿だったからではない。花火に向かう者の多いなか、色とりどりの浴衣は、もはや見慣れたものだった。それは、彼のゆったりとした足取りのせいでもない。さながら競歩の選手のように颯爽と歩く都会人は多いが、友達同士肩を並べてちんたら歩く者もいなくはない。彼の歩み方は堂々としてスマートだったが、後ろを歩く人がイライラするほどのろくもなかった。鷹揚な雰囲気がそう見せていただけなのかもしれない。

 リコは階段を下るところで、相手は上るところだった。なんのこともなくすれ違うだけのはずだったが、思わず体が強張った。相手のその乾いた瞳も、しっかりとリコの姿を捕らえた。尖らせているわけでもないのに不自然にほの暗い赤が、音もなくリコを圧迫するようだった。


 まあ、えてして知り合いに会う時は、こういうふうに下心もなく見つけてしまうものだ。ほとんど交流もなく、顔を合わせたことも数えるほどしかないが、彼にはオーラがある。だから発見したのだろう。

 非常にめずらしい、ある意味“奇跡”の邂逅をそう結論づけ、リコは動揺を頭の隅に追いやった。振り切るように軽く会釈をして通り過ぎる。彼の方は自分を記憶していないかもしれないが、いちおうこちらは見知った顔なのだから、挨拶もなしでは気持ちが悪い。

 それなりに無難な対応だったと胸を撫で下ろす。――が、

「こんばんは」

 ごく近くで声がした。瞼が縮みそうなほど目を見開いたリコは、首だけで横を見やる。まさか、わざわざ人の流れに逆らって来たというのか。とてもそうとは思えない一糸乱れぬ様相だが、斜め後ろに立っていたのは、間違いなく先ほどすれ違ったはずの赤司 征十郎だった。

「相田さん、でしたよね。誠凛の監督の相田 リコさん。覚えていますか? 洛山高校主将の赤司 征十郎です」

 覚えているとも。むしろ、赤司の方がこちらの情報を正しく記憶しているのに驚いたほどだ。

 けれど、高校生、しかも女の身の上で、男子バスケットボール部の監督業を担っているというのはきわめて奇異な話だ。世の中の理しかり、周囲の反応しかり。誠凛高校が躍進的な成果を上げていることで、それに対する誹謗中傷、陰口は激減したものの、いまだ見えないところで嘲笑じみた、あるいは下卑た好奇の視線の的にされていることを、リコ自身知っている。そんな、あらゆる意味で有名な立場だ。よくよく考えれば、覚えられていてもそれほど不思議はなかった。特にうちには、彼の元チームメイトがいる。

「ええ、覚えているわ。こんばんは」

 引きつっていた顔を行儀のよい笑みに貼り替え、リコは軽く頭を傾けた。


「花火を見に、こっちへ?」

 わざわざ引き返して声をかけてもらったので、一応話の種に、わかりきったことを尋ねる。案の定、赤司は「はい」と頷いた。

「京都からは時間がかかったでしょう」

「そうですね。でも、思っていたより早く着いたんですよ。集合まで、少し時間があまってしまいました」

「あらら。でも、もう屋台とか出てるはずよ? すこしぶらっとしてみてもいいんじゃない?」

「一人では少し味気ないかと思いまして――。それに、屋台にはあまり興味がないんです。非経済的だし、合理的じゃないでしょう。値段と質のバランスが正しくないというか」

 一緒に出かけたくないタイプだわ、と思いながら、リコは「男の子ってそういうとこあるわよね」と苦笑した。意外と普通に会話が弾んでいる。だが、そろそろこの大混雑の中で立ち止まっているのも居心地が悪くなってきた。先ほどから、通行人にあからさまな「邪魔だ、どけ」という目を向けられている。赤司が人の流れる側に立ってくれているのでぶつかられたりはしないが、たまに彼の背中や肩に当たっていく者も目に付いた。赤司 征十郎の人となりの端っこを垣間見ているだけのリコでさえ、そのことにギクリギクリと肝が冷える。いつ何時、彼が道行く無礼者の首根っこをつかみ上げ、「誰の許しを得て僕に触れている。身の程を知れ」と脅すか知れない。今、彼はとても柔和な微笑を浮かべて立っている。早くこの場を去り、彼を決まった流れの中に戻さなければ。


「じゃあ、私はこれで。楽しんできてくださいね」

 愛想のよい笑顔を浮かべながら、リコは会釈した。語尾までたどり着く前に、足は一歩を踏み出していた。性急に元の濁流に身を任せ、――だが、

「相田さん」

 声が遠ざからない。最初の「こんばんは」と同じく、肩のすぐ後ろから声がする。不気味な感覚に苛まれながら、リコはおそるおそる振り向いた。今さっきと寸分変わらぬ距離感を保って、赤司 征十郎が困ったように笑っていた。


「今からお時間ありますか? よければ僕の暇つぶしに付き合っていただけると幸いなのですが」

 誘い文句なら、もっと言葉を選んだ方がいいわ――。

 了承する態度が渋々なものになったのは、そんな台詞を飲み込んだせいだった。


      ・


 時は数十分後。賑わうファストフード店や流行りのカフェを避け、二人はいわゆる“喫茶店”で顔を突き合わせていた。商社ビルの地下にあるその店は、馴染みの客や高い年齢層が多いらしく、駅の付近にあるにも関わらずひどく空いていた。だが、漂うコーヒーの芳香は香り高く、良店であると判断するのは難しくなかった。

 人の熱気がなくなり、冷房の風を久しぶりに感じる。けれどちっとも快適ではなかった。


「相田さんは花火を見に行かないんですか?」

 白磁のカップをソーサーに置き、赤司 征十郎は言った。浴衣姿にコーヒーというのは珍妙な光景だ。湯気の上る熱い液体は、まるで瞬間を体現するように底が見えない。

 細長いグラスに入ったアイスコーヒーをストローから一舐めし、リコは目線を上げた。

「そうね。今日は部活の予定だったし、疲れちゃったからもういいやって思ってね。赤司くんは、今日は部活お休み?」

「幸運にも午前練習だけでした。前々から行くことを打診されていたのですが、本当に予定が空いたので、午後から向こうを出たというわけです」

 そのわりにしっかり浴衣まで着込んでやる気満々のようだけど。ああ、でも、京都にいるのだったら、そういう日本人的情緒には意外と敏感なのかしら。

 彼をじっと見て、心の内だけでそう言った。あまり下手なことを言わないのが得策だろう、と主観的にも客観的にも判断している。会話を長引かせるのも同様だ。向こうは一応私服なのでよいが、こちらは制服姿なのである。補導などされようものなら、あらゆる面で問題が生じる。

 しかし、表情の読めないミステリアスな店主は、うら若いカップルのデートだと気を遣ってくれているのか、咎めたりする素振りがない。いっそ「学生はお断りだ」と追い出してくれたなら、あっさりと逃げ延びれたものを。とりあえず、このアイスコーヒーを飲み終えるまでは、席を立てそうにない。


 やはり、こんな日くらい部活は休みにするべきだった。部員の中にも、今夜の花火大会に赴くという者は結構いた。これだけ体力を使った後にタフな人たちだ、と感心しながらも、リコはちょっとばかり後悔した。それなら、初めから今日の活動は休みにして、ゆっくりと学生らしい遊びに使う一日を用意すればよかった、と。けれど、そう言ったら彼らは口をそろえて「いや、いい」と言うような気がする。「それとこれとは関係ない。次の試合のためにも、今は練習に励もう」と。その後、やっぱり休みにしてもらえばよかったかなと嘆く部員がいようが、結局はあの蒸し風呂のごとき空間にみんなが集い、ボールを追いかけるのだろう。これは彼女の推測であり、願望を出ない話ではあるが。

「どうしました?」

 突然声をかけられ、リコの肩がピクリと揺れる。

「あ、え?」

 瞬きを繰り返しながら面を上げると、赤司が腕を組んで、疑問の目をこちらに向けていた。

「口元が綻んでいたようですけど」

 いけない。どうやら想像で笑っていたらしい。部員思いなのはよいことだと自負するが、はたから見るとただの怪しい人だ。キュッと口角を下げながら、リコはアイスコーヒーに口を付けた。


「そういえば」コーヒーを置いて、話しだす。

「『花火まで時間があるから』って言ってたけど、友達と合流しなくてよかったの?」

 私は早く帰りたい、という思いを抱きつつ、尋ねる。

「現地集合なんです」

「ザックリしてるのねー……。もしかして、あれ?」

 しばし逡巡し、リコは上目遣いに彼を見やった。

「今日出かける友達って、その、キセキの世代の面々だったりするのかしら」

「いえ」

 リコの躊躇いを一刀両断する、冷静な答えであった。

「あ、ああ、そうなの」

 ――さすがにそれはないか。

 多分の安堵と多少の失望に苛まれながら、リコは再びコーヒーに口を付ける。

「確かに中学時代は彼らと行動を共にすることが多かったけれど、僕も元々はこっちに住んでいたんですから、バスケ部員以外の友人の一人や二人いますよ」

 嫌味な言い方だ。ついついストローがズゾゾ、と行儀の悪い音を立ててしまう。


「早めに到着して屋台をブラブラ……っていうのもしないんだったわね」

「はい」

 何分か前にした会話だ。一人だろうが二人だろうが、彼の持論は変わらない。

「まあ、それも夏祭りならではの楽しみ方だとは思いますが。敦あたりがいれば、屋台の端から端までを網羅することになるんでしょうけど」

「?」

「ああ、紫原です。陽泉の紫原 敦」

 リコも「ああ」と声を上げた。赤司を含めたキセキの世代の一人、陽泉高校のセンター、紫原 敦のことだ。身長2メートル8センチの巨躯。高校バスケット界最強センターと名高い、圧倒的な高さとプレッシャーで目の前の選手をねじ伏せる、無慈悲な壁のようなプレイヤー。邪魔だと認識した者には容赦せず、言葉どおり“捻り潰そう”と手を伸ばしてくる。


「紫原くんか……、彼は強敵だったわね。元々の高さや素質はもちろんだけど、そこにあぐらをかいて鍛錬を怠っているわけでもない。今まで試合をしたどの学校の選手にも言えることだけど、才能と努力が合致すると、それはやっぱりはてしなく強い武器になる」

 人差し指と親指で顎をつまみ、リコは目を伏せて滔々と語った。真剣な表情のまま面を上げると、赤司がどこか妙な眼差しでこちらを見ていた。

「どうしてもそういう方面に話題が発展してしまうんですね」

 ひそかに寄せられた片眉が、困惑じみたものを表している。リコは一度瞬きする間に目線を卓上へ移し、意味もなくストローをいじった。

「そういうお誘いではなかったの?」

 瞬間、空気が停止した。赤司はふーっと息を吐くと、背中をソファの背もたれに預けた。わずか、尊大な空気が滲む。まるで今から尋問でも始まるかのようだ。モダンな喫茶店の一角が、取り調べ室に強制転換。ジワリと纏わりつくようなプレッシャーが、冷房の効いた室内で発汗を促した。


 リコは、口元にうっすらとした笑みを浮かべる。

 ――おもしろい。

 対立する学校同士。敵校の監督と主将。元チームメイトをまとめる女。王者の称号を背負う、無敗の強豪校。それを従える独裁者。一年生ながらに主将と呼ばれる男。

 和やかな話ばかりしていられるはずがない。

 リコが疲れた体に鞭打って、赤司の誘いを二つ返事でOKしたのも、それが目的だ。彼が友人と会う前に余計な手間を増やしたのも、同じ理由からだろう。たとえ顔見知りだったとしても、リコがバスケ部となんら関係のないただの生徒であったなら、赤司はわざわざ茶に誘ったりしなかったはずだ。リコと同じように軽く会釈して、通り過ぎる。それで充分だった。めまいを起こすほどの人混みをかき分けて声をかけたのは、リコが誠凛高校の女子高生監督であり、自身が洛山高校男子バスケットボール部の主将であったからなのだ。そうでなければ、特別仲睦まじいわけでもない男女が、こんなところで誤解になりかねない逢瀬を楽しむはずがない。


 頭をまっすぐに正し、彼を正面から見据える。赤司の方も同様に、しばし無言の時が流れた。

 目の前にいるのは、すっきりとした顔立ちの少年である。無駄なところを削ぎ落としたかのように、余分な要素が一つもない。パーツすべてが彼の命令に従うように、完璧な定位置を形成している。強いて言うなら、目つきの不穏さがいただけないくらいか。名を体現する赤は、激情ではなく、鮮やかな血の色を連想させる。それが、髪と右目。左目には夕焼けが同居しており、外の風景が移り込んだような錯覚をリコに与えた。濃藍のシックな浴衣に、藤色の角帯。上から下まで涼やかな外見だ。バスケットボールプレイヤーとしては上背が寂しいが、贅肉のない体躯はけして貧相ではなく、鍛え上げられたスポーツ選手のそれであることを、リコはよく知っていた。

 服の上からわかるだけの情報が、リコの網膜を通してデータを分析し始める。未知数だ。ただ、並外れた能力を有していることは、想像に難くない。


「わりと原始的なナンパ術を使ったつもりでしたけど」

 先に観察タイムを終えた赤司が、唐突に話題を元に戻す。ナンパ、という言葉が驚くほど似合わない。

 彼は口の端を軽く持ち上げたが、顔の中で意識がバラバラになっているように、柔和な口元に反して目はまったく笑っていない。あたかも笑顔という武器で人を殺さんばかりの剣呑な眼差しだ。今に始まったことではないが、どうしてこうも威圧的なのだろう。

「そうね。『彼女ー、暇なら俺と茶ぁしばかね?』はなかなか原始的な声のかけ方だったわね」

 目を閉じることでリコもウォッチングを中断し、ふざけた口調でそう言った。

「まずはお互いのプライベートなことから話して、口をなめらかにするのが良いと僕は思います。いかがでしょう?」

「あら、スルーされちゃった」

「相田さん、ご趣味は?」

「会話が成立してないわね」

 リコは腕と足を組むと、彼と同じように背もたれに体を預けた。

「ゲームが好きかしら。特に育成とか、そういう系」

「さすが、やはりご趣味も実用的だ。実に奥ゆかしい。一流トレーナーのお父上の元で成長なさっただけのことはありますね」

 リコは一度だけ視線を窓の向こうに投げた。――知っているぞ、という牽制のつもりか。

「そうね。こんなところで殿方と油を売っていることが知れたら、相手の男の家にベレッタM9とスチェッキンとM82ライフルでも持って殴り込みに行くくらいには、娘を溺愛する父がね」

「それは恐ろしい」

 赤司は緩慢な動作で両腕を広げながら、肩を竦めた。


「私もいちおう、お付き合いで訊いた方がいいのかしら。赤司くん、ご趣味は?」

「僕の趣味ですか、そうですね……、主に将棋や囲碁、チェスなどを好んでします。あとは、乗馬なんかも嗜みますが」

 思わず吹き出してしまったのは、誠に残念ながら素の反応だった。口元だけは微笑んでいた赤司の顔つきが、一気に取り付く島のない乾いた砂漠のようになる。今やまさに表情で人の息の根を止めんばかりだ。リコは(高校一年生が乗馬……!)という思考を頭から捨て去り、崩れてしまった顔をコンマ2秒で戻した。おまけで、花が綻ぶような笑顔もプラスする。

「赤司くんこそずいぶん素敵な趣味だわ。きっと強いんでしょうね」

「いえ。まだまだ学ぶことが多く、何事も勉強になります」

「殊勝だこと。“敗北”を知らないと豪語する人の台詞とは、とても思えないわ」

 愛想程度の笑みを取り戻しつつあった赤司の顔に、違う色が混じる。

「女性は“勝ち組の男”が好きだとよく聞きますけど」

「まあ、一般的にはそうかもしれないわね。でも、負けた者はなにも得られないなんて、そんなことはないでしょう。むしろ、敗北こそがあらゆるものを与えてくれるわ。勝利だけではわからないものが、この世にはたくさんあるもの」

「でも、勝利は絶対だ」

 赤司の笑みの種類が完全に変わる。


「世の中は勝者こそが絶対であり、実質的な“勝者”であり、そうでなくてはならない。勝つことは正しく、負けることは誤りだ。すべては勝者の意向で成り立ち、敗者は淘汰されるしかない。その際に生じる負け犬の遠吠えには、あいにく僕はなんの興味もない」

「それはあなたが勝者であり続けたから言えることだわ。人生で初めての敗北を喫した後でも、同じ台詞が吐けるのかしら?」

「僕に勝とうというのですか? 誠凛の監督さん。志が高いのは感心すべきところですが、残念ながらあなた方は僕には勝てない。勝利は絶対であり、僕は勝者だ」

 リコは、自身の顔に不敵な笑みが浮かぶのをこらえきれなかった。

「壁は高ければ高いほど燃えるものよ。うちはそうやって戦ってきた。何度も躓き、倒れ、得点差に呆然と涙を流したこともあったけれど、そうした過程の上に今の結果がある。そういう階段をすっ飛ばして最初から王座に君臨していることに、申し訳ないけど私は危機感しか感じないわ。あとは引きずり下ろされるだけだもの。そして、それは私たちの役目。あなたという壁を超えた時、私たちはさらなる高みへ登ることになる。私はね、赤司くん。調子に乗ってるアホ野郎の鼻っ柱をへし折るのがだぁいすきなのよ」

 にっこりと、満面の笑みを浮かべる。赤司も今日一番の笑顔でそれに応えた。ピンと張った一本の糸のようだった空気が、それすら凍り付かせてしまうくらいの絶対零度にまで急降下する。今、この脇を通り過ぎる者がいれば、その圧力に押し負かされてしまうだろう。


「堂々とした宣戦布告、お受けいたします。覚えておいてください、相田さん。僕は逆らう者には容赦しません。何人たりとも、見下ろすことは許さない。いずれ、身の程をわきまえる時が来ることでしょう」

「楽しみにしてるわ」

 微笑んだままゆっくりと、リコは表情を消していく。

「……そうやってあらゆるものを取捨しすぎて、失うものがあることを、あなたは知っているのかしら」

 リコの声が沈んだのは、頭によぎる面影があったからだ。目を逸らしたら消えてしまいそうなおぼろげな影が、真っ白になって立ち尽くしている。


「なにをもって無関心とするか、なにをもって排他的とするか、それは他の人間が決めることじゃない」

「つまり、人には人の考え方があるということかしら」

「いいえ、違う」

「ああ、そう。なら、この問答はもうおしまいよ」

 リコは、一口分だけ残っていたアイスコーヒーを飲み干した。先の返答が否定だった場合、残る回答は一つしかない。

「私はあなたのように“自分の意見がすべてを決める”っていうタイプとは分かり合えないわ」

「僕の口からいつそんな言葉が出ましたか?」

「あなたが思っている以上に人は見抜いているものよ。その形式的な笑顔から漏れ出ている不穏な気配をね」

 ここらへんが潮時だろう。これ以上腹の探り合いをしたところで、おそらく互いに得るものはない。どちらも初めから漏らすつもりは微塵もないのだから当然だ。思惑を知った者同士が相手の情報だけを得ようとしたところで、重厚なガードはそれを阻む。だからと言って、こちらの情報を開示するようなリスクを負うつもりもさらさらない。まさかこんな所で服を脱げというわけにもいくまいし、やはり舌鋒を駆使したところで無意味なのだ。この頑固な独裁主義には、きっとコートの中でしか提言することができない。

 それから、うっすらと……いや、絶対的な確信をもって言うことだが、この男とは気が合わない。

 そんなわけで、そろそろ娘の身を案じた父から連絡が入るかもしれないし、赤司の方も花火の予定がある。ここらで不毛な茶番劇はお開きとしよう。


「まあ、なんでもいいわ。その人の思想、志はその人のもの。他者が介入できる範疇じゃないし、また相手も自分の中に踏み入ることは実質的に不可能。どう思おうが個人の自由ってわけ。たとえキミが今、腹ん中でなにを考えていようと、私がとやかく言う筋合いじゃないわ。口に出すなら話は別だけど」

「予想の域を出ない話ですが、あなたよりは穏やかな胸中だと自負していますよ」

「へーえ? 『あの洛山の主将の赤司くんとお話しちゃった! ラッキー』という可能性は省くの?」

「あなたがそれだけ単純な方だったら、僕も苦心しなくてすんだと思いますけどね」

「それはどうも」

 鞄を肩にかけ、リコは立ち上がった。収穫といえる収穫は、見極めきることのできなかったあやふやな身体情報くらいか。思わず疲労の溜め息が出そうになる。


「今日は短い間だったけど楽しかったわ。今度は試合まで会わないといいわね」

 目尻をゆるめ、歩きだす。伝票をつかもうと伸ばした手が、捕まえられた。有無を言わせぬ、男の力だ。

「喚かれるのは御免だけど、賢しいのも考え物ですね」

 頭は前を向いたまま、赤司は視線だけで彼女を見上げた。その赤と橙に灯るのは、敵意と、屈服させたくてたまらないという暴君の意。

「あなたを黙らせるための手札がほしい」

 まるで愛の言葉のように低く囁かれるのは、身勝手な駄々であった。

「あいにくだけど、背中で語れるほど人生経験豊富でないの。選手を導く立場だから、どうしても小賢しい思考とは切り離せないのよ。諦めて、自分との境界線を曖昧にすることに努めたら?」

 振りほどこうと引いた手が、ことさら強い力で握り締められた。

 視線が針のように全身を指す。きっと、そういう目的で彼が向かってきたとしたら、逃れることは不可能だろう。いくら物怖じしないリコであっても、このオーラを真っ向から向けられるのはなかなか辛いものがある。


 唾を三回ほど呑むくらいの沈黙の後、フッと赤司が眉間の力を抜いた。

「まあ、なにはともあれ、これもなにかの縁です。またお時間があれば、お茶でもご一緒しましょう」

 するりと撫でるように伝票を奪うと、赤司は自分のコーヒーを片付ける作業に入った。

「自分の分くらい払うわ」

 「私の話を聞いていたの」と、どちらを言うべきか迷った。

「ご冗談を。こういう時は、男に花を持たせてやってください」

 最初の柔和な微笑に戻った赤司は、淡々とした声音でそう言った。そのあっさりとした引き方が、どうにも先ほどの「また」を現実的に思わせる。次が必ず来るような、決定事項として確定しているような、そんな嫌な予感をひしひしと彼女に与える。

 ――そんなわけはない。そのつもりがなければ、次の試合まで顔を合わせることはない。きっと……きっとだ。

 すでにリコには目を向けず、赤司はちびちびとカップの底のコーヒーを味わっている。複雑な心情が面持ちに出ていることが自分でもわかり、リコは一人でハッとした。

「それじゃあ、私はこれで。ごちそうさまです。花火、楽しんできてね」

 おとなしく奢られることを受け入れ、床に貼り付いていた足を出入り口へ向けた。

「相田さん」

 静かな湖畔に似た爽やかな声が、地下に閉じ込められた危険生物の呻き声のように聞こえた。

「では、また」

 ねっとりとしたものが、リコの細い肢体に絡む。足をつかむ。まるで呪縛のようだ。知らず、口が「また」と応じてしまっていた。


 ――厄介なことになった。苦虫を噛み潰した顔のまま、リコは今度こそ踵を返す。テーブルの間をすり抜け、木製のドアを目指す。店主がキョトリと目を瞬かせて彼女を見たが、すぐにグラスを拭く作業に戻っていった。レジを過ぎ、ドアノブに手をかけ、押し開ける。チリンチリンと場違いな音が軽やかに鳴り、それを断ち切るようにリコはドアを閉めた。その時になっても、背中に彼の視線を感じていた。息を整える。蘇るのは、予言か催眠術か、最後に聞いた、ただの一言。


 ――では、また――


 厄介なことになったと、リコは苦渋の表情で唇を噛んだ。




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