「じゃあ、これからよろしく」と言って、黄瀬と桃井は握手をした。これじゃあまるで友達になったみたいだね、と桃井が笑うと、それもそうッスね、と黄瀬が真剣に眉を寄せた。
「じゃあ、ほっぺに『チュー!』とか?」
語尾にあからさまなハートマークを付け、両手の人差し指を自身の頬に添えて唇を尖らせる黄瀬に、桃井はいささか瞳の温度を下げた。
「やだなぁ、きーちゃんってそういうことしか考えてないの」
「桃っち? なんか台詞に抑揚がないっスよ? えらい棒読みっスよ? 目に生気がなくて怖いっスよ? そ、そんな目で俺を見ないで!」
わっ! と泣き真似を始めるので、桃井は「嘘々」と、その広い背を撫でる。
「でもチューはまだ早いでしょ? やっぱりこういうことは段階を踏んで清い交際をしなきゃ!」
「……桃っちって、派手な外見のわりに古風っスよね」
「むっ、なによぅ? 不満?」
「いーや、そういうの新鮮」
「うわぁ、遊び人発言だ」
「ミもフタもない!」
きゃあきゃあと戯れじみた掛け合いをしながら、二人は距離を縮めた。ゆるりと微笑んだ黄瀬がそっと桃井の手を取り、彼女も目を伏せるようにして微笑んだ。
「じゃあ、呼び方変えることから始めよっか?」
黄瀬が提案する。桃井もうれしそうにそれに応じた。
「それいいかも。親しくはあるけど、恋人っぽくはない呼び方だもんね、お互い」
「なにがいいっスかねー。さっちんは紫原っちが使ってるし、さっちょんも桃ピョンもなんかなぁ」
「きーちゃん、たいして進化してないよ」
桃井はさもおかしそうにクスクスと笑ったが、それは先ほどまでのものよりずっとひっそりと静かだった。
「案外こういうの難しいっスよね。桃っちはなんて呼ぶようにする?」
「そだなー、“涼くん”とか?」
「おぉ……なんか微妙に照れるっス」
「あたしも」
手を繋ぎ合ったまま「ふふっ」と二人して肩を揺らした。ひどく優しくて青くて、虚しいやりとりだと思う。
「桃っち」
あいかわらずの愛称で、黄瀬が桃井を呼ぶ。だからというわけでもないが、彼女の方も「なぁに、きーちゃん」と顔を上げた。
そこには、真剣な顔をした男がいた。じっと桃井を見つめ、瞬きもせず、目を逸らさない。バスケに挑む際の熱されたものではなく、もっと種類の違う集中の仕方。目の前の人間を見据える、人間くさい人の姿。
「桃っちはもう俺の彼女になったんスから、これからは青峰っちばっかり優先しちゃだめっスよ」
「わかってる。きーちゃんこそ、言い寄ってくる女の子に尻尾振って付いてっちゃヤだからね」
「もちろんっス」
言葉こそ甘くて穏やかだが、それは笑えるほど猿芝居だった。お互いがそれをわかりきっていて、大根役者を演じることに撤している。黄瀬も桃井も、この間にある悲しい真実をきっと誰にも言わない。傍目からは、中学時代から仲の良かった部員とマネージャーが、時を超えて恋仲となった。そんなロマンティックな物語にしか見えないだろう。そのとおり、二人はこの防衛方法を、馬鹿みたいにロマンティックな話にしてしまいたかったのだ。
失恋をした。同じ人間に恋をしていた。結ばれない理由は違っていたが、互いを叱咤激励するくらいには、気の置けない友人同士だった。そして同志だった。敗戦処理として傷を舐め合うくらいには、互いの苦悩を知っていた。誰よりもライバルで、誰よりも仲間だった。黄瀬は桃井をほうっておけなかったし、桃井は黄瀬を見捨てられなかった。
「桃っち」
「んー?」
「呼び方を変えるのは今のとこ難しそうだけど、手を繋ぐはクリアしたっスよ」
「きーちゃん、その後に続く言葉って『次の段階に行ってもいいっスか?』とかじゃないよね」
「あちゃー、バレてる」
歯を見せて笑う黄瀬を、桃井は愛おしく思った。けれど、その愛おしさは恋からくるものではない。その奥底に刻まれた傷痕を知っていて、かわいそう、切ない、助けてあげたい、そう思う母性だ。黄瀬が桃井に抱く感情も、おそらくそれに似ているのではないかと思う。
ふっ、と黄瀬の広い胸が近付いてきて、ぎゅうと抱きしめられた。無造作でない、思いやりにあふれた腕だった。
「桃井さん」
耳の傍で彼が囁いた。普段の快活さのない、落ち着いた柔らかな声だった。だから桃井もその大きな背中に手を回しながら、
「なんですか、黄瀬くん」
同じように言った。
黄瀬の腕に少しだけ力が込められた。
「ははっ、これ結構キツいっスね」
「もー! やめてよ、きーちゃん。やめてよ……」
「ごめん」
そうして二人はボロボロと泣いた。“抱きしめる”というよりは、“すがりつくように”だった。
どれほど強い抱擁であっても、恋情が絡むことはない。これから先、絡ませていくことになろうとも、今はまだ、黄瀬は桃井を「桃っち」と呼ぶし、桃井は黄瀬を「きーちゃん」と呼ぶのだ。根底で、あの気持ちを忘れたくないと叫びながら、理想的な美男美女カップルとして、二人は恋人としての道を模倣的に辿るのだ。それしか道がない。
ひとつグスッと鼻を啜って、黄瀬が口を開いた。
「桃っちは俺の彼女になったんスから、もう黒子っちに抱きついたりしちゃだめっスよ」
「わかってるよ、きーちゃん。きーちゃんこそ、テツくんとばっかり仲良くしちゃヤだからね」
きっと独占欲などではないのだろう。あるのはただひとつ、相手への気遣い。もしくはただの“未練”というもの。
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