空気が澄んで、星のよく見えるいい夜だった。辺りはまるでしっとりと沈むように瑞々しく、だからといってベタベタしていない、とても清らかで静かな雰囲気に満たされていた。

 日課の夜間鍛錬に励まんとしていた潮江 文次郎は、柄にもなくその吸い込まれるような空気に動きを止めていた。雲一つない、誠にすっきりとした夜空だ。濃紺から漆黒へグラデーションを作る空に、ぽつんと月が浮かんでいる。満月ではなく、少しばかり欠けた未完成な月だが、それがまた妙な味わいを醸し出していた。

 いい夜だ、と文次郎は心中で呟いて空を仰ぐ。ふっと息を吐き、視線を空から地面へと戻した時には、彼の表情は余韻に浸る穏やかなものから、修行に奮い立つ猛々しい忍のものに変化していた。たとえどんなに美しい夜であろうと、ギンギンに忍者する潮江 文次郎の本質は変わらない。今宵も今宵とて、彼の鍛錬は始まるのだ。


 ──しかし、いつもと変わらない夜になるはずだった今晩には、いつもと違う要素が紛れ込んでいた。広い学園の敷地内を跳び回っていた文次郎は、ふと自分と同じように屋根の上に居座る人影を見つけた。

 突然の来訪者というわけではなさそうだった。その後ろ姿はひっそりと小さかったが、何時間もそこに座っていたみたいに、自然に風景に溶け込んでいた。横顔はぼんやりと空を眺め、身動ぎもしない。昔からその場に存在していたように錯覚するほどだが、それでも普段の夜間鍛錬の時には見かけたことのない人物の登場に、文次郎は首を傾げた。


「なにやってんだ、そうこ」

 ひらりとその隣に飛び移り、躊躇いもなく声をかければ、相手はひょいと顔を上げて文次郎を見た。

「潮江先輩。こんばんは」

 たいして驚きもせずに挨拶してきた少女は、やはり予想通り、くノ一教室のそうこだった。以前、あまり思い返したくないエピソードから交流を持った少女だ。特別仲がいいというわけではないが、それでも女と関わることの少ない文次郎には貴重な異性の顔見知りだった。時々、勉強を見てやったり、食い意地の張った彼女にねだられて甘味を奢ってやったりする。割合かわいがっている方だろう。そうこ自身があまり女の子女の子していないというのも、文次郎が彼女にかまう理由の一つかもしれない。まるで同性の後輩に接しているような、そんな気分になるのだ。


「呑気に挨拶してる場合か。今何時だと思ってんだ」

「お言葉ですが、それを言うなら先輩だって」

「俺のは日課の鍛錬だ。忍への道は長く険しい。使える時間があれば、それは全て自分を鍛えることに使う。それが俺の信条だからな」

「いつもながら暑苦しいッスね……」

「なんだとぉ!?」

 真剣な面持ちで己がここにいる理由を語っていた文次郎は、そうこの心ない一言に声を荒げた。そうこは鬱陶しそうな態度を隠しもしないで「どぅどぅ」と両手を前に出す。

「俺は猛獣かなんかか!」

「違いましたっけ?」

「引きずり倒すぞテメェ!」

「やだなぁ、もう。冗談ですって、冗談」

 憤慨する文次郎を見てケラケラと笑うそうこは、相変わらず目上の者に対する敬意だとか、異性に対する恥じらいだとかを持ち合わせていない。それは文次郎にとって比較的好ましいことではあったが、いかんせん彼女は同性の後輩より彼に遠慮がない。苦虫を噛み潰したような顔になりながら、文次郎は息を吐いた。


「……で? 結局お前は、なんでこんな時間にこんな所にいるんだ?」

 完全にスルーされた問いに回帰し、文次郎はそうこを見据えた。

「風邪ひいても知らんぞ」

「夏ですもん。ここは涼しくて快適なくらいですよ」

 にひ、と歯を見せて笑い、そうこは屋根からはみ出した足をパタパタと振った。子どもじみたその動作を見ていると、今から言う台詞に少しばかり羞恥と躊躇いが生じたが、案外と紳士な文次郎は口を開いた。

「だからと言って、一人でこんな時間にふらつくのは感心せんな。ガキだと言っても、女だろう」

 すると、緩んでいた彼女の頬がふいに引き締まった。愉快そうだった目尻が下がり、途端に物悲しそうに曇る。そのまま視線がすいっと文次郎から外れて、動きを止めた自分の足元に落ちるものだから、そんなに悪いことを言ったつもりはないのに、と文次郎は内心慌てた。


「──先輩。先輩には、私が女に見えますか?」

 なにかしらフォローを入れようかと思案していた文次郎に、そうこは小さく言った。文次郎は開きかけていた口をそのままに、何秒かだけ目の前の少女を凝視した。

「一応、そう見えるが」

 「男だったのか?」とふざけてみると、「女ですけどね」と冷静に返された。ちょっとした言い合いやら文句の付け合いになると踏んで言っただけに、その切り返しには文次郎も引きつるしかなかった。

「一体なんだ。どうしたんだ、急に」

 これはおかしい、と文次郎は確信して、眉間にグッと力を入れた。

 そうこは目を伏せたまま、しばらく押し黙っていた。時折、口がかすかに開閉する。何事かを話さんとしている気配を敏感に察知し、文次郎はただ彼女の言葉を待った。


「私、女の子になったんです」

 ようよう彼女はそれだけ呟いた。どことなく堪えるような表情で唇を噛む。

 だから最初から女だろう、という台詞が喉元まで出かかったが、文次郎はそれを押しとどめた。そうこは基本的に向こう見ずで、ものをさっぱり言う女だ。その彼女がこんなにまどろっこしい言い方をするくらいなのだから、そのままの解釈をしてもいけないのだろう。文次郎は多少デリカシーに欠けるが、疎い男ではなかった。なので、吐き出しそうになった台詞を飲み込むその短い間に、ある程度の可能性と考えられる答えを脳内で巡らせた。

 その結果、彼が導き出した返答は、「そうか」という素っ気ない一言だけだった。それと言うのも、他にかける言葉が見つからなかったのだ。──どうして言わせてしまったのだろう。彼は、先ほどから自分が彼女にしていた問いかけを思い出し、壁に頭をぶつけたい衝動に駆られた。文次郎は疎い男ではないが、やはり少しばかりデリカシーに欠けていた。それをこんなに悔やむ日が来るとは。

 そうこの年齢を考慮すれば、確かにそろそろなのかもしれない。文次郎は女体の構成に詳しいわけではないし、実際のところはわからない。だが、朧気な知識を総動員して考えてみれば、「おそらくそうなのだろう」という結論にたどり着く。そのぐらいには、彼は大人だった。そして、しらっとした表面上を保っていながら、逃げ出したい一心で視線を右往左往するくらいには、年頃の少年だった。

 だからと言って、ここで逃げるわけにはいかない。聞き出したのは自分であるし、今のそうこを放っておくことは、彼の良心が許さない。文次郎は漂わせていた目線を、再度そうこに合わせた。


 月光が、少女の白い肌を照らしている。伏せられた睫毛は意外に長く、悩ましい。何も見ていなさそうな瞳は、まるで水面のように月明かりを映して揺れていた。

 文次郎は声をなくした。そこにいるのは、紛れもなく一人の女性だった。ただの子どもだと思っていたのに、いつの間にこんな顔をするようになったのか。彼女が大人への第一歩を踏み出したという事実を知ったからか、真夜中の幻想か、はたまたそうこ自身が本当に女として開花したのか。もう文次郎の目には、そうこは以前のそうことしては映らなかった。

 ──成長、か……。やはり気の利いたことが言えず、文次郎は黙した。そしてふと、自分にも似たような時期があったな、と懐かしむような心持ちで目を閉じた。堅物で無駄に熱血漢な鍛錬馬鹿の文次郎だが、やはり若い男である。性への目覚めは、人並みに経験してきた。初めて夢精をした時、初めて己を慰めた時、初めて女に欲情した時。いつも彼は多大なる絶望感と羞恥心、虚無感と失望にみまわれてきた。もしもそうこがあの時の自分と同じ気持ちを体験しているのなら、なんとなくその複雑な心境は理解できる。男と女では全く同じとはいかないだろうし、もしかしたら根本的に感じ方が違うのかもしれないが。


「こないだ、うまい茶屋を見つけたんだ。明日食いに行くか」

 なるだけ普通を装って、文次郎は言った。一瞬“食堂のおばちゃんに赤飯でも炊いてもらった方がいいのだろうか”とも思ったが、きっとそうこはそんなこと望んでいないだろう。しかしながら、なにかしらしなくては、という妙な使命感が生まれて、提案したのがこれだった。

 そうこはきょとりとした顔で文次郎を見上げたが、じきに膝を抱えてうずくまり、「はい」とだけ呟いた。

 ──今晩の鍛錬はここまでにして、こいつを部屋まで送ろう。そう思い、文次郎は彼女の肩を優しく叩いた。


     ・


 翌日、約束通りおすすめの茶屋へそうこを連れていった時には、彼女はいつものそうこだった。「俺の奢りだから」と言う文次郎に「じゃあ遠慮なく!」と答え、まさに遠慮など一切感じられない鮮やかな吸引力で、出される団子や饅頭を平らげている。横で茶を啜りながら、今日だけで財布の中身がどこまで減るのか恐ろしくなり、文次郎はため息を吐いた。

「そんなに食って大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよ。体調が悪かったのは昨日と一昨日だけで、今日はわりと平気なんです」

「そうか……」

 またコメントしにくいことを。歪む口元を隠すように、文次郎は再び茶を煽った。


「先輩」

 口に含んだ団子を飲み込んでから、そうこは言った。視線は彼ではなく、地面へと向けられている。

「……やっぱりなんでもありません」

 しばらく沈黙してから、彼女は首を振る。なんともいえない気まずさが漂い、文次郎は頭を掻いた。こういう雰囲気は得意じゃない。

「めでたいことなんじゃねぇか?」

 散々迷ったが、とりあえず言ってみた。けれど、これは最初から思っていたことだ。世間一般では、初潮は良きこととして祝われる。ちらりと横目で隣を窺うと、そうこはやはり俯いていた。

「私、なんだか嫌なんです。怖いんです。自分が自分じゃなくなっていくみたいで」

 零すように紡がれる言葉に、文次郎は一つ頷いた。

「先輩は、大人になっていくの、どう思います?」

「俺も初めは嫌だった」

 正直に告げると、そうこは意外そうに文次郎を見た。それがなんだか気恥ずかしくて、今度は彼があらぬ方向を向く。

「──でも、すぐ慣れたよ」

「慣れ、ですか」

「男も女も変わんねぇよ。たぶんそういうもんなんだ。そうやって、俺たちは大人になっていくんだと思う」

「そうですか……」

 納得と疑問がないまぜになった面持ちで、そうこは言った。今はまだ、きっとわからないだろう。だが、そういうものだ。慣れるまでは、わからないのだ。だから、これ以上文次郎から言えることはない。


「うまいこと言えなくて悪いな。ただ、まあ、あんまり悩むなってことだ」

 少しでも明るい気分にしたくて、文次郎は笑った。そのまま、

「おばちゃん、団子あと三つ!」

 店奥にいる女将に声をかける。それをそうこがぽかんとした顔で見ていたが、「食うだろ?」と微笑みかければ、彼女はようやく「もちろん」と笑った。


「ねえ、先輩。私、女の子になったからか知らないけど、先輩が妙に男の人に見えるよ」

 柔らかい口調で、そうこが囁く。

「……そうかい」

 「俺もだ」とは絶対に言ってやるまい。

 運ばれてきた団子にうれしそうに手を伸ばすそうこを見ていた文次郎は、もう二度と勝手に体重を測るようなことはしないでおこう、と心に誓った。




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