天高く、澄んだ晴天のある日のこと。

 若き天才、笹山 兵太夫の最高傑作が、この日誕生した。

 兵太夫はからくり人形師であった。彼は十に満たない幼き頃から、数々のからくりを作り上げた天才児であった。最初は、戸を開けた瞬間にたらいが頭の上に振ってきたり、椅子に座ったらその足がゆるんでひっくり返ったりと、幼稚な子どものいたずら程度のものだった。しかし、日を経つごとに洗練され、仕掛けの縄を引いただけで床が抜け落ちたり、踏んづけると土の中から足枷がかかる仕掛けだったりといった、手の込んだことをするようになった。近所でもいたずら小僧と有名だったが、それと同じく、感嘆の目を向ける大人も多かった。

 その技術を見込まれ、十歳で名の知れたからくり人形師に弟子入りを果たした。本人も自分の特技を自覚しており、将来は城の技師にでもなろうかと考えていたところだった。

 彼は家を出て、師匠の作業場に住み込んだ。それからの九年あまり、兵太夫はほとんど実家には帰らず、朝から晩までからくり技術を叩き込まれて過ごした。師匠は腕はぴかいちだったが、無口で、とても厳しい人だった。兵太夫は何度も逃げ出したいと思ったが、生まれつきの自我の強さがそれを阻んだ。また、なんといっても彼は自分の技術に誇りを持っていた。年端もいかない少年ながら、己の腕前は確かなものだと自負していたのだ。磨けば光る原石だと自身を奮い立たせていたからこそ、数年に及ぶ辛い修行にも耐えることができた。そのおかげで、彼は十八になる頃には、巷で噂の人形師となるに至った。異例な成長速度だった。彼の年齢にしてはあまりに精錬された人形の出来映えに、人々はやはり彼を天才と褒め称えた。

 だが、兵太夫は世間の評判などはどうでもよかった。ただ一人、自らの師に認められさえすればよかった。彼はまだ、師匠から賛辞の言葉をもらったことがなかった。どんなに他人から作品を賞賛されようとも、師匠の作る人形にはまったく及びもつかなかった。いったいどうやったらこんなに違うものができるのだと、常日頃からしげしげと師匠の人形を眺め回していたが、悔しくなるばかりで突破口にはならなかった。目で盗めるだけの技術は盗んだはずだった。だが、やはりまだ全然足りなかった。それはおそらく絶対的な年季の差であり、積んできた場数の差であった。だから兵太夫は毎日毎日、必死で人形を製作した。師匠の手元を盗み見ながら、いつか自分もああなってやる、いつかあの人を唸らせるものを作ってやる。そう心に誓いながら、ゼンマイに使う鯨のヒゲを、丁寧に丁寧に削った。

 そんな矢先、突然師匠は病に倒れ、帰らぬ人となった。あっという間の出来事で、兵太夫はなにがなんだかわからないまま、気付けば葬式の場に座っているという有り様だった。参列者は口々に巨匠の死を悼み、嘆いた。同時に「これからは弟子の笹山氏がその名を継ぐのだろう」と当然のように希望を見いだしてもいた。

 師匠が死んでから、しばらく兵太夫はぼうっとして過ごした。なにもする気が起きなかったし、なにも考える気力が湧かなかった。ぽっかりとした空虚感にまみれて、自分しかいない作業場で一日中、樫の木を見つめていたりした。あまりにいきなりのことで、まったく心が追い付かなかった。涙を流す頃合いさえわからなかった。

 ――まだ、超えられていないのに。まだ、認められていないのに。まだ、「これでいい」と頷いてもらえていないのに。死んでしまったら二度と自分は追い付けないじゃないか。一生届かない背中を追いかけるようなものじゃないか。

 兵太夫は苦しんだ。寝苦しい夜が続いた。手持ち無沙汰な憂鬱に、頭が割れそうだった。飯もろくに食わないのでどんどん痩せた。頬がこけ、眼窩が落ち窪み、眼光だけがギラギラと光った。“鬼気迫る”とはまさにこのことだった。彼は、長年苦楽を共にした師匠の作業場で、なにをするでもなく鬱屈とした毎日を過ごした。戸も開けない室内はいつでも薄暗く、かび臭かった。布団も敷かずに床に転がっていると、師匠が木を削る音が聞こえてきそうだった。あの人はいつも、むっつりと口を真横一文字に結んだまま、黙々と人形を作っていた。兵太夫はそこそこお喋りが好きなほうだったが、ついぞ師匠と会話を弾ませたことはなかった。飯の時に、ポツポツと言葉を交わすくらいだった。その代わりに、師匠は指先で雄弁にものを語った。彼のからくり人形には、本人のかたさとは似ても似つかない夢が詰まっていた。なめらかで美しく、溜め息が出るような出来映えだった。そのゼンマイの操る動きには、人を惹きつける圧倒的な魅力があった。

 兵太夫はそっと顔を上げた。おもむろに道具箱を手にとり、倉庫にあったものの中からとびきりいい樫を引っ張り出してきた。師匠が知り合いの業者から仕入れたもので、特別な依頼の時に使おうと大切に保管しておいたものだ。兵太夫はそれを作業場に持ち込んで、なんの躊躇いもなく刃を通した。シュー、シュー、という澄んだ音が暗い部屋に響く。何回も何百回も聞き続けた音。この数年間、毎日のように聞いていた音。慣れ親しんだ音。それを奏でる師匠の節くれだった指。その指先から生み出される、世にも不思議な娯楽人形。妻も子どももおらず、人形を作ることに生涯を捧げた我が師匠。人形を見て、人形とだけ生きていたようなあの人。

 兵太夫は泣いた。ボロボロと無様に泣いた。樫の木を削りながら、涙を拭うこともなく、歪む視界で木を削り続けた。今までで一番、丁寧に削った。一つ一つの工程に魂を込めた。歯車のすべてに、自らの命のかけらが刻み込まれるようだった。そのまま彼は、数ヶ月もの間、ほとんど不眠不休で人形を作り続けた。

 気付けば、彼の前には少女の姿の人形が出来上がっていた。今までの茶運び人形などよりずっと大きな、本物の人間くらいの等身を持つ人形。いや、それは本当に人間と呼んで差し支えなかった。丸みのある白い頬、きっちりと関節を付けられた四肢、精巧な顔立ち。歯車と重しと糸のみの胴体や、生気のない瞳さえ除けば、その人形は人と変わらなかった。

 完成した時、彼は「あぁ」と声を漏らした。夢中になって作っていたものを、初めて全体的に見回した時だった。喜びとも、戸惑いとも違う、なにか狂気めいた愛おしさに、熱に浮かされたような声が出た。兵太夫は完成した人形の頬をそっと撫でた。冷たい。和紙の肌はスベスベと無機質で固い。それなのに、彼は言いようもない満足感を得た。

「あぁ、あぁ。やっと、やっとわかった気がするよ、師匠。貴方が見ていたのは、こんな世界だったのかもしれませんね」

 うれしさで胸がいっぱいになると同時に、苦しさで息が詰まった。なんとも言えない震えが背中に走った。後から思えば、彼はその時、恐怖していたのかもしれない。後戻りはできないと、本能的に察知したのかもしれない。だが、彼にその少女を生み出さない選択肢はなかった。それは必要なことだった。“儀式”と言い換えてもよかった。また、生まれた彼女を消すという考えもまるでなかった。

 兵太夫はその少女を抱き寄せながら、師匠が死んでから初めて“深い眠り”についた。夢も見ないほどぐっすり眠った。彼女の固く冷たい、自分のものとは違う感触を感じながら、驚くほど安らかに意識を手放した。命を持たないものを抱く感覚で、自らの生命を噛み締めた。そうして、彼はそれから二日間ほど眠り続けた。

 次の目覚めは空腹から始まった。作業の片手間くらいで、ろくな食事をとっていなかったため、ひどく飢えていた。兵太夫は抱き締めていた人形をそっと壁際に置くと、一目散に麓の飯屋に駆け込んだ。熊のような大男が一日がかりで食べる量の食事を、彼は一刻ほどでペロリと平らげた。線の細い青年のその暴食に、店主は目を丸くして驚いた。終いには、それでも顔色の悪い兵太夫に夕餉のおかずまで持たせてくれた。兵太夫は礼を言い、多めに代金を置いて店を出た。たらふく食べたのに、まだ足元がフラフラしていた。無理な生活がたたったのだろう。正直、体調不良で倒れてもおかしくはないほど、兵太夫は弱りきっていた。それでも、彼の心はウキウキと弾んでいた。自然と、帰路を歩む足が速くなる。

 帰らなければ、帰らなければ。――彼女が待っている。

 人形は、出掛ける前と同じ場所に、同じように座っていた。当たり前だ。知らぬ間に動いていたりすれば、それはただの怪談になる。けれど、その少女はあまりにも人間そっくりだった。口を開いてニッコリ笑って見せても驚かないと思うくらい、本物らしかった。見れば見るほど不可解な気分になる。どうやってこれを作ったか、兵太夫にはまったく思い出せなかった。意識朦朧としていたからだろうか。それとも、なにか魔に取り憑かれていたのだろうか。血眼で作り続けたことは覚えているが、自分の手がどんなふうに動いていたか、それはまったく記憶になかった。あの数ヶ月だけ、死んだ師匠が自分の体に乗り移っていたのかもしれない。

「ただいま」

 兵太夫は人形の少女に言った。当然のことながら返事はなかった。彼は、その美しい横顔に見惚れた。まだ少し、幼さを残した面立ち。自身の髪と同じように前髪を真っ直ぐ切りそろえ、後ろ髪は肩の上くらいでふわふわと踊っている。

「ミカちゃん」彼はこの人形にそう名を付けた。

 とりあえず久しぶりにまともに湯を浴びなければ……、そう思い、兵太夫は部屋を後にしようとした――が、

「せんせい」

 細い声が彼の足を止めた。

 振り返る。兵太夫本人が筆で描いたまん丸の瞳が、こちらを見ていた。

「せんせい、わたし、はだかのまんまはいやよ」

 人形は確かに素っ裸だった。服など用意していなかったから当然だ。小歯車も大歯車も露骨に丸見えだった。

「ああ、ごめん」兵太夫は素直に謝った。

「風呂に入ったら、街まで布を買いに行ってくるよ。何色がいい? 僕の好みでいいかな」

 こっくりと人形が頷く。「わかった」と、兵太夫は部屋の戸を閉めた。とたん、ブワリと冷や汗が肌を覆った。ありえないことが起きていた。これは夢か、幻覚か。自分は、狂ってしまったのだろうか。あまりの動揺に、兵太夫は湯を沸かすことも忘れて春先に冷水で水浴びをする羽目になったし、玄関を出るまでに住み慣れた家の中で四回も転んだ。街へ降りるのに二回道を間違えたし、女物の布地を見繕うはずが何故かうどん屋で団子をくださいと言っていた。それでもなんとか買い物を済ませて家に帰ると、“ミカ”はあいかわらず最初の場所に座っていた。出掛ける前のことは、やはり夢かなにかだったのではないか。疲れていたから、白昼夢でも見たのではないか。

 しかし、ミカはそんな兵太夫の考えを打ち砕くように振り返り、「おかえりなさい」と言った。

「ただいま」兵太夫はやはりそう言うしかなかった。

 確かに、この“ミカ”は天才・笹山 兵太夫の最高傑作とも言える出来映えだった。巷にこんな美しい人形を作れる技師はそういなかったし、まずこんな大きさの人形自体お目にかかれはしないだろう。和紙の貼り方も均一でなめらかだし、歯車の削り方ひとつとっても一級品としか言えなかった。けれど、彼はこの人形に喋る仕掛けなど施してはいなかった。今の技術では、人形が喋るようになるのはまだまだ先のことだろう。それなのに、この“ミカ”は喋った。言葉を発した。それに、兵太夫が設計していない動きをさらりとこなしている。

 兵太夫は自らの正気を疑うばかりだった。気が狂ってしまったと思うのが一番手っ取り早かった。人形に取り憑かれた技師の哀れな末路。

「君は――僕の作った人形なの?」

「そう。せんせいがつくったおにんぎょう」

「何故、君は言葉を話せるの?」

「いのちを」

 ミカは真っ直ぐに兵太夫を見ていた。

「もらったから」

 からくり人形の“ミカ”は真っ黒な目で言った。真っ黒なのは、兵太夫が彼女の目を描くのに真っ黒な墨を使用したからなのだが、そういうのとはまた違った、奥底の見えないがらんどうな暗闇だった。当然と言えば当然だった。彼女は人形であり、生きた人間ではない。そのつぶらな瞳に意思や感情がなくとも、不思議ではなかった。

 人の形をとるものには魂が宿りやすいという。特に人間の思念が強く籠もっていればいるほど、顕著だという。古来より、人はそれを呪いや魔術と呼び、恐れた。人形など、まさにその典型とも言える。師匠を失い、人形作りに没頭した自らの念が、彼女に命を与えたというのだろうか。

 ――それこそ、本当に怪談話じゃないか。

「こわい?」見透かしたようにミカが言った。

「正直ね、自分の天才っぷりに身震いするよ」

 事実、彼の指先は軽く痙攣していたし、嫌な脂汗がこめかみに浮かんでいた。だが、元来の彼の性分が見栄を張らせた。ミカは、その出来映えとは似つかないへたくそな笑みを浮かべた。兵太夫もつられて笑った。

「そういや、ちゃんと君の服を作る布を買ってきたよ。見て見て、綺麗だろ」

 そう言って半紙から出したのは、鮮やかな桃色の布地だった。細かい花の刺繍が散りばめられた、愛らしいものだ。

「きれい」

 ミカは、そう囁いた。それに気分をよくした兵太夫は、「よーし」と腕まくりをすると、早速着物を作りにかかった。以前は裁縫などからきしだったが、今はそれなりにできるようになった。人形作りを始めてから、自らの人形に着せる着物は自分で仕立てていた。一から十まで自分の手で作り上げてこそ価値がある、それが師匠の方針であった。兵太夫は元々器用だったので、今ではちょっとした小物まで自作できるまでになっていた。

「少し待っていて」

 囲炉裏に火を着け、すぐそばの壁際にミカを座らせる。彼女は顔を上げたり、小さな身じろぎはできるが、自分の足で立ったり動いたりはできないようだった。背中のぜんまいを巻けばできるのかもしれないが――まだそれを実践する勇気はない。

 小綺麗な布にハサミを通し、自前の糸と針でスイスイと着物を仕立てていく。ミカはなにも言わずに炎の灯りに照らされている。人形で、下手をすれば己の幻覚かもしれないその少女の存在に、兵太夫は何故だか無性に安心した。喋らずとも、動かずとも、そこに自分以外の誰かがいるということで、ここ最近の寂しさを忘れることができた。

 自分の気が狂っているとして――

 動き、口を利いているこのミカという人形が自らの幻覚や幻聴だったとして――

 それでも、師匠をなくし、目標をなくし、絶望と寂寞にまみれていた自分に“拠り所”となるものが必要だったのなら――、それを彼の心が欲していたのなら――、これは不可欠なことなのだろう。心が壊れないために作り出した幻想でも、それで荒んだ気持ちが癒せるのなら――

 そんな思想に耽りながら、兵太夫の手は着々と着物を縫っていく。さすがに人間の少女の大きさだと、出来上がるまでは何日かかかりそうだ。けれど、早くこの娘に服を着せてあげねば。

 ふとおもてを上げると、人形のミカがこちらを見ていた。がらんどうな瞳が、じっと彼の手元を見つめている。

「ちょっと待ってよ。そんなすぐにはできないよ」

「うん。ちがうの。ただ、なんとなくみていたくて」

 呟くミカの視線は逸れない。急かしているわけではないらしい。だが、興味を持たれての凝視だとすると、それはそれでかすかに気恥ずかしい。女物の着物を縫っているところを、その着物を贈る女に見られているなどと。

「なるだけ急ぐけど、完成するにはもう少しかかりそうだよ。僕はお針子じゃないからね」

「うん。ありがとう、せんせい」

 なんだか調子が狂う。兵太夫は唇を尖らせて、照れているのをごまかした。よくよく考えたら、彼は今まで修行にばかり明け暮れて、女子と同じ部屋にこもったことなどなかったのだ。果たしてミカを“女子”だとか、そういう言葉で表していいものかはわからないが。

「心配しなくても、別に、変な形にしたりしないよ」

 ミカはコトリと首を傾げる。

「せんせいがつくるものなら、なんでもいい」

 チクチクと縫い進めていた兵太夫の手が、ふっと止まった。

「ねえ、ミカちゃん。僕はどうしたらいいんだろう」

 独り言のような声音だった。誰かに問いたくて、けれど誰にも話すことのできなかった思いだった。

「師匠が死んで、ここで一人でいると、思うんだ。『どうして僕はこんなことをしているんだろう』って。同じ年頃の子のように遊んだり、街に出掛けたり、勉強したり、嫁をとったり。そういうことをせず、ただひたすらこの狭い部屋で木を削っている。『なにをしているんだろう』って。確かに僕はこの仕事が好きだし、誇りを持っている。まだまだ精進していくつもりでいた。でもそれも、師匠がいたからだ。あの人を越える――あの人よりも素晴らしいものを作る――それが僕の燃料であり、ゼンマイだった。原動力だった。それを失って、これから先なにをするのか。なにをしたいのか。全然わからないんだ。僕は、――僕はもう、からくり人形師ではいられないんだろうか」

 兵太夫は膝を抱えた。

「だいじょうぶよ」

 ミカが囁いた。

「だって、せんせいはわたしをつくった。とってもすごいわ。だからだいじょうぶよ」

 知識もなにもない、ひどく簡素な言葉だった。慰めになっているのかもいまいちだ。けれど、兵太夫にはこの上ない天啓に聞こえた。自らの作った、誰にも真似できない傑作品。その人形から言われたことは、確かにひとつの間違いもなく、事実だった。飾りのない事実が、今の彼には最も沁みた。

「ありがとう……」

 やっとのことで絞り出した。照れ隠しのように、視線を落とす。

 しばし静かな時間が流れた。兵太夫は創作を始めると没頭するほうであるし、ミカはたどたどしい口調ゆえあまり喋らない。囲炉裏の火が燃えるパチパチという音と、衣擦れの音しかしなかった。

「せんせい」

 チクチクと針を進める兵太夫に、ミカが声をかけた。

「なぁに、ミカちゃん」

 顔を手元に向けたまま、兵太夫は優しく返事をした。人と人形の間に形成されるにはあまりに穏やかすぎる空気が流れていた。それは、とても異様だった。

「わたしがしぬときは、せんせいが、てにかけてね」

 数秒ほど間をおいて、兵太夫はおもてを上げた。ミカは真っ直ぐに兵太夫を見ていた。真っ黒でがらんどうな瞳は、どこまでいっても底が見えなかった。

「わたしは、せんせいからうまれたんだから、しぬときもせんせいがこわしてね」

 兵太夫の手は、完全に止まっていた。

「うん、わかったよ」

 柔らかな微笑みを浮かべ、兵太夫は応えた。小さな炎に照らされて、その少年めいた顔は橙色に染まっていた。

「約束するよ。君が死ぬ時は、僕が壊してあげる」

「うれしい」

 うっそりと、ミカは笑った。もともと笑んでいるように作られた顔だ。しかし、それとは別に、なにか造形とはかけ離れた笑みを人形は浮かべた。言葉の不器用さからは想像もつかないほど、その笑顔は美しく妖しく不気味だった。

「でも君は僕の最高傑作だからなぁ。壊せる時なんか来るのかな。迷って迷って、結局僕が先にぽっくり逝っちゃうかもねぇ」

「いやよ、せんせい。せんせいがしぬときだって、わたしはいっしょだわ。ほかのだれにだって、わたしをさわらせないで」

「そうだね、僕も、他の誰にも君を触らせたくない」

 兵太夫はそっとミカの頬を撫でた。ミカは幸せそうに目を閉じた。






 その日、天才の名をほしいままにした伝説のからくり人形師、笹山 兵太夫が死んだ。彼は数十年に渡り、前線でからくり技師としての技術を世間に広めてきた。謎の多い人物だったため、確かな年齢を知る者はほとんどいなかったが、かなりの大往生だったらしい。この訃報は瞬く間に界隈に広まり、数多の人が巨匠の死を悼んで空に手を合わせた。

 笹山氏は、幼い頃にその才能を見出だされ、名だたる師匠の元へ弟子入りを果たした。その師匠が若くしてこの世を去った後は、笹山氏が名を継ぎ、後世に残る名作を世の中に送り続けた。

 そんな笹山 兵太夫は人嫌いとして知られている。偉大な技師に憧れ、何人もの見習いが彼に弟子入りを志願したが、彼は死ぬまでただ一人も弟子をとらなかった。それどころか、彼は自分の作業場へ人が立ち入ることすら許さなかった。なんぴとたりとも、自らの作業場へは近付らせなかったそうだ。師匠に弟子入りした後からは親元へも帰っていないため、家族も晩年の様子はまったく知らなかったという。友人といえる者も少なかった。唯一、住んでいた作業場兼自宅の麓に店を構える飯屋へだけは、足しげく通っていたとのことだ。

 笹山氏の遺体を最初に見つけたのも、この店の主人だった。彼は二代目で、笹山氏は彼の父が店主を務めていた頃からの常連だという。

 そんな二代目主人は、ある時からぱったり来なくなった笹山氏を心配していた。毎日来てくれていたのに、三日も姿が見えなかったのだ。歳も歳だし、もしかしたらと彼の家へと赴いた。そして、禁じられていた作業場へ足を踏み入れたところ、笹山氏が亡くなっているのを見つけたのだそうだ。

 ここで、彼は奇妙なものを見ている。

 笹山氏は、自らの作業場で命を引き取っていた。天才からくり人形師、笹山 兵太夫らしい最期かもしれない。彼はこの場所以外で死ぬつもりはなかったのだろう。彼の人生を表しているような、そんな最期だ。

 そんな彼の遺体のそばには、なにかが散乱していた。主人は目を凝らした。それは木片だった。木の板のようなものが、バキバキに折られて転がっていた。裂かれたようにも、曲げられたようにも見える。それにまぎれて、歯車やら糸やらも散らかっている。あとは引きちぎれた和紙のようなもの。ビリビリに破れ、雪のように床を埋め尽くしている。そこにはなにか書いてあったようにも見えるが、残念ながら判別はできなかった。

 笹山氏は、そんななかで木片を抱いて眠るように息を引き取っていた。その体には、桃地に花柄の着物がかけられていた。普段から布団がわりにしていたのだろうか。かなり年季が入ってボロボロである。存外、かわいらしい趣味があったものだ。主人は和やかな気持ちになりながら、手を合わせた。

 さて、このように今は亡き人となった笹山 兵太夫だが、彼には“伝説の最高傑作”というものが存在する。これは彼が自身の口頭でのみ語ったことであり、作り話ではないかと疑う者も多い。何故なら、誰一人としてその最高傑作を見たことがないからだ。

 彼が言うには、

「間違いなく私の人生で最高傑作だよ。でもね、あれは人には見せないんだ。特別なものだから。私の一番大切な人にしか見せないんだよ」とのことだった。

 その言葉を聞いた者は、てっきり笹山氏には愛する女性がいるのだと思った。だから、その人だけがその作品を見る権利を得ているのだろうと。しかし、笹山氏は生涯妻を娶ることはなかった。彼の師匠と同じように独身を貫き、妻も子どもも持たぬままこの世を去った。

 また、笹山氏亡き後、噂の最高傑作は手を尽くして捜索されたが、ついぞ見つかることはなかった。ある者は「笹山氏がどこかへ隠したのだ」と言い、ある者は「やはり実在しないのだ」と言った。

 このように、笹山 兵太夫の半生については謎に隠されたことが多い。特に、幻の傑作については、彼の亡き後も憶測と議論が飛び交っている。

 人を寄せ付けず、作業場にこもり、からくりと生きてきたような男。彼の命のかけらを埋め込み、彼と心中した最高傑作は、いまだ誰にも知られていない。




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Twitterのフォロワーさんである沼河原ごいさぎ様より元ネタをお借りしました。
快く許可をくださったごいさぎ様、ありがとうございます。
漫画の完結ずっと待ってます。




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