理解はしていた。
彼と彼女の間に置ける差は歴然としており、それは俗に言う男女という最もわかりやすい分類から、今時分の年頃には大きなものとなりうる年齢の差まで、数え始めればきりがない。忍としての実力を考えたところで、この忍術学園で六年間を生き延びてきた相手に、たかだか二年生の彼女がかなうはずもない。さらに言えば、彼──立花 仙蔵は優秀な生徒であった。すらりとした身の丈で、長く美しい髪をたなびかせ、女性のように上品な所作で振る舞う少年は、火薬を持たせればプロの忍者さえ翻弄する。加えて頭も切れ、その実力は教師陣すら一目置くほど高い。冷静で狡猾、計算高く狡賢い。高みの見物を決め込みながら、その実、全てを掌で転がしているような、そんな男だ。
しかし、ナオミが山本 シナ先生から言い渡された課題を仙蔵で済まそうとしたのは、“たとえどれほど有能な忍たまでも、顔さえ合わせなければ大丈夫だろう”と勝手な思い込みをしていたからに他ならない。応戦する状況だったり、寝込みを襲わなければいけない状況だったりすれば、ナオミは絶対に仙蔵を課題の相手には選ばなかったはずなのだ。彼女はそこまで怖いもの知らずではなく、また仙蔵に対して良い認識も持っていなかった。
全てはミスだったのだ。元来の仙蔵への苦手意識をきちんと把握し、“手を出さない方が身のためだ”という自己防衛本能さえ発揮していれば、人気のない作法室へ忍び込むなどという愚行は犯さなかったであろうに。こういう時、己の迂闊さと脳天気さには辟易とする。
その結果がこれだ。
「まずは素性を訊こうか」
頭上から、平素と変わらない声が落とされる。笑顔で談笑しているようなさっぱりとした口調だが、この状況では追い詰められているような感覚しか抱けない。詰めていた息を細く吐き出し、ナオミは口を開いた。
「く、くノ一教室の……ナオミといいます……」
みっともなく声が揺れた。だが、唇が畳と密着していては、どんなにはっきり言葉を紡いだところでくぐもったそれにしかならないだろう。だから、声を震わせていようが明朗に喋ろうが、結局は同じかもしれなかった。
彼は「ほう。では、ナオミ」と零すと、さらにのしかかるように彼女の体に体重をかけた。つかまれた右手首に、グッと負荷がかかる。
「お前はどうしてここにいる? ここは忍たま長屋だぞ。よもや、迷ったというわけではあるまい」
うつ伏せになって押さえ込まれた体勢では、彼がどんな顔でそう言っているのかは窺い知れない。けれど、ナオミの脳内には、うっすらと口元を綻ばせた仙蔵の姿がちらついてならなかった。
──ああ、やっぱりやめておけばよかった。立花先輩をターゲットにするなんて。
今さら悔いたところで後の祭りである。ナオミは畳を睨め付けたまま、わずか唇を噛んだ。ばれてしまった時は、即座に相手に事情を打ち明け、謝罪し、担任に報告。これが山本 シナ先生から言われていることだ。
「くノ一教室の今回の課題なんです……」
「課題?」
「はい。六年生の、なにかそれとわかる物を取ってくる。そういう課題です」
「なるほど。そしてお前は、作法室に誰もいないのをいいことに、私の私物を捜索していたというわけか」
そのとおりである。そして、部屋に入って一寸もしないうちに、背後から誰かに引き倒され、床に転がった。気配も足音も衣擦れの音さえなく、ナオミは完全にふいを突かれた。利き腕を後ろにがっちりと固められ、腰に跨がられてしまえば、もう彼女に打つ術はなく、負けを認めるしかなかった。
「残念だったな。確かに今日は委員会は休みだが、生憎と私はよくここに入り浸っている。委員長はいろいろと多忙でな」
世間話をするような気軽さで、立花 仙蔵は言った。耳元で囁く少し鼻にかかった声は低く掠れていて、同年代の忍たまとは違う、大人に片足を踏み込んだそれを感じた。彼のサラサラとした黒髪がナオミの首筋にまでかかって、くすぐったかった。それでも、真正面からこの男と向き合うよりは、ずっとましだと思った。
ナオミは自身をコンプレックスの固まりと評価している。そばかすだらけの顔も、癖の強い髪も、パッとしないイメージも。同じくのたまでも、トモミやユキは華やかで女の子らしく輝いている。おしげには癒やしのオーラと面倒見のよさ、庇護したくなる愛らしさがあるし、他のくのたまも皆、魅力ある少女ばかりだ。それなのに自分はどうだ。外見も冴えず、成績は中の下、実技は言われた基準に満ちることの方が少なく、内弁慶で非社交的。なんの長所もない。
ナオミは仙蔵が苦手だ。男のくせに美しい仙蔵。成績優秀で実戦に優れ、自信に満ちた態度で目を細める。逆恨みと言われればそうだが、彼はナオミのコンプレックスを悪い方向に刺激することに関しては逸材だった。羨ましくて、卑屈になる自分から目を背けるのと同じように、立花 仙蔵という存在からも目を背けた。きっと今回のことがなければ、ナオミは一生仙蔵とは関わらなかったに違いない。口を利くことも、お互いに名を名乗ることもなく、擦れ違っていただろう。むしろ、ナオミにとってはその方がよかった。こんな風に惨めな思いをするのなら、やはり少しの接点も作るべきではなかったのだ。
「すみませんでした。私の負けです」
ナオミは言った。一刻も早く、背中に感じる彼の体温から逃げ出したかった。それに、大前提として、捻り上げられた右手が痛い。多分、彼がその気になれば、自分のこの腕は簡単に折られてしまうのだろう。
「なんだ、音を上げるのが早いな。まだ目的は達成されていないんじゃないか?」
「ばれてしまった時点で課題は失敗です。私は不合格です」
「なるほど」
──ほんのわずか間があって、仙蔵の手がナオミの腕から離れた。ひとまず安堵して、その手を床につく。すると、ふっと空気が動く気配がした。うなじに生暖かい風が触れる。それが、彼女との距離をさらに詰めた仙蔵の吐く息だと気付いた時には、さすがにナオミは肩を弾ませた。見なくともわかる。頭のすぐ後ろに、仙蔵の顔がある。少しでも体を捻って体勢を変えれば、鼻頭がぶつかってしまうくらい近くにいる。……どういうことだ。急に肩甲骨の辺りがぶわっと熱くなり、汗が噴き出した。突発的な体温の上昇に反して、汗はじっとりと冷たかった。
「この課題がなんのために出されたのか、わかるか?」
やはり、ごく近いところから声がした。耳のすぐ傍で囁かれている。途端、体が強張り、顎がブルリと震えた。悲鳴を上げそうになるのを堪えるため、またしてもナオミは強く唇を噛む羽目になった。
「密書や極秘資料を盗むというのは、忍者にとってよくあることだ。我々の仕事は、闇に紛れてひっそりと立ち回り、状況を主にとって有利な方向へ促すこと。諜報活動や隠密工作は基本中の基本と言える。敵城下へ忍び込んで情報を収集したりすることも多い。これはそのための訓練なんだよ」
下級生にものを教えるような穏やかな声音だ。それなのに、ナオミの心臓は嫌な予感を感じてドクドクと心拍数を上げていた。口の中が乾いて、舌がはり付く。顔のすぐ横の畳の上に、自分のものとは似ても似つかない艶やかな黒髪が、スラァッと小さな音を立てて零れた。それほどまでに、彼との距離がなくなってきているということ。黒目だけを動かしてそれを窺い、ナオミは乾いた口内を少しでも潤そうと前歯を舐めた。
「情報収集のやり方には、いくつもの方法がある。町人や給仕を装って、周囲の人間から話を聞き出す方法。敵の重役を捕らえ、尋問や拷問で口を割らせる方法、相手の懐に飛び込んで下僕となり、信頼関係を形成してから情報を得る方法など様々だ。──そして中には、くノ一でなければでき得ない手段がある。お前も多少は習っているだろう。『色の術』だ」
それを聞いた途端、脳天から針でも刺されたような衝撃を受けた。背筋がゾッと冷え、頬が痙攣する。前頭部の辺で何かがガツンガツンと鳴っている。おそらくは、危険を察知した際に鳴る警報だ。息遣いが落ち着かず、途切れ途切れに短い息を吐き出す。ついでに動揺も吐き出せないものかと思ったが、そんなことは不可能だった。
「まだ曖昧にしか教わっていないだろう。ここらで実践を積んでおくのもいいかもしれんぞ」
……実践ってなんの。疑問は口を突くことなく、ナオミの脳内で回った。
『色の術』は、大まかなことは授業で習っている。いわゆる『色仕掛け』で、首領や幹部に色香で近付いて、気を許したところで秘密を聞き出したり、暗殺したりするというものだ。もう少し学年が上がれば、もっと本格的に習うと聞いている。なので、知っていると言っても、ぼかされた輪郭をあやふやにつかんでいるような、その程度のものでしかない。だが、彼女にだってそれが爽やかな提案でないことは充分にわかった。
色の術というのは、基本的に艶を前提として構築されるもので、そこに漂う言い難い卑猥さは、子どもの彼女にも感じ取れるものだ。加えて、現状は健全な雰囲気とはかけ離れている。立花 仙蔵はクールで賢く、武道の腕前もなかなかの優秀な生徒だが、またそれと共に、どこかなまめかしい空気を纏う色っぽい人物だった。それが女性じみた見た目に起因するものかはさだかではないが、仙蔵という人は妙な色気を十五という若さで持ち合わせていた。そんな相手にほぼ密着された姿勢で「色の術の実践をしよう」などと言われて、危うい方向に思考を働かせない者がいようか。少なくとも、ナオミはそこまで鈍い女ではなかった。
「あ、あの……立花先輩?」
「ん、なんだ?」
瞬時に頭の中をいろんな言葉が駆け巡った。情報を打破するためには、何を言うのが一番いいか──。言葉を選ぶのに、ここまで頭を回転させたことがあっただろうか。緊張で真っ白になっていく脳を奮い立たせ、ナオミは考えた。
ところが、彼女のそんな涙ぐましい切磋琢磨は──
「えっ」
突然耳朶に寄せられた仙蔵の唇によって、思考もろとも吹き飛ばされた。
「せっ、先輩っ?」
困惑したナオミの台詞など意にも介さず、仙蔵は彼女の耳に軽く口付けた。離れる際にふっと熱い息を吹きかけ、「なんだ?」と答える。
「な、『なんだ』ってあの……なにを……」
上擦った声でそれでも問うと、「だから言ったろう。『色の術の実践』だと」と、相変わらず淡々とした口調で返ってきた。
そんな馬鹿な。ナオミは努めて冷静になろうとしたが、それを邪魔するように、彼は今度は耳のラインをなぞるように舌を這わせた。
「ひゃっ!」
思わずあられもない声が上がり、体がビクンと跳ねる。なんだこれは。一体何が起こっている? 混乱を極めるナオミをよそに、仙蔵の舌は彼女の耳を丹念に舐め始めた。勝手に「あ……」と声が漏れた。汚い、はしたない、と思うのに、指先や背中が痺れて逆らうことができない。焼け付くように全身が熱く、無意識に頭がひくりと痙攣した。
彼女の耳の軟骨にカリ、と歯を立てた仙蔵は、ほとんどそのまま話し始めた。
「どんなに優秀な忍者でも人間だ。失敗することもある。敵に捕まってしまえば、身の安全は保障できない。お前はそういう状況に陥った時、どんなことになるか想像できるか?」
それどころではない、とナオミは言ってやりたかった。知識を与えるのであれば、もっと厳かな雰囲気の中で正座でもしてから教えてくれ。こんな有り様では、真剣な話も真剣に聞けない。仙蔵の質疑に応答することもままならず、ナオミはただ黙した。
「ほとんどの場合は拷問にかけられ、そして殺される。口封じのためと見せしめのためにな。……けれど相手が女であれば、」
彼ははむようにナオミの耳朶を口に含んだ。これ以上おかしな声を漏らしてしまわないように、彼女は懸命に奥歯を噛んだ。
「こんなことをされてから消される可能性も、なきにしもあらずだ」」
低く呟かれる言葉はひどく物騒である。齢十一の少女には、少しばかり重い。しかし、それらは全て本当のことなのだろう。なんだかんだと言ったところで、立花 仙蔵が優れた人材であるというのは疑いようのない事実。知識も経験も、ナオミには手の届かないレベルに達している。そんな彼の言うことだ。全て真実なのかもしれない。ただし、今のナオミにとってはそれらのためになる説教は、右から左へ抜けていくだけの音の羅列でしかなかった。全て本当の話だとして、どうして実践などする必要があるのかと、至極まっとうな疑問が渦巻くばかりだ。
言葉で言いくるめることは不可能だと、彼女は察した。仙蔵の人柄や質を知っていたためと、ここまでのやりとりでただならぬ何かを感じたため、さらに言えば、自分の口下手と頭の弱さを知っていたためだ。どんなに文句を募ったところで、彼にとってはどこ吹く風。さらりといなされるのが関の山だろう。
ならば強引にでもこの手の中から抜け出すしかないのだが、それも不可能なようだった。それができているなら、ナオミはとっくに仙蔵から逃れて部屋から脱走している。どんなに力を入れても、体を起こそうとしても、動くこと一つできないから、未だにこうして捕らえられているのだ。
体格の差はもちろんある。力の差も同様にだ。けれどまた、どこをどう押さえれば人間の動きを封じられるかを熟知している経験則も、確実にそこには存在していた。そんなに力ずくで押さえ込まれているようには思えないのに、暴れることすらできない。加えて、彼の奇襲によって、体の力はどんどん抜けつつある。
万事休すだ、とナオミは思った。
耳を弄んでいた仙蔵の唇が、今度は彼女のうなじへと移動した。長めに唇を押し当てられ、かすかな音を立てて離される。
「は……」
噛み締めた歯の隙間から、吐息めいた声が零れた。耐えなくてはとその身に命令するのだが、彼女の体は仙蔵から与えられる刺激にいちいち敏感に反応する。艶事に対する免疫も経験もない少女にとって、この事態は未体験だった。なにがなんだかわからない、という混乱は、彼女から思案する力を奪う。
「……ふむ。子どもと言えど、やはり女子だな」
彼が脳天気に喋るたび、肌に彼の息が当たる。そのイメージから、吐く息さえ冷たいのではないかと思っていたが、首筋を撫でる風は己と同じく温かい。それが絶え間なくナオミの皮膚に触れて、もう上がりようがないと思っていた体温がさらに上昇した。
「ん、……ん」
「あまり悩ましい声を出すな。誰に聞かれているかわかったものじゃないぞ」
何を無茶なことを。ナオミ自身、火照っていく体を押し止めようと精一杯だというのに。理不尽な命令と、不条理な状況と、よくわからない昇ぶりで、じんわりと涙が浮かぶ。
「じゃあ、やめて、ください……」
絞り出した声は、先刻よりも圧倒的に弱々しかった。言葉にするとますます惨めになって、本格的に泣きそうになる。罠にかかった兎というのはこんな気持ちなのだろうか。恐怖と先の見えない不安に支配されたまま、好き勝手に蹂躙される。──だとしたら、人間はひどく残酷なことをするものだ。彼女は生まれて初めて、捕獲された動物たちに同調した。
後頭部の辺りに、はあ、と明らかなため息がかかった。次いで「しようがないな」という落ち着いた声。ナオミは目を見開いた。まさか、聞き入れてもらえたのか? あんな懇願ひとつで? 意外なあっさり具合に、ちょっと拍子抜けする。これなら最初から「やめてください」と一言頼めばよかったではないか。ひょっとしたら、もっと早くに自由の身になれたかもしれないのに。こんなに心乱されて、知りたくもなかった自分の痴態を見ることもなかったかもしれないのに。
しかしながら、過ぎたことをいちいち悔やんでいても仕方がない。取り返しのつかないことになる前に助かってよかったと思うべきだ。この先に一体どんなものが待ち受けているかは、やはり幼い彼女にはまだ曖昧なところだったが、知らないからこそ恐ろしいのである。
だが、安心したのも束の間──再び仙蔵の唇がナオミの首に吸い付いた。気を抜いていたので、思わず悲鳴じみた声を上げてしまった。
うなじの部分に軽く歯を立てられる。それから一箇所を強く吸い上げられ、微細な痛みにギュッと肩を強ばらせたところで、唇は離れた。さらに流れるように、ポコリと浮き出た背骨の部分にも同じように。上衣の襟元を少しだけ広げられ、肩にももう一度。計三回、謎の痛みを与えられ、そこでようやくナオミを拘束していた重みがなくなった。
呆然としたまま動けずにいると、脇の下に手を入れられ、地面から浮き上がった。涼しげな瞳と目が合う。今日初めて、ナオミは仙蔵を正面から見た。相変わらず美しい容貌だ。こんな中性的な人があんな不埒な行いをしただなんて、にわかには信じがたい。けれども、ナオミを見つめるその瞳がかすかに細められた瞬間、彼女の体は目にも止まらぬ速さで彼から距離を取った。自分が今どんな顔をしているかはわからない。だが確実に好意的に見られる表情はしていないだろう。
仙蔵は気分を害した様子もなく、愉快そうにくつくつと笑った。
「そこまで警戒されると申し訳ないな。これに懲りたら、今度からは忍び込む時には相手を見極めることだ」
にこやかに諭されるが、ナオミは血の気の引いた顔で言葉を失っていた。しかし、我に返ったように一歩後退ると、脱兎のごとく作法室から逃走した。
「……文次郎、もういいぞ」
一人きりになったはずの室内で、仙蔵は言った。すると、どこからともなく現れたのは、会計委員長の潮江 文次郎だ。彼は軽蔑したような目で仙蔵を見ると、億劫そうに口を開いた。
「なに考えてんだ、お前。本気でおっぱじめる気かと思ったぞ」
「お前が覗いていると知っていて、そんなことをするはずがなかろう」
「俺は覗いてたわけじゃねーよ! 作法室から妙な声が聞こえたから、何かあったのかと思って様子を窺いに来たんだ。そしたらお前がくのたまを襲ってるから──」
「でも、止めもせずに傍観していただろう」
「あんなことされて、さらにそれを他人に見られてたなんて知ったら、あの子が可哀想だろう。自殺でも図りそうな顔してたぞ」
「ああ……、恐怖におののく草食動物のようだったな」
仙蔵は声を上げずに、肩を震わせて笑った。文次郎の目つきがさらに険を含んだものになる。
「なんであんなことした」
「興奮したか?」
「同情したね。何をしくじったのかと」
「いやなに、私を狙って忍び込むなんて見上げた根性だと思ってな。ちょっと相手してやろうと思ったんだが、見つかってからは張り合いがなく、むしろ『早く帰らせてください』と言わんばかりの態度だったから、少しだけ灸を据えてやろうと思って」
「ちょっとやりすぎだぞ。あれじゃあ犯罪未遂だ」
「案外と私のツボに入ったものでな」
「ツボ?」
不信そうに聞き返す文次郎を一瞥し、仙蔵はナオミの走り去った方向に目をやった。
「いじらしいじゃないか。嬌声を上げまいと必死に声を詰めたりして。そのくせいちいち反応を示したりするものだから、ついかまいすぎてしまった」
聞きながら文次郎は、口端が歪んでいくのを押さえることができなかった。仙蔵は周囲が認めるサディストだ。加虐趣味とまではいかないが、人をじわじわなぶるのを好む傾向にある。あのようなタイプは彼の大好物だろう。
自分が来なければ、本当にこいつはあの少女を手籠めにしていたのではないか。そう考えて、文次郎はゾッとした。
「久しぶりに、なんだか心が踊るな」
愉快そうな横顔は、最近では誰かをこき落とす時にしか見られなかったものだ。よもやこれが全てあの少女に向けられるのかと思うと、さすがに文次郎も口を挟まずにはいられなかった。
「おい、ほどほどにしろ。相手は下級生だぞ」
「わかっているさ。しばらくは手を出さずに見守るとも」
「?」
いやに素直な返答に、文次郎は眉を顰めた。「どういうつもりだ」と問えば、仙蔵は長く艶やかな髪をフワリと揺らせて、不敵に笑った。
「私の印をつけておいただろう」
──首筋にかじりついていたあれか──。文次郎は慎重に頷いた。
「おそらく彼女は、あの意味を知らない。だからきっと隠すことなく髪を結い、ふしだらなことになった首元をさらすだろう。しかし、みんながみんな知らないというわけでもない。誰か一人が気付けば、その話はじきに広がる。そこで初めてあいつは知るのだ、その肌に残る鬱血の意味を」
歌うように先読みを語って見せる様は、いっそ輝いていると言ってもよかった。そんなことになったら、彼女はいろんな人間から詮索を受けるだろう。相手は誰だ、何があったと、質問攻めにされるだろう。そうなってしまえば、外堀は固まったようなものだ。答えに窮して涙を浮かべる姿が容易に想像できて、文次郎は頭を抱えた。
「俺が女だったら、お前に目を付けられるのは死んでもごめんだ」
「安心しろ。私もお前なんぞ襲う気になれん」
「ああ、心の底から安心できる答えだ」
――文次郎は確かに、あの名も知らぬくのたまに同情したし、これから訪れるであろう未来を考えて胸を痛めもした。だが、残念なことに、文次郎には何もできないのだ。彼女を助けることも、仙蔵の邪魔をすることも、何ひとつ。普段から仙蔵に痛い目に遭わされている文次郎は、こうなった仙蔵がいかに恐ろしいかを知っているから、できるのなら首を突っ込みたくはないと思っている。それから、とても薄情なことは自覚しているが、もしもこれで仙蔵の悪意と企みが彼女のみに注がれるのであれば、こんなに救われることはない。自分たちへの被害が減るのであればそれも……、とついつい考えてしまう始末だ。
自分も結局は、このサディストの友人でしかないのかもしれない。安堵感と罪悪感に苛まれながら、文次朗は心中で呟いた。
(南無三……)
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