※モブ女←雷表現あり



 今まで悪事の一つもせず、清廉潔白に生きてきましたとは、己を過信・美化しすぎない不破 雷蔵にはとても言えることではなかった。虫も殺さず生きてきたわけではない。誰かに嘘を吐いたことも、誰かを裏切ったことも人並みにあった。だが、それはあくまで“人並み”のことであったから、己を卑下・自虐しすぎない不破 雷蔵は、自分という人間を他人と比べて特別極悪人だとも思わなかった。

 誰かがそこで「どっちなんだ」と問うたなら、彼は元来の迷い癖を発揮し、頭を抱えてうんうん唸った後、考えることを放棄して眠ったりしたかもしれない。だが、誰もそんなことを彼に言ったりはしなかったし、利口な雷蔵は、この世に生きる人間の大多数は、誰しもそういう生き方をしていると理解していた。また、彼という人は大多数の者に比べてかなり人の好い部類に属してもいたので、やはり誰も彼を指差して「極悪人」だの「偽善者」だの言うことはなかった。


 ――しかし、彼は今この時ばかりは、その自己評価を覆そうかと真剣に思い悩んだ。

 僕は己を過信していたのかもしれない。胸中で自らにそう言葉を投げながら、彼は硬直していた。まったくの人畜無害で生きてきたつもりは確かにないが、あまり大きな間違いを犯さずに生きてきた自負くらいはある。酒に溺れて女の子を部屋に連れ込んだりしたこともない。少なくとも、今まではなかった。

 だが、どうだ。今、自分の隣で眠っているのは、見覚えのない若い女。キャミソール姿で、あどけない寝顔を惜しみなくさらしている。対する雷蔵は、クシャクシャになったシャツとズボンという格好で、とりあえず裸でなかったことに安堵したが、これは一体どういうことだろう。あらゆる意味でドキドキしながら、そっと布団をめくる。女の子の方も、きちんと(というには若干寒そうだが)生足にショートパンツを履いており、それにもほっと胸を撫で下ろす。

 だが、油断はできない。昨夜の飲み会での記憶がないということは、起こってしまったあれやこれやの記憶もなくしてしまっているかもしれないということ。高校時代の級友たちと、その彼女、さらにその友達。わりあい大人数で催された飲み会で、雷蔵はしこたま杯を勧められた。グラスを空けては注がれ、空けては注がれの応酬に、普段無茶な飲み方をして酔ったりすることのない雷蔵も、さすがに目の前がグラリグラリと揺らぎだした。気心の知れた友人たちは、大人になり、酒の味を覚え、場をおもしろおかしくするための術なども覚えてしまったらしかった。もしくは、竹谷や鉢屋などの周りには、そういった人々が特別多く集まっているのかもしれない。

 見覚えのないこの子は、昨日来ていたメンバーの友達の友達とかだったのだろうか。それさえも思い出せない。


「ん……」

 ふいに、女の子が身じろぎした。雷蔵はビクリと盛大に飛び上がり、慌てふためく。どこか隠れるもの、身を隠すもの、と辺りを見回すが、残念ながらここはベッドの上、隠れ場所と言えば、彼女と同じ布団の中くらいだった。どうしよう、どうしよう、としているうちに、女の子の目がのろのろと開き、雷蔵の姿をその眼球に映した。

「あ、おはよ……ごめんね、寝過ぎちゃった」

「い、いや、全然……」

 いまだ眠そうに目をこすり、彼女は言った。呂律の回らない口で、雷蔵はそれに答えた。あまりにも彼女が普通なので、雷蔵の方は逆に動揺した。


「あ、あの……僕たち昨日なんかあったの?」

 おそるおそる訊けば、彼女はきょとりと目を瞬かせた。

「覚えてないの?」

「うん……え、ってことは、やっぱりなんかしちゃったの僕?」

 女の子の台詞に、さっと雷蔵の顔から色が消えた。いくらお互い酔っていたと言っても、初対面の名前すら危うい相手と間違いを起こしてしまったとなれば一大事だ。自分は別に男なのでかまわないが、女の子に良くない。傷を付けてしまったような焦りと罪悪感で、雷蔵はガバリと頭を下げた。

「ごめん! 責任はとるから!」

「へ?」

 頭上から呆けた声が落ちる。彼女の方はたいして気にしていないようだが、そうもいかない。犯した罪には償いを。一種崇高にも思える失礼千万な思考を抱え、雷蔵は「してしまったことに対する責任をとらせてください!」と声を張った。視界に入るのは女の子の剥き出しの白い足で、その美しいラインと頼りない細さに、雷蔵はうっかり変な気を起こしそうになった。それを振り払うように目を固く閉じる。ブフッ、と息を吹く音がした。

「あははは! やだ、不破くんったらー」

 突如笑い出した彼女に、雷蔵は面食らった。つられて顔を上げると、涙を浮かべて笑い転げている。お腹を抱えて息を荒げる少女は、おかしくてたまらないという表情のまま、雷蔵を見直した。


「いやだなぁ、あたしたちなんにもなかったじゃない。覚えてないの?」

「え!?」

「あたしが飲みすぎて気分悪くなっちゃって、そしたら不破くんがわざわざ家に連れてきて介抱してくれたんだよ」

「そ、そうだったんだ……。全然覚えてない。僕も結構酔ってて……」

「あれ酔ってたんだねぇ。すごい普通だったからシラフだと思ってた」

「そうみたい。僕、普段はお酒強い方なんだけど」

「己を過信しすぎたようね」

 あははと笑う彼女の歯は白く、上がった口元は健康的に明るかった。言われた台詞はギクリと胸に刺さったが、同時にトクン、と心臓が高鳴った気がして、雷蔵はぎゅっと唇を結んだ。

「あのっ――」

 突如、明るいメロディーが鳴り響く。口を開こうとしていた雷蔵はビクリと飛び上がった。

「あ、ごめん。あたしだ」

 女の子が制するように片手を出し、傍にあった鞄に手を入れた。シャラリとした繊細なモチーフのストラップの付いた、携帯電話だった。

 「もしもし」と、女の子が電話に出る。

「うん、昨日は飲み会があってね。友達の家に泊めてもらっちゃった。ちょっと飲みすぎたかも。……大丈夫だってー、ちゃんと帰るから」

 落ち着いていて、優しい、甘い声だった。それだけで雷蔵は、その電話の相手が彼女の恋人からであることを察した。


 わりあいすぐに電話は終わったらしく、すぐに彼女はピ、と終話ボタンを押した。

「あ……、帰る? シャワー貸そうか?」

 妙に頬がヒクヒクする笑みを必死に貼り付けながら、雷蔵は言った。

「ありがとー、でも平気だよ。今日学校もバイトも休みだし、家に帰るだけだから」

 ニッコリと笑い、彼女は手を振った。他人に向けるための、人当たりのよい笑みだった。愛想のよい“お断り”の仕方だった。

「そっか」

 雷蔵はようやくそれだけ答えた。目の前でちゃっちゃと身支度を整えていく女の子をぼんやりと眺めながら、自分はいったいなにを言うつもりだったんだろう、と考えた。

 いったい僕は、なにを思い上がってしまったんだろう。


 本当は送っていくと言いたかったが、一緒に歩いているところを見られて変な誤解を受けてもいけない。彼女の恋人が、車を回して迎えに来てくれているかもしれない。なにより、これ以上やんわりと断られたら、さすがに雷蔵とて心にダメージを負う。なので、おとなしく玄関先で見送るだけにしておいた。

 「本当にお世話になりました。機会があったら、また呑みに行こうね」と、彼女は最後まで愛想がよかった。


 女の子が家を出てからきっちり三十分待って、雷蔵も外へ出た。北風が肌を刺す。買ったばかりの黒のコートは、少しいいものだった。

 特に目的もなくブラリと歩き、適当にたどり着いた港で、ホットの缶コーヒーを買った。それをコートのポケットに入れて、雷蔵はグズグズと足を進めた。

 天気が悪い。いつ冷たい雨が降ってもおかしくない天候だ。吐く息が白い煙のように視界を遮り、彼をよけいに寒くさせた。ぬるくなり始めたコーヒーの蓋を開け、ゆっくり一口、二口とあおる。カフェオレにすればよかった。今の雷蔵に、ブラックは苦すぎた。

 こんな時、煙草の一つでも吸っていれば、センチメンタルに渋さを添えることができただろうに。あいにく、雷蔵の気管に煙草の煙は合わなかった。


 清廉潔白に生きてきたわけでも、人畜無害に時を過ごしてきたわけでもないが、今回思ったことがある。おそらくあの子にとって、自分は清廉潔白で人畜無害な男なのだろうということだ。部屋に連れ込んだのに手も出さず、あっさりと笑顔で送り出す。なんと都合のいいことか。

 僕はただ、臆病なだけなのだ。嫌がられる、軽蔑される、罵られる。そういったことに耐えられないだけなのだ。

 いっそ、最低な男になってみたかった。相手の気持ちを省みず、自身の欲望だけを先行させるようなひどい男に。けれど、そうしない――することのできない自分は、やはり彼女にとってはお人好しの草食系で、“いい人”の枠を出ない、ただのその他大勢のうちの一人なのだろう。

 凍える体の中で、ホットのコーヒーを流し込んだ喉と、ツンとする鼻だけが熱かった。




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