猪々子は異性というものが嫌いだった。これは生まれついての性質なので、人から何故だどうしてだと詰め寄られても説明のしようがない。「嫌いだから嫌いなのだ」という至極わかりやすい結論におさまる。

 それは、侮辱したくてたまらないという方の“嫌い”ではない。できることなら関わらず、避けて通りたいという方の“嫌い”である。自分の人生に必要がないから、あなたも私のことは放っておいてください、お願いだからこっちへ来ないで汚らわしい! ――そんなかんじの、徹底的な拒否だ。不快と敬遠、ものすごく悪い言い方をするのであれば、人が汚れ物を触りたがらないのに近しい心理かもしれない。猪々子の目に「男」というのはそういうふうに見えた。

 たとえば、忍たまが授業や実習に出て泥だらけで帰ってくるのを見ると眉根が寄った。くのたまであれば、少し装束が汚れただけでも「やだー、早く洗わなきゃ」と一目散に脱衣場に走るため、不潔とは思わない。むしろ、そういう点があるせいか、女の子は汚れても綺麗に見えた。柔らかで、良い匂いがして、優しくて、綺麗好き。男のように野蛮で、臭くて、汚くて、多少の汚れなど気にせず飯に手を付けるような横着とは違う。おそらく、猪々子は少々潔癖症のきらいがあったのだ。自分でもそれはうすうす感づいていた。


 なんせ、兄の滝夜叉丸のことすら、嫌悪して近付きたがらないくらいだ。……とは言っても、彼女が血を分けた実兄すら気持ち悪がるのは、滝夜叉丸本人の自意識過剰すぎる性格だとか、妹に対する異様なまでの愛情表現にスキンシップだとか、自慢話ばかりするからという理由で他の忍たまから敬遠されていることだとか、そういうのが理由の大部分を占めているのだが。

 幼い頃は、それでも優しくて自分をかわいがってくれる兄を慕っていたものだが、思春期の到来――ひいては同じ学びやで生活するようになってからは、その思慕も急激に萎んだ。今では、ことあるごとに「猪々子ー!」と満面の笑みを浮かべて走り寄ってくる兄から逃げ回る毎日だ。そのたびに繰り返される「猪々子ぉぉぉ! 何故逃げるのだ! 兄上だぞ!」「嫌だからに決まってるでしょう! 追っかけてこないでください!」というやりとりは、もはや忍術学園のお約束となっていた。

 さらに、目に見えて男女の肉体の変化が出てくると、男というものが見知らぬ生物みたいに見えて仕方なかった。夏の暑いさなか、廊下に腹掛け姿でだらける上級生などいようものなら、その太い腕や固そうな腹に目眩を起こした。本当に同じ人間なのかと、怯えと畏怖と疑いを胸に首を傾げた。父や兄に対してさえそうなのだから、血の繋がりのない他人など、さらに不可思議な生き物のように写ってしまう。もしかしたら、兄を毛嫌いするようになったのは、彼の体が大人のそれに片足を突っ込んできたからなのかもしれない。

 だから、くのたま総出で忍たまたちをいじめる時なども、「どうして私まで」とブチブチ愚痴を零しながら、誰かの背に隠れているという始末であった。


 それでも、来るべき時は来てしまう。くノ一となるべく、忍術学園のくノ一教室へ入学した者が通る道。あと一、二年もすれば、房中術の訓練が始まる。己が肉体を武器として、手練手管で男を陥落するのだ。想像するだけでゾッとした。まともに口を利くこともできないのに、その相手に体中を触られて、口付けられて、好き勝手にされて――そんなことが自身にできようはずもない。

 猪々子は真剣に、学園を辞めることを考えていた。波乱の世を生き抜くために兄と同じ場所へ来たものの、これでは猪々子自身が心身の疲れで参ってしまう。

 決断すべき時は、すぐ間近に迫っていた。



「だいじょーぶー?」

 ふいに頭上から降ってきた声と、額に感じるひやりとした感触に、猪々子は重い瞼をゆっくり開けた。瞬間、キラリと光った陽光に目を焼かれ、双眸を細める。

 誰かがその太陽を背にして立っていた。こちらを覗き込むように屈んだその正体は、逆光ですぐには判別できない。瞬きを何度かして目を慣らしながら、猪々子はその人影に焦点を合わせた。

 丸みがかった半月のような大きな垂れ目が、観察するようにこちらを見ている。柔らかさそうなふっくらとした頬と、どことなく間抜けなつながり眉。知り合いではない。くのたまでも――ない。


 猪々子はガバリと上半身を起こした。反動のように頭がクラリとして、背中の力が抜ける。パサリと自分の方からなにかが飛んだ。視線だけを巡らせると、すぐ傍になにやら白い布が落ちていた。どうやら手拭いのようだ。

「あぁ〜っ、ダメだよまだ動いちゃあ」

 言葉の途中が何度か跳ねるような、いやに高くて舌っ足らずな声だった。その相手は眉を八の字にして、こちらに手を伸ばしてくる。猪々子は反射的に身を引きながら、再度目線を上げた。相手はダイレクトに地面に置かれた手拭いを拾い上げ、「はにゃ、汚れちゃった」と呟いた。陽に透ける深い茶の髪と、膨らんだ餅のような頬、特徴的な目、幼い姿。

 そうだ、知り合いではないけれど、猪々子は目の前の者を知っている。正確には、見たことがある。

「あんた、忍たま教室の……」

「山村 喜三太(やまむら きさんた)です」

 喜三太は大きな口に満面の笑みを浮かべると、どこか自慢げに聞こえる声でそう言った。




 元を正せば、猪々子はおつかいのため、一人で山を下りているところだった。山本 シナ先生が急な用事で行けなくなったため、すぐ近くにいた猪々子がその役目を仰せつかった。休日だったが、別段することもなかったし、先生からの頼みを無碍にするつもりもない。猪々子は二つ返事で承諾した。

 その判断が間違っていたとは思わない。ただ、いかんせん今日は暑すぎた。初夏というにはあまりに気温が高く、歩きだしてからすぐに汗が滲み始めた。笠はかぶってきたけれど、まさかこんなに暑くなるとは思っていない。夏用の薄い生地でもない小袖は、猪々子の体温を逃がさず、どんどん血の巡りを早くしていく。息が荒くなって、目の前がチカチカしてきているのには気付いていた。ただ、“あともう少し、もう少し先まで”と半ば意地になって足を進めた。猪々子にはそういう強情なところがあった。

 だが、そんな無茶をしていれば、当然体に負担がかかる。案の定、猪々子は道の真ん中で力尽き、その場で倒れた。意識をなくす寸前、くノ一のくせに情けない、と独り言ちた気がする。

 そこに通りかかったのが、アホの一年は組の忍たま、山村 喜三太と福富 しんべヱである。二人は街にあるしんべヱおすすめの団子屋さんへ行く途中だった。ルンルンと鼻歌混じりに道を歩いていると、なんと女子が倒れているではないか。しかも見るところ、同じ学園のくのたまのようである。これは大変だと、力持ちのしんべヱが彼女を木陰まで運び、喜三太が手拭いを濡らして額に乗せ、二人して扇子で扇いだりしながら回復を待っていた。


「と、いうわけ」

 あいかわらずニコニコしたまま、喜三太は人差し指を立てて説明を終えた。猪々子は、今まで自分を太陽から守ってくれていた大樹の幹にもたれ、「そうだったの」と相槌を打った。意識を失っていた間の出来事だからか、不思議と触られたことなどに対する嫌悪感は湧かなかった。助けられたということと、相手がこの二人だからということが理由かもしれない。

「しんべヱは水がなくなったから汲みに行ってくるって言ってねー。でも目が覚めたんなら、行かなくてもよかったのかなぁ」

 女の猪々子が驚くほど、甘ったるい声と口調。耳が砂糖漬けにされたみたいに、ねっとりと甘い。彼女の隣に両足を投げ出して「うーん」と首を捻る男――いや、“少年”と言うべきか。あるいは“子ども”と言い換えてもいい――は、唇を小鳥のように突き出して宙を見据えた。確かに一年生なら自分より年下であるが、この少年はそれよりさらに幼く見える。身丈が小さいからというのもあるが、雰囲気が特に幼いのだ。赤ん坊が発する気配に似ている。不純物のない、無垢な幼稚さ。


「あ、でも喉乾いたよね? ボクの水筒ならあるけど、飲む?」

 ゴソゴソと懐を探り、喜三太はポンッと竹筒の水筒を出して見せた。小首を傾げる表情は、他人を気遣う以上のものを含んでおらず、猪々子はちょっぴり安堵した。しかし、だからと言って男が口を付けた水筒で水を飲むなんて、そんなこと考えられない。口を付けていなくとも、なんとなく躊躇ってしまう。

「ううん、いいわ。あなたのだもの、あなたが飲んで」

 喜三太は素直に「そう?」と頷き、水筒を懐に仕舞った。腕も足も、まだまだ丸みを帯びて男くささのかけらもない。なんだか、体の良い言葉であしらってしまったような気がして、チクリと胸に痛んだ。

「ありがとうね」

 様々な意味合いを込めて、猪々子は礼を述べた。少しの気恥ずかしさから顔を逸らしたままでいると、「気にしないでぇ」と明るい声が聞こえた。きっと、へらりと笑っているのだろう。なんとなくわかる。


 日向の熱気が嘘のように、この場所は静かで涼しかった。さわさわと吹く風に、緑の影を落とす葉のような色の、猪々子の髪が揺れる。ひどく心地がよかった。手を伸ばせば触れる距離に、あれほど嫌だった異性というものがいるのに。まだ貧血で頭が正常に機能していないのか、それとも喜三太がけして猪々子に不純な感情を介入させないと思うからか。一番の理由は、喜三太が男としての要素を持ち合わせていないからだろう。体は男でも、まだその片鱗を表す前。汚れ物が汚れる前のような、そんな安心感がある。

 口に出せば、失礼極まりない女だと嫌がられるに違いない。実際、自分自身、最低な考えだなと蔑むだけの自覚は持っている。だから、この穏やかな空気を壊さないためにも、猪々子は余計な口を開かない。喜三太ものんびりと寛いでいるだけで、特別なにもすることはない。


 ふと、地面に付いた手がなにかに触れた。その正体を見定めるために目線を下ろすと、自分と同じか、ほんの少し小さいくらいの喜三太の手があった。

 ――触れている。脳は理解していた。しかし何故だろう。離す必要はないと思えた。こんなところまで、猪々子の嫌悪する“男”としての要素を欠いているからか。むしろ、この子は本当に男の子なんだろうかと、そんな疑いさえ抱くほどだ。

 猪々子の胸中を察したのか、はたまたただの無意識か、喜三太はそのまま猪々子の手に自らの掌を合わせた。二人は手を繋いでいた。猪々子にとって、幼少期の滝夜叉丸以外の男と手を繋ぐのは初めてのことだった。何気なく彼の顔を見やれば、「えへへぇ」と無邪気に笑う。猪々子も目尻を緩めた。


「やま……むら、くん」

「喜三太でいいよぉ」

 心底おかしそうに、喜三太は肩を竦めた。

「えっと、じゃあ、喜三太」

 異性を下の名で呼ぶのも、猪々子には初の経験であった。名字ですら、なかなか呼ぶことはない。奇妙な照れくささとくすぐったさを感じながら、猪々子はゆっくりと口を開けた。

「ありがとう」

 喜三太は片眉を歪め、訝しげに猪々子の顔をまじまじと見た。

「さっきも聞いたよ?」

「うん、でもやっぱり改めて言いたくて」

「そしたらしんべヱに言ってあげてよ! しんべヱ頑張ったんだから〜。ボク一人じゃ、絶対ここまで連れてこれなかったよ」

「それは私が重いってこと?」

 唸るように言った猪々子に、喜三太は顔面を蒼白にしてブンブンと首を振った。あまりの勢いに、ちぎれないかと心配するほどだ。やれやれと苦笑し、猪々子は再び前を向いた。手はあいかわらず繋いだままで。


 今だけだからいいだろう。しんべヱが水を汲んで戻ってくれば、猪々子は素早くこのあたたかな手を離し、一歩引いたところで不機嫌そうに押し黙るのだ。ならばその時まで。緊張も恐怖もない、この優しい空間を崩さないまま、流れに身を任せてみたいと思う。

 ――そう、今だけ。喜三太がまだ、低い声も、高い身長も、広い背中も、ゴツゴツした掌も持たない子どもである、この時だけは。

 決断の日は、もう間近に迫っていた。選ばなくてはならない。くノ一として生きるか、諦めて学園を去るか。でも、そうするとこのかわいい男の子には、たぶん二度と会えなくなる。猪々子は知りたかった。喜三太がもう二つ三つ年をとって、低い声、高い身長、広い背中、ゴツゴツした掌などを手に入れても、彼と手を繋ぐことができるのかどうか。大きくなっても、はたして自分はこの少年に嫌悪感を抱かないのか。


 急に隣が静かになった。横目で見やると、喜三太はうつらうつらと舟を漕ぎだしている。やはり子どもだ。

 猪々子はとてもおかしかった。こんな美人の横にいて居眠りを始める喜三太も、そんな“男”の横にいて微笑を浮かべてしまう自分も、なにもかもがおかしくて仕方なかった。

「おやすみ、喜三太」

 猪々子の囁きに、喜三太はふにゃりと健やかな笑みを浮かべた。ほとんど夢の世界に旅立ち始めているそのこめかみに、猪々子は唇を当てる。柔らかな髪からは、汗と石鹸と、ゴムに似た赤ん坊のにおいがした。胸を締め付ける感覚にギュッと顔を引き締めながら、彼女は喜三太の頭に頬を預けた。すぅすぅと安らかな寝息が聞こえる。その息に己の呼吸を合わせるようにして、猪々子も目を閉じた。「きっと無理なんだろうなぁ」と、心の内で呟きながら。




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