本当なら、その日はごくありふれた一日になるはずだった。何事もなく、すべてを白紙に戻して忘れ去ったなら、それはありふれたこととして処理されたに違いなかった。


 ――その時、なぜ竹谷 八左ヱ門が振り返ったか、知る者は誰もいない。目撃した者もいないし、彼自身もおそらく一生この話を口に出すことはないだろう。

 初夏の風が生ぬるく心地よく吹き込む、晴れた日の午後だった。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない髪を、新緑を掠める風に揺らしながら、竹谷 八左ヱ門は忍術学園の廊下を歩いていた。昼飯を腹に入れた直後くらいの時刻。天は高く、明るい。廊下全体が白く発光しているような日だまりの中で、竹谷は何を思うでもなく、足だけを前へ前へと進めていた。

 ふと、彼が淀みなく動いていた足を止めたのは、開いた窓から入ってきた風が、ざあっと彼の頭髪と鼓膜を揺らしたからだろうか。まるでそれが一連の流れであったかのように、竹谷はくるりと振り返った。

 そこに、実習に行っていたはずの久々知 兵助が立っていた。


「どうした」

 静かに、本当に穏やかに竹谷は尋ねた。その声音は、まるで今日の日差しのように柔らかだった。

「いや、別にどうってことはないんだけど」

 久々知は少し気後れするように窓の外に視線を投げ、人差し指で頬を掻いた。


「ごめんな」

 目を伏せて呟かれた言葉は小さかったが、風にかき消されることなく竹谷へと届いた。久々知の髪は、竹谷のゴワゴワとしたものと違って、ふわふわと手触りがよい。緩く波打ったその黒髪は、陽に透けることもなく、風に舞うこともなかった。

「なんで謝るんだよ」

 眉を下げて、竹谷は笑った。仕方ないなぁと、すべてを許すような笑み。責任感が強く、頼りがいがあると後輩から慕われる、竹谷らしい笑い方だった。


「だってお前は、生きているものが好きだろう」

 陽光が久々知の姿を白く染め、うすぼんやりと霞ませる。男のくせに長い睫毛は悩ましく伏せられて、より一層その下の影を濃くした。

「なんだよ、それ」

「だって八左ヱ門は、生物委員会委員長代理だから」

「生物が好きだ、ってか? そりゃお前、俺が生きてるものより死んでるものの方が好きだって言ったら、いろいろとまずいだろう」

 からからと笑いながら、竹谷は腰に手を当てた。久々知も「そうだな」と笑い、逸らしていた視線を竹谷に戻した。

「八左ヱ門らしいな」

 涼やかな目を細める仕草は、変わらずいつもの久々知 兵助で、竹谷は胸の内がギュッとつかまれたようになった。


「おれ、きっとお前のこと好きだったんだ」

 なんでもないことのように、恥ずかしそうな素振りもなく久々知が言ったので、竹谷はしばらく言葉を返せなかった。頭の中まで白くぼやけて、感覚が麻痺した。

 「そうか」とだけ呟くと、久々知は笑みを深くして、こっくりと頷いた。突如吹き込んだ強い風が、ヒュウッという音を伴ってなにもかもを取り去り、竹谷一人をその場にポツンと残した。



「あれ、八左ヱ門。なにしてんの、こんなとこで」

 どれくらいそこに立っていたのか。背後からかけられた声に、竹谷はようやく我に返った。呆けたように振り向くと、同学年の尾浜 勘右衛門が、丸い目をきょとりと瞬かせて竹谷を見ていた。

「ボーッと突っ立って。具合でも悪いの?」

「いや、全然」

 口元に笑みを乗せて手を振ると、勘右衛門は「ならいいんだけど……」と語尾を濁した。それでも、傾げられた首と寄せられた片眉が、わずかに納得していない勘右衛門の胸中を表していた。


「てゆーか、違う。先生方と話をするから呼びに来たんだ」

「そうだったのか。そりゃあ悪かった。すぐ行くよ」

 竹谷と勘右衛門は、肩を並べて歩きだした。根が張ったような竹谷の足も、案外あっさりとその場を離れた。しばらく二人は無言で廊下を歩いた。


「――いい天気だね」

 ふと、勘右衛門が小さく言った。その目線を追って、竹谷も窓の向こうの空を眺める。青い絵の具を薄めたような、透き通った晴天があった。誰が見てもあきらかな好天だったからか、勘右衛門は竹谷の答えを待つことなく、

「雨の日じゃなくてよかったよね。せめて、こんな気持ちいい天気で、よかったよね」

「そうだな」

 お互い、独り言のように零しながら、晴れた空から視線を外した。


「……雷蔵は?」

 勘右衛門を見ずに、竹谷は尋ねた。勘右衛門もまた竹谷を見なかったが、苦々しく笑ったのが気配でわかった。

「様子見に行ったら、部屋にいたよ。あいつも、なんとなく変だった。ニコニコ笑ってたよ」

「そっか」

 竹谷に、それ以上言えることはなかった。以降は二人とも口を開かず、黙々と先を急いだ。


 ――それは、置き去りにしてしまった心が見せた幻覚だったのか。それとも、自らの願望が具現化したものだったのか。竹谷は判断しない。答えが出ないことを知っているからだ。大きな痛手を受けた時、心と体は別々に分離したようにちぐはぐになる。そんな時に見るものなど、たいてい気を狂わせるだけの夢幻である。惑わされてはいけないのだ。後ろ髪を引かれて立ち止まってしまえば、足元で待っていた底なし沼に引きずり込まれて、もう戻ってはこれない。――いや、逆に全身を沼の中に沈めているからこそ、自由に身動きの取れすぎる場所へ戻るのは危険なのか。

 今まで何度か、こんな思いを経験した。経験したからこそ言えることは、これを“ありふれたこと”として処理してしまえば、傷は浅くて済むということだ。なにもかもなかったこととして忘れてしまえばよかったのだ。もう何人も残っていないからこそ、残った者たちの結束は強かった。それでも、だからこそ、消し去ってしまうしか方法がないのもまた事実だった。


 久々知は竹谷のことを好きだったと言った。竹谷も、久々知のことを好きだと思っていた。でも、だからなんだと言うのだ。今さら言ったところで、なんの実にもなりはしない。

 離れてしまうことを前提としていれば、そのさっぱりとした笑顔に、時折よこされるおとぼけに、真っ白な心に、触れることもできたのだろうか。すべては午後の明るみにぼんやりと溶かされ、面影もない。

 泣いてしまえれば楽なのかもしれなかった。だが、竹谷も勘右衛門も、それを選ぶことは絶対になかった。それなりに、忍者としての覚悟と矜持を胸に生きてきた。いつ何があってもおかしくないと言い聞かされ、自らに言い聞かせながら毎日を過ごした。それは、久々知や鉢屋や雷蔵とて同じだった。きっと、死んだのが五人のうちの誰であっても、誰も涙は見せなかったであろう。


 ――それでも。

 それでも、うれしかった。喜びは忘れられない傷となって竹谷の胸を抉るが、捨ててしまいたいとは思わなかった。長い時を共に過ごしてきたのだ。悲しくないという方が嘘だった。ならば、それでいいじゃないか。


 廊下はすでに終わりを見せて、不可思議な空間もここで終わる。久々知と会ったあの場所は、すっかり後方に遠のいて、もはや誰の姿もない。




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