「なにをしている」

 文机の上に広げた紙から一寸も目を剃らさず、立花 仙蔵は普段の凛とした声で言った。まっすぐな棒が一本入ったような声音は、聞く者の背をしゃんと伸ばし、自然と座る形を正座にする。まるで咎められているような厳しさを感じるが、けしてそんなことはない。これは彼の几帳面で冷静沈着な性質――また、後輩たちに甘さ以外からも物事を学ばせようという常からの先輩らしい振る舞いが作り出す、自然な空気なのだ。さらに彼は、行儀や順序を尊ぶ作法委員会の長である。その「不調法なまねを致してはならぬ」という一種戒めじみた生真面目さが、彼の周囲にどことなく冷ややかな気配を漂わすのであろう。

 だが、知ってみればなんのことはない。仙蔵は普通にギャグも飛ばすし、誰かのそれに対して華麗なツッコミも入れる。機嫌の良し悪しをはっきり表に出したり、しんべヱや喜三太に対してはあけすけな感情をさらして追いかけ回したりもする。そういう人間じみた部分が、思っているより案外目立つ。一度きちんと関わってみれば、そう怖いお人でもない。ナオミがそのことに気付いたのは、わりと最近だ。

 くノ一教室のくのたまとして立花 仙蔵を見ていた時は、その容姿の美しさと、噂から知れる優秀さ、いつ何時も感情に左右されないクールさに、黄色い歓声を上げたりしていた。友人たちと、女の子らしい悪ふざけで、恋文じみたものを渡したこともある。しかしそれは、ただ“格好いい先輩に憧れている状況”を楽しんでいただけで、実際の仙蔵だとか、彼からの返答だとか、そんなものに一切興味はなかった。閉鎖された空間で、色気とは程遠い体術やら忍術やらを学ぶ少女たちにとって、“年上の先輩に色めき立つ”行為は、それなりに刺激的で面白みがあった。本気の恋ではないから、胸の痛むこともない。偶像を上滑りするだけのまやかしに目を眩ませて、都合のいい妄想を仕立て上げる。それくらいしか、日々を楽しむ術を知らなかった。だからナオミたちは、そんなことばかりして暇を潰した。自由の利かないこの年頃の娘にとって、こんな毎日はなんとも味気なかった。


 ナオミが仙蔵をきちんと“一人の人間”として認識したのは、今から二月ほど前のこと。流行りの団子屋へ出向いたナオミは、なんと運悪く山賊たちに取り囲まれる羽目になってしまった。隠れた名店を他のくのたまに知られたくないがために、一人で足を向けてしまったのが悪かった。いくらくノ一となるためのいろはを学んでいるといっても、所詮は浅くかじっただけの卵。腕っ節の強い男十数人に適うわけがない。ジリリと後退りながら、何をされるのかとナオミは考えた。金を持ち去られるくらいなら助かった方だろう。恐ろしいのは危害を加えられることだ。具体的にどう、というと、少女と呼べる年齢の彼女には「殴る蹴る」程度しか思い浮かべることができないが、山賊たちのギラギラとした目は、いやに悪寒を纏わせる粘っこさでナオミの肌を粟立たせた。前にも後ろにも行けず、その場で立ち竦む。山賊たちはニヤニヤと嫌な笑いをしながら、今にも飛びかからんと間合いを計っている。

 やられる――、ゾッと背筋が冷えた瞬間、彼女の前に一つの影が躍り出た。音もなく、目にも止まらぬ速さでどこからか現れた影は、瞬きをする間に人の形を成し、その見覚えのある後ろ姿にナオミは瞠目した。

「立花 仙蔵先輩……」

 ぽろりとその名が口から落ちた。トレードマークの上等な糸のような黒髪が、彼の動きに合わせてサラリと揺れる。認めるように振り返った人物は、やはり思ったとおり、忍術学園六年い組の立花 仙蔵に相違なかった。彼は落ち着いた様子で「下がっていろ」と言うと、普段着の着物の懐に手を入れた。そのキリッとした横顔を見て、あいかわらず背景が光り輝いている人だ、と呑気に思いながら、しかしナオミは安堵で崩れ落ちた。山賊と向かい合ったまま、「安心しろ、もう大丈夫だ」と声をかけられ、涙腺がブワリと熱を持つ。弱々しく「はい」と言えば、その背は一層輝いたようだった。


 同じ忍者の卵だというのに、仙蔵の戦闘力はまるで圧倒的であった。小物らしく軽んじた嘲笑をよこした山賊共を、まるで分身でもしているような素早さでなぎ倒していく。無駄な動きなど一切ない。右に動き、左に走り、後ろへ跳びながら手裏剣を放つ。かと思いきや、目を離した隙に相手の背後へ回り、その首元へ手刀を入れる。場数が違うのだ、ナオミはそう悟った。自分の傍にぴったり付いているわけでもないのに、山賊はナオミに指一本触れることができない。近寄るより先に、仙蔵がそれを仕留めてしまう。まるでナオミの周囲に、見えない防御壁でも張っているようだ。あまりに鮮やかな戦いぶりに涙が引っ込んだ頃には、山賊たちは尻尾を巻いて逃げていくところだった。見える範囲では、誰一人として血を流すような怪我を負わせていない。なんて人だ。

 すっ、と眼前に手が差し出された。

「怪我はないか?」

 その端麗な顔を彩るのは、白い能面ではない。心配そうに目尻を下げ、けれど目の前の後輩を不安にさせないためか、大きな感情の変化を見せない先輩の顔だ。

 そろそろとその手に己の手を重ねながら、ナオミはひとりでに溢れる涙を止められなかった。仙蔵は何を言うでもなく、ただ傍にいてくれた。よけいなことを言わないその姿勢が、一番気遣われているのだとわかった。普段の近寄りがたい雰囲気などすっかり忘れ、ナオミは仙蔵の隣で涙が止まるまで待ってもらった。


「危ないところを助けていただき、ありがとうございます。私、くノ一教室の――」

「ナオミ、だったか」

「え」

 丁重に頭を下げていたナオミは、予想外に被せられた台詞に思わず顔を上げた。

「前に一度、文をもらったことがあったと思うが」

 なんでもないことのように仙蔵が言うので、ナオミは思わず赤面する。

 ――覚えられていたなんて!

 仙蔵は他のくのたまにも人気があるし、恋文の一枚や二枚いくらでももらっていると思っていたので、よもや自分の存在、はては名前まで覚えているとは驚きだった。しかもお遊びで書いた似非恋文で、返事ももらっていない。今初めて、仙蔵の頭の良さと物覚えの良さが憎い。関わりもなく、名を覚えられていることすら知らないままなら、きっとこんなことを思いはしなかった。だが、今は違う。ナオミは仙蔵と関わってしまった。颯爽と助けられ、名を呼ばれ、目が合った。自分が手紙を送ったことも覚えられていた。こんな羞恥があろうか。真面目な場で、おふざけ時の愚行を言われるのは、身悶えるほどに恥ずかしい。当時の自分を殴り倒したくなるくらいに。

「無事でなによりだったな」

 緩く相好を崩した仙蔵が、ナオミの頭にポンと手を置く。ナオミよりよほど色白なその手は、それでも大きく、骨張った固さと裏腹にじんわりと暖かい。涼しげな顔に一粒、汗の玉が浮いているのを見て、ナオミは再び泣きそうになった。

 ――私を助けるために戦ってくれたんだ、私はあの立花先輩に助けられたんだ――。それを実感するほど、頬は熱く、眼球にはうっすらと涙の膜が張った。唇を噛んで必死に耐える。

「本当に、ありがとうございます」

 隠すように深く頭を下げると、茶けた癖っ毛が風に凪いだ。その風に乗って、仙蔵が優しく唇を綻ばせた音が聞こえた気がした。


 そうしてナオミは恋に落ちた。今度はおふざけでも、暇つぶしの遊びでもなく、本気の恋だ。三禁の教えを厳しく諭すこの学園で、それは当然ながら御法度である。しかし、走り出した熱情は止まらない。障害があればあるほど恋は燃えるというのは本当だったらしい。胸にポッと灯った小さな明かりは、ひと月もしないうちに煌々と燃え上がる篝火となった。その火は消えることなく、彼への想いを募らせていく。

 仙蔵を好きになってから、ナオミは暇さえあれば忍たま長屋に足を運ぶようになった。情報収拾という趣味から、わりと学園内をうろつくことは多かったが、それでもくのたまが一人で忍たま長屋に訪れるのは勇気がいる。初めこそ周囲の目が痛かったが、回数が増えるごとに気にならなくなった。忍たまたちも、足繁く通うナオミに慣れたようだった。その相手が立花 仙蔵であると知れば、なるほどわからんでもないと納得する者も多かった。しかし大半は、すぐに飽きるか嫌になるだろうと読んでいたらしいが、あいにくナオミはいまだ仙蔵に飽きることも嫌になることもない。仙蔵と同室の潮江 文次郎には「やめた方がいい」と再三説かれたものだが、一番仙蔵のことを知る先輩からの忠告もなんのその、彼女は今日も元気に忍たま長屋へ忍び込む。作法室の扉を細く開け、涼しげな表情で書き物をする仙蔵の顔をうっとり盗み見ていれば、「なにをしている」と声がかかった。こちらを見てもいないのに気付くとは、さすが最上級生である。わずかに開いていた障子を思い切って全開にすると、仙蔵は不機嫌そうにナオミを見た。

「またお前か。毎日毎日ご苦労なことだな」

「立花先輩こそ、いつも委員会のお仕事お疲れ様です」

 自分なりの最上の笑顔を作って見せるが、仙蔵はため息を吐かんばかりの表情で――むしろ、すぐさまうんざりを吐息に乗せて吐き出した。

「そのとおり、私は忙しい。というわけで、今日は帰……」

「お忙しいのなら私がお手伝いいたします! たいしたことはできませんが、このナオミ、立花先輩のために尽力させていただきますよ! さあさあ!」

 ここぞとばかりに部屋に入り込み、ナオミは仙蔵の前にずいと顔と近付けた。言葉途中の仙蔵は、彼女の勢いに半ばのけぞる。「いや、結構」と拒否を示す彼の顔つきが、ある場面でのそれに変わっていく。“ある場面”というのは、しんべヱ・喜三太との交流――もしくはそれによってもたらされる面倒事――のことなのだが、知っているのは仙蔵だけだ。仙蔵のこんな面を引き出せるのは二人をおいて他にいなかったので、ナオミはある意味では非常に特別である。だが、それを知るのも仙蔵だけだった。


「お前もいい加減やめたらどうだ。こないだも忍たま長屋に忍び込んだことがバレて、山本 シナ先生に叱られていたろう」

「よくご存知ですね」

「私の方にも矛先が向かってきたんだ。『立花くんからもきちんと言っておいてくれるかしら』――とな」

「それはいい迷惑でしたね」

「わかっているなら改めんか」

 一気に苦々しくなった仙蔵の顔に、ナオミは「えー」と間延びした声を出す。

「だって私、立花先輩に会いたいんですもん。くのたまと忍たまが同じ場にいることって少ないしー。私が頑張らないと、先輩からは会いに来てくれないでしょう?」

「学園内で風紀を乱すようなことはせん」

「これだもんなー」

 ナオミは後ろ手を付いて、天を仰いだ。「だらしがないぞ」と仙蔵から注意が飛んだが、「じゃあ、きちんとした座り方を先輩が手取り足取り教えてくださぁい」と甘ったるく言えば、冷気漂う目線で相殺される。それはすぐさま手元の書類へと戻され、再びナオミは一方的に彼を目で追うこととなった。


「まったく……、お前は行儀見習いで来ているんじゃなかったのか」

 呆れた声音が響く。悩ましげに嘆息する姿を見て、ナオミの口が自然と開いた。

「先輩はお優しいですね」

 は、と仙蔵が眉を寄せた。

「何を言っている」

「助けていただいた時も思いましたが、先輩は優しい人です。なんだかんだ言って、本当の意味で私を突き放すことはないですもん。先輩が一言『お前のことなんか嫌いだ。顔も見たくない。二度と私に近付くな』と言えば、私は先輩を追いかけ回したりしないのに」

「そうなのか?」

「当たり前でしょう。好きな人にそんなことを言われたら傷付きますから」

 なんとなしに告白してみると、目の前の美麗な少年は口を噤んだ。じっ、と見つめる切れ長の瞳に、少し息苦しくなる。まさかナオミの気持ちに気付いていなかったわけではないだろう。普段、はっきりと気持ちを告げることのないナオミが突然よこした直接的な表現に、驚いているのかもしれない。

「そう言われると、妙に気恥ずかしいな」

「何言ってんです。私の方が恥ずかしいですよ」

「ほう……、これほど猛烈なアプローチをする女子にもそんな恥じらいがあったとは」

「失礼ですね! 私だって、誰彼かまわず追っかけてるわけじゃないんですから」

 そう言うと、仙蔵の目がわずかだが変わった。興味なのか、疑問なのか。問いただすように射抜く視線に、ナオミはちょっと怯んだ。先ほど仙蔵は気恥ずかしいと言ったが、ナオミだって充分照れくさい。無言の圧力から逃げるため、彼女は仙蔵から目を逸らした。


「先輩。私は、先輩に好かれようだとか、結ばれようだとか、そんなおこがましいことを思っているわけじゃないんです。だって不釣り合いですもの。それくらいは私にもわかります。ただ、“好きでいること”、“好かれようと努力すること”は個人の自由でしょう? だから私は、その権限を目一杯行使しようと思うんです。先輩がこの学園にいる間だけでも、私は先輩を好きでいたい。好きであることを知ってほしい。近寄れるかぎり近寄りたい。そう望んでいるんです。後悔するのは嫌だから」

 誰がやめろと言っても、選ばれはしないのだと知っていても、想いに蓋をすることはできない。それなら、不毛な努力でも、恥すら捨てて欲望に従おう。本能の赴くまま、したいことをしよう。今だけだと思うからこそ、ナオミはいくらでも大胆になれた。彼が卒業してしまえば、きっと途絶えてしまう交流。それまでだからだと、彼に我が儘を言う。本来、ナオミはこれほど行動的なタイプではない。ひとえに、制限された時間の中で、少しでも好きな人と一緒にいたいがためだ。


「ナオミ」

 男の声が彼女の名を呼んだ。間違いなく、それは立花 仙蔵の声だった。名を呼ばれるのは、山賊から助けられたあの時以来ではないだろうか。ナオミの心臓が、ドクンと大きく脈打つ。

 仙蔵はスラスラと紙に筆を走らせながら、

「この学園には三禁の決まりがある。それは忍としての教えだ。だからたとえ学園を卒業したとしても、そちらの道に進むかぎり守らねばならないものだ」

 急になんの話かと、ナオミは首を傾げた。仙蔵の目線は、あいかわらず彼の達筆な字へ落とされたままだ。

「しかし、言わばそれは忍者に対しての決まり。ただの男と女となれば、なんの関係もない」

 ナオミの首は傾いたまま戻らない。仙蔵はいったい、何を言おうとしているのか。そこで、淀みなく走っていた筆がピタリと止まった。硯に筆を置き、スッと頭を上げた仙蔵は、まっすぐにこちらを向いた。

「お前は、行儀見習いでこの学園に入ったのだろう」

「え、はい」

「卒業後にくノ一として、忍稼業を生業とすることはない。そうだな?」

「そのつもりですけど」

「ふむ。ならば、お前が卒業した後(のち)、私たちが先輩後輩の関係でなくなり、ただの男と女になったなら、その時はお前とのことを真剣に考えよう」

 ――腰が抜けるかと思った。ナオミは呆然と、衝撃的な言葉を紡いだ想い人を見やる。仙蔵はいたって真面目な面持ちで、ナオミの視線を受け止めている。

「本気ですか」

「ああ」

「望みはあると思っていいんですか」

「ああ」

 短い返答だが、仙蔵はしっかりと頷いた。三禁の決まりのある学園内でできる、仙蔵なりの最大の譲歩だった。そして、ここまで一途に自分を想っている少女に抱いた、ほだされたとも言える好意だった。


 ナオミの瞳が光りだす。みるみるうちに涙がその眼球を覆うのを見ながら、仙蔵の脳裏に蘇るのは、初めて言葉を交わしたあの日のことだった。

 ――弱いのなら、強がる必要はないのに。

 だが、そんな健気な部分を可愛いと思ったのは事実で、その印象は今でも特に変わらない。いよいよナオミの目からはポロポロと涙が零れ始めて、彼はひっそりと表情を和らげる。

 面倒なことになったものだ、と仙蔵は思った。何故なら、せっかくナオミを抱き寄せるために筆を置いたというのに、屋根裏から気の利かない同級生たちが、そわそわした気配を隠しもせずに、二人をずっと眺めているのだ。




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