「失礼します、くノ一教室のナオミです。よろしくお願いします」

 開口一番にそう言って深々と頭(こうべ)を下げた少女に、立花 仙蔵は内心「おや」と首を傾げた。

 今宵、くノ一教室の房中術の訓練が行われること、ひいてはそのためにくのたまたちが上級生の部屋を訪れることは、初めから山本 シナによって説明の為されていたことだ。そのため、仙蔵の元にも誰か一人くのたまがよこされることは、彼も前もって承知していた。だから、太陽もすっかりなりをひそめた夜半刻に、こうして寝間着姿で布団の上に座って待っていたのだ。ちなみに、文次郎は別室にて違うくのたまの相手をしている。

 仙蔵が「おや」と思ったのは、普段なら忍たま長屋で対峙することはほとんどないくのたまの登場に驚いたからではなく、彼女自身へのことであった。

 ――こんな奴いたっけか。仙蔵の心の内を率直にバラしてしまうなら、これだった。

 他人の顔を覚えるのは不得意ではない。己が選んだ職業柄、味方を認識することはおろか、一度見ただけの相手を見定めて追跡したり、調査したり、果ては手を下したりしなくてはならないのである。記憶力が悪いとなれば、お話にもならない。さらに、忍術学園にはたくさんの生徒・教師がおり、その顔を全て覚えるのも最上級生としては必要なことだった。くノ一教室と言えどそれは変わらない。彼が記憶しているかぎり、くノ一教室のくのたまはほとんど顔と名前が一致している。

 それなのに、今自分の元に滑り込んできた今夜の相手を、仙蔵は思い出すことができなかった。名前だけかすかに聞いたことがあるような気もしたが、やはり顔と一致しない。相も変わらず「こんな奴いたのか」と疑問が渦巻くばかりだ。

 そんな失礼なことを思われているとは知らない彼女は、チラリと視線を上げると、「それで、あの……私はどうすれば」と戦々恐々とした様子で言った。ようやく記憶の海を辿る作業から帰還した仙蔵は、その声にがらにもなくハッとした。正座したまま窺うようにこちらを見ている少女に、一度だけ瞬きを返すと、「とりあえず、こちらへ来い」と手招いた。

 ナオミと名乗る少女は、小さく体を強ばらせると、亀にも劣るような鈍い動きで腰を上げた。覚束ない足取りで、ゆっくりと仙蔵に近付く。見ると、行灯に照らされたその頬は、暗闇の中でもはっきりわかるくらい朱に染まっていた。躊躇いもなく見ていると、それを感じてか彼女がふと視線を上げた。目が合った途端、苦いとも痛いともつかない微妙な表情をして、また俯く。

 ふと仙蔵は思った。自分がこのナオミという少女の存在を知らなかったのは、ひとえに彼女が地味すぎたからではないだろうか。これまた失礼な言い分だが、彼はいかんせん頭の良さと冷静さに過ぎるため、時々己の思考や記憶すら他人事のように分析することがある。その特性から導き出した答えがそれだった。確かに、忍たまがくのたまと関わることはほとんどない。それでも、行事の際には同じ場にいたりするし、まったく会わないというわけでもない。ましてや、仙蔵は先述のとおり記憶力には自信がある。その彼が覚えていなかったということは、つまり彼は彼女の存在を“認識”したことがなかったのだろう。

 確かに彼女はそう思っても致し方ないほどに地味な少女だった。中肉中背。瞳は少しつり目気味だが、黒目が小さくインパクトに欠ける。癖っ毛というくらいしか特徴のない髪。体質なのか手入れを怠っているのか、肌にはそばかすが目立ち、鼻はちょこんとひかえめだ。あまりにも秀でたものがない。派手な者や特徴的な者が多いくのたまの中で、こういうタイプはめずらしいのではないかと仙蔵は思った。誠に遠慮のないことだ。

 しかし、きわめて失礼な分析を行ってはいたが、有能な彼はそればかりに焦点を当ててもいなかった。存在感がないというのは、ある種、自分たちの目指す職業にとって好都合である。敵に気付かれず悟らせず、無事に任務を遂行することができるのなら、それに越したことはない。忍者の本分とは真にはそういうことで、忍具や術を使っての戦闘は言わば最終手段なのだ。手を汚すことがないのなら、その方がずっといい。それを考えると、仙蔵にすら“認識”されていなかったこのナオミという少女には、くノ一としての天性の才能が備わっているのかもしれない。

 第一、仙蔵は別段派手な女が好きというわけではないので、閨(ねや)を共にする相手が地味であろうが気にすることはなかった。冷静な彼は、己の外見が他人から見ていかに華やかに映るか理解していた。そんな自分の隣にさらに華やかな女がいれば、人によっては嫌みにも取れるだろう。もしくは、近寄りがたい二人だと思うかもしれない。まず、画面がうるさくなる――などと余計なことにまで気を回してしまう始末だ。だから、彼は自分の隣に立つ女は、どちらかと言えば地味なくらいが対比が取れていいのではないかと、不遜にも思っていた。そのため、ナオミがいかに美人でなかろうが秀でていなかろうが、仙蔵はかまわなかった。

 仙蔵の目の前に腰を降ろすナオミの足は震えていた。それはそうだろう。ここから先のことは、彼女にとって真っ暗な闇に放り出されるようなもの。何もわからないまま、訪れる未知の行いを待つしか彼女にはできない。

 できるかぎり柔らかく、仙蔵はナオミの髪に手を入れた。彼女は露骨にビクリとしたが、わきまえているらしく、逃げようとはしない。小さく長く息を吐いて、緊張を殺そうとしていた。その深呼吸が終わるタイミングを見計らって、仙蔵は抱えた頭を引き寄せた。

「では、これから房中術の訓練を始める」




 寝間着をしゅるりと羽織り、長く艶やかな黒髪を後ろへ流す。女性的なその仕草にそぐわず、寝間着に隠される前の背中は、しなやかな筋肉と筋張った骨で構成された、圧倒的な男のそれであった。だいぶ呼吸が平素どおりになったことを確認し、ちらりと振り返る。敷布の乱れた布団の上で、ナオミはいまだに呼吸を荒げていた。初めて他人に暴かれた肌は白く、しかし赤く火照っていた。何も見ていない目はぼんやりと涙に濡れ、男を誘う色香をまとっている。これは本当に、案外いいくノ一になるかもしれないと、仙蔵は心の内だけで呟いた。

「以上が房中術――男と女の性交渉だ。このように快楽に溺れさせ、口の滑りがよくなったところで情報を奪う。今回は私がすべて行ったが、おそらく次回からはお前が主導権を握っての実技もあることかと思う。その際の相手が誰にせよ、男が喜ぶ方法については山本 シナ先生の方から説明されるだろう。しっかり聞いて、次回に生かすように」

 はきはきと、先輩として、そして此度の訓練の監査役として助言を述べると、ナオミはうっすらと開いた目で仙蔵を見上げた。

「ごめんなさい……私、全然何もできなくて……」

「初めての時など誰しもそういうものだ。恥じることはない。これから学んでいけば良い」

 言いながら仙蔵は再び布団に横たわり、裸のナオミに掛布をかけた。頬杖を付き、彼女の頭を優しく撫でる。ナオミはじっと、仙蔵を見つめていた。

 基本的に、訓練が終わった後に相手に優しく接するのも、すぐに部屋へ帰さずに傍で寝かしておくのも、してはいけないことだ。だが、彼女はなかなか疲弊していたし、情事の後にこういう甘ったるい時間を楽しみたいのは誰しも同じだった。だから、大概いつもこうなるのだ。それ故、先生方もこのことに関しては、目を瞑ってくれている。

「疲れただろう。眠っていいぞ」

「はい……」

 目をとろりと緩ませ、ナオミは頷いた。うとうととしながら、

「立花先輩って、もっとすごいことしてくるんだと思ってました」

「すごいこと?」

「ああ、いや、思ったより優しくて丁寧だから驚いたんです」

 訊き返すと、失言したと思ったのか、ナオミは仙蔵の問いから少し話をずらした。“すごいこと”がどんなものか気になったが、素知らぬ顔をして聞き流す。

「私、今日の実技、すごく不安でした。怖かったです。相手が立花先輩だって知って、さらに緊張もしました。でも、」

 ナオミは、わずかに距離を縮めた女の目で、

「――でも今は、立花先輩でよかったって、思ってます」

 最後に少しだけ口角を上げて、彼女はそう言った。純粋な生娘からただの純粋な娘に変わっただけの少女の頭を、仙蔵は撫でる。やんわりと綻ばせた彼の瞳には、言いようのないやるせなさと諦めが滲んでいた。


 仙蔵は言わない。世の男がみんな、今晩のように優しく女を抱くわけではないということを。くノ一となって任務を遂行するようになった際のそれが、どれほどひどいものであるかを。女を性欲の捌け口としか思っていない者もいる、あるいは複数で侮辱する者もいる、物理的に肉体を痛め付けることを好む者もいる。言ってしまえば、大多数がそんなものだ。

 だから、仙蔵はできることなら、今夜のことは忘れてほしいと思う。優しくされた記憶があると、辛い状況になった時、よけいに辛い。最初にひどいものを知っていれば、いざという時に「なんだ、こんなものか」と思える。忍者やくノ一が、相手に情やら思いやりやらを求めるのは間違いなのだ。

 だったら、初めから手酷いやり方で蹂躙すればいいのかもしれないが、あいにく仙蔵にそんな趣味はなかった。できないわけではない。けれど、周囲からの評価より彼はずっと大人で気遣い屋であったから、これから辛い現実に身を投じていく少女にそんなことはしたくなかった。それは、この道を目指してからの六年間、手酷い目に遭ったり、最低な男共の玩具になったり、それを苦に命を絶つ生徒たちを見て、彼が思い至ったことだ。今夜と同じように、自分が房中術の訓練を行った相手が、次の年には学園から消えていたことも何度かある。だから、そんな光景を目の当たりにし、自分もその現実に打ち砕かれた経験を持つ忍術学園の六年生は、くのたまたちの房中術訓練にはいやに親切なのだ。少しだけでも、たった一、ニ度だけでも、甘く気持ちのよい夜を味あわせてやりたい。暴君と名高いあの七松 小平太でさえ、地獄の会計委員長と恐れられる潮江 文次郎でさえ、この夜には信じられないほどの優男に変わる。サディストと呼ばれる、この立花 仙蔵でさえも。


「おやすみ」

 囁くように言って、仙蔵はゆるりと唇に弧を描いた。心地よさげに仙蔵に頭を撫でられながら、ナオミはこくりと頷いた。すでに船を漕ぎだしている。彼女の口が、少しだけ開いた。

「みんな、立花先輩みたいだったらいいのに」

 そうとだけ呟いて、彼女は仙蔵の胸に顔をうずめた。仙蔵は「そうだな」と笑うと、細い肢体をゆるく抱きしめた。安心したように、すぐに安らかな寝息が聞こえてくる。仙蔵はこみ上げてくる何かを堪えるように、唇を噛んだ。

 そんな夢のような話はありえないと、二人ともきっとわかっていた。




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