※小平太と恵々子、滝夜叉丸と猪々子が兄妹




「私ね、自分の兄のことが好きなの」

 何度も訪れて過ごし慣れた恵々子の部屋は、冬の白く閉鎖的な陽の光を差して柔らかく明るんでいた。恵々子がその白く細い指で淹れた紅茶は、その茶けた色合いと反して、カップの底に描かれたハート模様がくっきりと見えるくらい澄んでいた。その品のある風情が、目の前の友人の人柄を表しているようだった。

 そんな、きっと最適な温度で淹れ、茶葉が一番よい状態で開かれたおいしい紅茶を、口に含む直前で止めた猪々子は、琥珀色の液体をしばし眺めた後、引きずられるように面を上げた。今の今まで見ていた紅茶の水面は、思考と共に視界まで落ちてしまったため、思い出そうにも思い出せなかった。そのかわりに、芳しいダージリンの芳香が鼻孔をくすぐる。やはり、とてもよい状態で淹れられた紅茶のようである。それに口を付けられないのはひどく残念だったが、今はそれどころでもなかった。


「え……?」

 率直に零れ落ちた返答は、間抜けとしか言いようのないものだった。脳を介する前に、声帯が勝手に音を紡いだ。しかし、なんの留意もせずに出たのはそれっきりで、その後から猪々子は必死に次の台詞を探し始めた。候補はいくつかあったが、そのどれもが相反して、裏側の意味を読み解けばたちまち恵々子を傷付けてしまいそうなものばかりだったので、ひたすら口をパクパクと開閉させた。

「本当なの」

 答えへ導くための道を指差すように、恵々子は言った。荒ぶりも悲観もしていない静かな口調は、ヤカンから上がる湯気と共に白く充満し、確実に猪々子の耳へと届いた。母親が子に言い聞かせているようだった。だから猪々子は「またまた、嘘ばっかり」「なにそれ、漫画の話?」というような、ひどく現実的でひどく夢見がちな返しを、胸の奥で霧散させた。


「兄って、お兄さん――小平太くんのことよね?」

 自分と彼女より四つ年上の男のことを言うと、恵々子はこっくりと頷いた。ふわふわとした藍色の髪が、振動で肩を伝って前に流れた。彼女がそれを認めたことにより、猪々子はさらに言葉を失った。言ってしまいたいと思ったが、問題があまりにデリケートすぎたため、浅はかな意見は発するべきではないと思った。生半可な気持ちで触れるには、それはあまりにも未知の領域にあった。

 恵々子の兄の小平太とは、妹と仲良くする際の自然的流れで顔を合わせた。どちらかと言うと静の位置にいる恵々子とは真逆で、兄の小平太は動に超が三つくらいつきそうなほど、活発で行動的で明朗な人だ。騒がしく強引な小平太に、猪々子は当初苦手意識を抱いていたものだが、その内に潜む懐の大きさや寛大さを見て認識を改めるに至った。今では「猪々ちゃん」「小平太くん」と呼び合う仲だ。

 だが、その兄のことを恵々子が「好きだ」などと言うところは初めて見る。彼女の言った“好き”が、家族愛という意味でないことはわかっていた。小平太と恵々子は傍目から見ても仲の良い兄妹であったし、お互いを大切に思っているのはあきらかだった。それを今さら言葉にする必要もない。だから、恵々子がわざわざ小平太を「自分の兄」と称し、「好きなの」と吐露したからには、それは男女――そう、つまり恋愛的意味の“好き”を示しているのだ。そう理解していたからこそ、猪々子は喉がつっかえたまま何も言えなかった。

「ごめんね、急にこんなこと言って。びっくりしたでしょう」

 ふいに、恵々子が肩を揺らしてクスクスと笑った。口元に手を添える動作はとてもたおやかで、まさに“女の子”だった。綻ぶ笑顔と明るい声色と逆に、空気がしんと冷えた冬の夜道のように暗く寂しかったので、猪々子は恵々子にからかわれたのだとは思えなかった。


「いつから?」

 カップをソーサーに置いて訊くと、恵々子の笑みがふっと消えた。捨てられた子犬のように眉を下げた後、

「たぶん、もうずっと前。生まれた時から好きだったんだと思う」

 ゆっくりと瞬きした少女の頬に、睫毛の影が落ちた。

「でも恵々子、今……」

「うん」

 何を指しているのか、お互いにはよくわかっていた。恵々子は口の中で言葉を転がすように唇を動かした後、

「彼にはね、明日にでもさよならを言うつもり」

 大学に入ってから何人目かの恵々子の恋人を思い浮かべ、猪々子は知らず表情を曇らせた。生真面目で穏やかな、良い彼氏であった。


「本当はね、気付いたのはつい最近なの。私、今までも結構何人かと付き合って別れたりしてたでしょ? なんだかね、思っちゃうのよ。『違う、この人じゃない』って。ハッと夢から醒めるみたいに、ある日突然、忘れていた問題の答えを思い出すみたいにピンとくるの。自分の書いている答えがまるで見当違いなことに気が付くみたいに」

 つらつらと語る恵々子の姿は、どこか落ち着きなく猪々子には映った。言葉にしていなければ、恵々子自身にも理解できないのかもしれない。言葉という媒体を使って、己の中で説明付けていないと、頭が整理できないのかもしれない。もしかしたら彼女が一番、実の兄を愛していることに困惑しているのかもしれない。

 返答を探して俯いていた猪々子は、ちらりと目線だけを目の前の少女に向けた。恵々子は、掌の中の紅茶をようやく一舐めして、ふうと息を吐いた。

「たとえば、前に死んだとき」

「……どういうこと?」

「前世、っていうのかしら。そんなものが本当にあるかどうかは私にもわからないけれど……もしあったとしたら、私はその時、前世の私が死ぬ時、こう思ったのかもしれない。『次に生まれてくる時は、あの人の傍で、近くにいることを誰にも咎められない立場で、一緒にいたい』と」

「…………」

「そう思いながら死んでいったのかもしれないわ。もしかしたら、前世では共に幸せになれなかったのかも。どちらかが先に死んでしまったのかも。だから前世の私は願った。『もう二度と離れないくらい、強い絆をください』って」

「それが“家族”という絆だと?」

「ええ」

「ずいぶんロマンティックな物語ね」

「ふふ、そうでしょう?」

 口では微笑を漏らす恵々子のその顔は笑ってなどいなかった。必死に目元だけを細めるそれは、苦しみを我慢している顔以外の何物でもなかった。


 ――たとえば猪々子が現在の想い人――次屋 三之助その人と兄妹の関係であったなら、どうだろう。猪々子はふと思考してみるが、実際に血の繋がりのない彼との間にそういった条件を付与して考えるのは案外難しい。そのかわりに実兄の滝夜叉丸を想い浮かべてみると、酒をしこたま浴びた翌日のように、胸がムカムカしてならなかった。兄はあくまで兄であり、住む家のように当たり前であり、近しい他人であり、それ以上でも以下でもない。それを恋愛対象として見るというのはどういうことなのか。実感が湧かない。

 それを実感してしまった恵々子は、これからをどう過ごすのだろうか。そういった類の少女漫画やドラマは世にごまんとあふれているが、まさかそれらのように簡単にハッピーエンドにたどり着いたりはしないだろう。だからと言って、恵々子が小平太を殺して心中をはかったりするようなサスペンスドラマにもなりそうにない。この兄妹は、パッと見にはまったく似ていないのに、根っこの部分で強い結びつきを感じさせる。頑固でまっすぐで、大切なものを守るために我が身を犠牲にするような、愚直なばかりに正直な二人なのだ。

 だからきっと、恵々子は小平太に想いを打ち明けたりはしないであろう。気持ちに蓋をし、いつかお互いが人生の伴侶を見つけた時にも、笑って彼を送り出すのだろう。そういう物語だって、猪々子はたくさん見てきた。けれど、こんなに胸がモヤモヤした空虚感にみまわれたことは、ただの一度もなかった。


 取り繕うように笑って、恵々子はもう一度紅茶に口を付けた。猪々子はそれをぼんやり眺めながら、自分の恋についても思いを馳せた。いつもフラフラとしてつかみどころがなく、近寄ってきたと思ったらまた遠ざかっていく。「嫌いです」と言ったら離れていき、「本当は好きだったんです」と気付いた時には、すでに違う人のものになっていた、彼のことを。

 猪々子は昔、まだ今よりほんの少し幼い頃まで、恋とはキラキラして、いつも楽しく心が弾むものだと思っていた。好きな人がいれば世界はすべて自分の味方になり、その人がいれば己はなんだってできるのだと信じていた。

 だが、突きつけられたこの痛みが本当の恋だというのなら、猪々子は今まで一度も恋なんてしてこなかったのだろう。恋だと思っていたものはただの思い違いで、ときめきも喜びも、真にはそこになかったのだ。

 恵々子もそう思い至ったのだとしたら、それはなんて真実なのだろう。そして、なんて痛いのだろう。猪々子の程度でも身が張り裂けんばかりに傷付いたのだから、恵々子の痛みはそれこそ計り知れない。彼女が自分にこのことを打ち明けるまでにどれほど泣いたのか、知る由もない。認めるのは簡単だが、諦めるのはなかなかどうして難しい。


 恵々子の薄い唇に、琥珀色の液体が吸い込まれていくのを見て、猪々子はようやく自分にも同じものが出されていたことを思い出した。カップのデティールを確かめるように手を這わせ、持ち上げる。もう湯気は上がっていない。初めてものを口に入れるようにおそるおそる流し込むと、ほんのりぬるい液体が喉を滑った。

「あったかいね」と猪々子は言った。

「うん、あったかいわね」と恵々子は言った。

 そして、恵々子の方が先に泣いた。

「辛いね」と猪々子は言って、涙を零した。

「辛いね」と言う恵々子のそれは、もはや言葉になっていなかった。

「辛いね」ともう一度呟いて、猪々子はカップを置いた。




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