忍であると共に、一人の健康優良児でもある。

 たとえ将来あらゆる場所で隠密の策を講じたり、標的確保や情報収集を遂行する一人前の忍者になる者だとしても、元を正せば一人の人間でしかない。上級生になればなるほど、そこに忍としての責任感やプライドや向上心を上乗せし、忍者としての土台を作り上げていく。それはあくまで“大人になるための成長過程”でしかないのだが、学校というのは基本的にそういうものを身に付ける場所だ。この忍術学園とて例外ではない。

 この学校に通う忍たまたちは、日々忍者になるために忍術を学び、体術を学び、座学を学んで、己を磨いていく。そうやって少しずつ毎日を越えていき、最終的に六年間で残ったのはたったの六人だけとなってしまった。


 七松 小平太(ななまつ こへいた)は、周囲から「暴君」と恐れられる人物である。良く言えば素直でパワフル、悪く言えば空気の読めない猪突猛進男。「いけいけドンドン」と声を張り上げ、人間の限界を超えた鍛錬に励み、さらには周りを巻き込んで一騒動巻き起こしてしまう、そんな男だ。それでも、小平太の邪気のない笑顔や、大柄で明るい性格は、多くの人間から好かれる要素でもあった。そのため、小平太の周りにはよく人が集まった。小平太自身、友人たちと楽しく過ごす時間は、とても好きだった。

 その日も小平太は、同じ六年生の仲間たちとバレーに没頭していた。小平太はバレーが得意だ。アタックならどんな球だって打てる気がするし、跳躍力を生かして高くジャンプすることもできる。以前、砲丸の鉄球をアタックした時には、うっかり手首の骨をポッキリやってしまった時もあるが、それはこの際なかったことにしよう。とにかく、小平太はバレーが得意だった。

 図書委員長、中在家 長次(なかざいけ ちょうじ)の絶妙なトスが上がる。それは見事に小平太の頭上へ上がり、彼はすぐさま身構えた。

「ナイストス、長次!」

 叫びながら地面を蹴り、一気に飛び上がる。ばっちりとボールを射程圏内におさめ、小平太はニッと笑った。

 真下では保健委員長、善法寺 伊作(ぜんぽうじ いさく)がどこか青ざめた顔をしてそれを見ている。それもそのはずで、伊作は小平太の真正面に立っていた。小平太がとんでもない方向に打ち損じないかぎり、彼の弾丸じみたアタックは、そのまま伊作に向かって突撃することになる。小平太がアタックを失敗することはそうそうあることではない。何故なら、小平太はバレーが得意だからだ。おまけに、そこにいるのは不運の中の不運と呼ばれる不運な男、善法寺 伊作なのだ。うまい具合にボールが避けてくれる確立など、一年は組の投げた石が味方側に当たらない確率と同じくらい、低い。

 しかし、そんなこと露ほども気にかけない小平太は、高く高く飛び上がり、ついでに見事な空中宙返りを決めて、

「大回転アターック!!」

 渾身のアタックを伊作めがけてぶちかました。予想通り、それは伊作の顔面に鋭くめり込み、伊作は後ろにばたりと倒れた。威力のおさまりきらなかったボールは、伊作の顔面を捕らえてからさらにポーンと跳ね返り、ゆるやかな軌道を描いて飛んでいった。


「おいおい、なにやってんだ」

 用具委員長、食満 留三郎(けま とめさぶろう)が呆れたように腰に手を当てた。

「いやー、失敗失敗」

 忍者らしく身軽に着地し、小平太は言った。けろりとした表情には、反省の色が見当たらない。

「うまい具合に伊作にはあてたんだがな」

「全然うまくない!」

 小平太の言葉に、ボールの跡がくっきり付いた顔を起こして、伊作が叫んだ。

「しかし遠くまで飛んでいったな。大丈夫か?」

 会計委員長、潮江 文次朗(しおえ もんじろう)が、ボールの飛んでいった方向に目をやった。全員が同じように、ボールの飛んだ方向に目をやる。その時だった。

 バシャンッと水の跳ねる音。次いで、かすかな女の悲鳴。あとはしんと静まり返り、六年生たちもしんと言葉をなくした。


「おい、小平太」

 静かに呟いたのは、作法委員長の立花 仙蔵(たちばな せんぞう)だった。

「なんだ?」

 相変わらず飄々とした態度の小平太は、のんびりとした調子で言った。

「行ってこい」

「ん? どこへだ?」

「ボールを取りに、だ。ついでになんかしらの被害を被っているであろう女子に、詫びの一つでもしてこい」

 ひやりとするような眼光と口調で、仙蔵は言い放った。常人なら身が竦んで慄いてしまいそうな迫力だが、そこは七松 小平太、効きはしない。

「ああ、そうだな! 取ってくる!」

 何も考えていなさそうな笑顔のまま、頷いた。

 ヒュッ、と六年の輪の中から小平太の姿が消えた。だが、誰一人として驚く者はいない。彼の姿を探してキョロキョロする者もいない。小平太は「ボールを取ってこい」という仙蔵の指示に従って、ボールを回収しに向かったのだ。ひょいひょいと屋根やら木やらに身軽に飛び移り、ボールが飛んでいった先まで移動していることは、この場にいる誰しもがわかっていることだった。



 このあたりだったはずだが……。

 塀の上から地面に降り立ち、小平太は周囲をぐるっと見回した。ぱっと目には、バレーボールらしきものは見当たらない。

 そういえば、水音がしていた。池に落ちたのかもしれない。そう思い、池の方向に足を向けると、誰かの後ろ姿が目に入った。

 桃色の装束――くのたまだ。ボールを見ていないか尋ねようと思い、小平太はその人に近付いた。足音に気付いたらしい相手が、くるりと振り返る。小平太の足がふと止まった。

「お、そのボール」

 よかった、と思いながら、笑いかけた。

「拾ってくれたのか。ありがとう!」

 彼女の腕にはバレーボールが抱えられていた。自分たちのものであるという確証はないが、このタイミングで他の者のボールということもないだろう。小平太はそう決め付けて、彼女の元へと足を進めた。


「ああ、七松先輩のボールでしたか」

 相手の女子が口を開いた。自分は彼女の顔も名前も知らなかったが、相手は何の抵抗もなく自分の名を呼んだ。ぼんやりしながら儀礼的に言葉を紡いだようだったが、愛想のない言い方ではなかった。そのため、小平太は「ああ、そうだ」とにっこり笑った。

「伊作の奴がアタックを受け損ねてな。私が回収に来たんだ!」

「そうでしたか」

 女子は薄く微笑んだ。

 伊作がこの場にいれば、「あんなの返せるわけないじゃないか!」と抗議したところだろうが、いかんせんここにいるのは、人知を超えた体力とパワーの七松 小平太と、何も知らないくのたまだけだった。


 ――と。

 相手との距離が五メートルほどに詰まったところで、初めて小平太はあることに気が付いた。女子の体が濡れている。それも、頭から腰の下まで割合ぐっしょりとだ。ボールにしか目がいっていなかったため、こんなに近くに来るまで気にも留めなかった。

 小平太は鈍感で、能天気だ。

「どうしたんだ? びしょ濡れじゃないか」

 小平太が問うと、彼女は「ああ」と前髪を指先で触った。

「私がここを通った時、ボールがちょうど池に落ちたんです。それで水が跳ねて、かぶっちゃいました」

「何!?」

 なんと。それはつまり、完全に自分のせいではないか。しかし、伊作の顔面キャッチによって威力をなくしたはずのボールがここまでの被害を及ぼすとは、小平太の馬鹿力は並ではない。おまけにこの距離だ。

「すまない! 私のせいだ!」

「そんな、気を付けていなかった私も悪いんです。謝らないでください」

 そう言って、彼女は諭すような笑みを浮かべた。

 どこか希薄な印象を受ける、柔和な感じの少女である。低い身長や幼い顔つきを見ただけで、下級生だとわかる。けれど、落ち着き払った表情や大人びた物言いは、他のくのたまとは少し違うものを小平太に感じさせた。


「どうぞ、ボールです」

 彼女はそう言って、腕の中のボールを小平太に差し出した。

「ああ、ありがとう」

 もう一度礼を告げ、小平太は彼女の手からボールを受け取った。その瞬間、彼はとあることに気付いた。

 ――ボールが濡れていない。

 池にポチャンしたはずの当のボールが、まったく水気を含んでいない。目の前の彼女はこんなにもビショビショだというのに、ボールは小平太の手を離れた時と同じ、さらりと乾いたゴムの感触だ。

 小平太はちらりと視線を上げた。


「……? きゃっ」

 事前動作もなく、小平太は彼女の腕をつかんだ。突然のことに、女子が驚いたような声を上げる。

「もしかして、これ拭いてくれたのか?」

 何も妙なことだとは思っていないように、小平太は普通の調子で言った。小平太は細かいことをいちいち気にしない。

 今さっき、彼女は「ボールが池に落ちて」と言った。間違いなく言った。彼女がずぶ濡れになって傍らに立っていたことからも、それはわかる。なら、何故彼女のズブ濡れの根源であるバレーボールは、こんなにも乾いた触り心地を保持しているのか。考えられる答えを、小平太は相手にぶつけた。

 彼女は面食らったように目を瞬かせていたが、小平太の顔がグッと近付いてきたのに、反射的に唇を噛みしめた。

 女子の全身をまじまじと見る。量の多い髪は、水を吸ってじっとりと垂れ下がっている。きっと平素ならこの髪はもっとふわふわで、軽やかに風に舞っていることだろう。なめらかな頬の輪郭に、濡れた髪が一房、うねるように張り付いていた。水の道筋のように、そこから水滴がぽたりぽたりと零れている。衣服はところどころ水をかぶった部分だけ色が濃くなり、その面積の広さに小平太はめずらしく眉を顰めた。


「このボール、本当はもっと濡れていただろう?」

「え? ……あ」

 小平太の問いに、女子は意味を理解したようで、どこか申し訳なさそうに目を伏せた。

「はい……。差し出がましいとは思ったんですが、きっと誰かのものだろうし、濡れていたら嫌な気分になると思ったので。どうせ私は濡れちゃったし、『いいかな』ってこう、上着で」

「馬鹿ちん!」

 彼女の台詞が終わらないうちに、脳天に小平太の拳骨が落ちた。もちろん本気ではないし、小平太自身かなり手加減したつもりだったが、女子は殴られた個所を押さえてしゃがみ込んでしまった。

「確かにボールは濡れていないほうがいい! だから君の気遣いには感謝する。だがな、仮にもくノ一となる者が、そんなことで服を汚すなんてよくないぞ!」

 足元で悶絶している少女に心配した言葉ひとつかけず、小平太はふんぞり返って説教を始めた。小平太にしてみれば、手加減した時点でかなり気を回したほうなのだ。その後のアフターケアにまで回す気遣いは、大雑把な小平太には残っていない。


 彼女は両手で頭を撫でさすりながら、小平太を見上げた。

 “くノ一だから、服を簡単に汚すのはよくない”。その理由がうまく悟れず、首を傾げる。

「女子は体を冷やしてはいけないと言うだろう。そんな恰好でうろちょろしていたらすぐに風邪をひく」

 その言葉で、彼女はやっと彼の言わんとしていることがわかった。彼は、そういうことを言っているのだ。女だから、水に濡れた衣服や体をそのままにしてはおけない。そんな台詞がこの七松 小平太の口から出てこようとは、人間わからないものである。どちらかといえば、先程の鉄拳のほうがよっぽど女子に対する行動からはかけ離れていたが、それでも彼女は少し意外な気分で、小平太を見つめた。

 実のところ、これは小平太自身の言葉ではなく、保健委員長、善法寺 伊作がふとした時にこぼしたものであった。あれはなんの時だったか。くノたま教室の生徒が、実習で失敗して池に落ちた時であったか。それとも、イタズラ好きの下級生が仕掛けたバケツの罠にくノたまがかかり、その下級生をこっぴどく叱っていた時であったか。なんにしても、“伊作がそんなことを言っていたから言った”。それ以外にたいした理由はなかった。

 少女の持つイメージでは、小平太は『むくつけき肉体派の騒がしい先輩』だった。いつも男ばかりとつるんでいて、女と関わることなどなさそうだし、むしろ必要ないと思っているのではないか。そういった印象しかなかった。そして、それは寸分違わずそのとおりなのだが、彼女に確かめる術はない。ただ「考えていたより常識的な人なのかもしれない」と、彼女の小平太に対する印象が少し変わっただけだ。

 「女は体を冷やしてはいけない」──確かにそうだろう。が、よくよく考えてみれば“女は体を冷やしてはいけない”というのは、どういう概念から来たものなのだろうか。将来的に、女は子どもを産むかもしれないから。そういったことから来ているのだとしたら、生憎彼女にそんなつもりはない。彼女はくノ一としてさほど優秀とは呼べなかったが、おそらく同年代の誰よりも、忍として生きていくことに誇りを持っていた。この先も家庭に入ることはなく、一生忍として生きていくのだろうと思っていたし、そうありたいと願ってもいた。だから彼女は立ち上がり、小平太に向かってなるだけにっこりと笑いかけた。


「気遣っていただいてありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。これでも一応鍛えてますから」

 そりゃあ、毎日厳しい鍛錬や特訓をしたり、本格的な任務さながらの授業をこなしている小平太に比べたら、微々たるものであろうが。

 小平太はじっと彼女を見つめたまま微動だにしない。どうやら彼女のフォローは聞き流されたようだ。ちょっとムッとして睨み付けると、小平太は再びなんの予告もなく、彼女の服に手をかけた。ギョッとしているうちに、勢いよく上衣をはぎ取られる。あまりの鮮やかな手付きに、呆然としたまま動けない。上衣がなくなり、黒い腹掛けのみになったところで、ようやく彼女の思考回路が結合された。

「きゃ────!!」

 真っ赤になって悲鳴を上げる少女をよそに、小平太は自らが着ていた上衣をバサリと脱いだ。

「きゃ────!!」

 もう一度、彼女は悲鳴を上げる。様々な羞恥と動揺を吐き出すように声を張ったが、混乱した頭が瞬時に冷静になることはなかった。

 目の前で同じ腹掛けのみになった彼が、「ほい」と手中の上衣を差し出す。

「へ?」

 両腕で必死に肌を隠そうとしていた彼女は、小平太の行動に動きを止めた。

「これを着ろ。多少は寒さが紛れるだろう」

 含みのない真っ直ぐな笑顔で、小平太は言った。

 女子は、小平太の顔と彼の差し出す上衣とを交互に見比べ、顔をさらに赤く染めた。

「い、いいです、そんな、お気になさらず」

「む、何故だ?」

 本当に不思議そうに言う小平太に、彼女はなんと言うべきか迷った。

 六年生の彼からそんなことをしてもらうのは気が引ける。それに、男性から服を借りるのははしたないような気がしたし、第一照れくさかった。何が、というのは、まだ幼い彼女の計り知れるところではなかったが。

 ――などと思案しているうちに、小平太は強引に女子の肩に上衣をかけた。有無を言わさぬ手付きだ。彼女は驚いて小平太を見たが、こうなっては突き返す方が失礼かと思い、「申し訳ないです。きちんと洗ってお返しします」と蚊の鳴くような声で言った。小平太は「気にするな!」と、全く気にしていないことがわかる表情で言った。


 はだけた前を両手でかき合わせる。上衣からは、汗の匂いと、初めて嗅ぐ匂いがした。多分、小平太の匂いだろう。たまらなく恥ずかしくなって、彼女は身を縮めた。上衣はとても大きく、丈は彼女の太股ぐらいまである。同年代の忍たまと接する時はあまり思わないのに、今初めて彼女は男女というものを意識した。

 盗み見るように小平太を見れば、彼もやはり自分たちと同じ、黒の腹掛けを身に着けている。けれど、剥き出しになった腕や、広い肩、全体的なボディラインは、明らかに自分とは違うたくましさだった。胸の内がキュッと締め付けられ、燃えるような熱が首から上を焼く。恥ずかしい、と思うのと一緒に、よくわからない感覚が少女の中を支配した。


「な、七松先輩って……」

 不埒なことを考えていることに勝手に気まずくなり、少女は口を開いた。

「全然気にしないんですね」

 小平太は「ん?」と小首を傾げた。

「何をだ?」

「あの、だから……、先輩、女の子を意識したことないでしょう」

 こんなダイナミックなことをやってのけるくらいだ。相手が女であることを気にしているはずもない。おそらく、彼は同性にするのと同じように自分に接しているのだろう。だからこんなに恥ずかしげもない。


 小平太はニカリと、毒気を抜かれそうな顔で笑って見せた。

「そんなことないぞ! 今だってムラムラしてる!」

 一瞬、思考が凍結して、少女は硬直した。爽やかな笑顔で発された爆弾発言を、うまく脳が処理してくれない。見つめる先の先輩は、イメージと変わらぬ無邪気な笑みのままだ。

 聞き間違えたのでは、と思い、とりあえず一歩後退って距離を取る。──が、素早くその距離を詰めた小平太が、先程のように彼女の腕をつかんだ。体が跳ねる。思わず腕を引くが、彼の手はびくともしなかった。


「君、名前はなんていうんだ?」

 小平太は尋ねた。

「……恵々子(ええこ)」

 ついつい、笑顔の迫力につられて名乗ってしまった。

「恵々子か! 私は七松 小平太だ。よろしくな!」

 「知ってます」とは言えずに、彼女は頷く。力強くつかまれた腕に、またしても体が熱を持ち始めた。


 小平太は少女の頬が赤く染まっていくのを、なんとも言えぬ気持ちで眺めていた。

 七松 小平太は忍者の卵である。そして、忍術学園の最上級生で、暴君と恐れられる体育委員長でもある。だが、それと共に一人の年頃の男でもあるのだ。女生徒のしっとりと濡れた肌や、水気を含んで体にピタリと張り付いた服、そこからわかる女の体の丸みに、たまらない気持ちになったりもする。服を脱いだ自分の体を見て顔を朱に染める少女に、もっとそんな顔をさせてみたいとも思う。たったそれだけのことで、自身の中の雄が「彼女の名前を訊け」と命令したりもする。


 忍であると共に、一人の健康優良児でもある。

 とかく、男と女というのは、わかりやすくできている。




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