胸をぎゅっとつかむような、体をふわりと包み込むような、そんな甘やかで強い懐かしさに、

 ――あ、今知っている奴とすれ違った。

 そう、確信めいた、けれどあやふやな感覚を抱いたまま、彼は振り返った。それが誰だとか、本当に知っている相手かなどは特に気にかけることもなく、ただ瞬間的に体を引きつけた引力のまま、そっと首だけを後ろに向けた。

 人通りの多い街路樹を、一組のカップルが歩いている。なんの変哲もない、どこにでもいそうな学生カップル。女の方が、彼の知っている相手だった。青みがかったふわりとした髪が、陽に透けて硝子細工のように輝く。雲間からそっと覗く太陽のように、穏やかで静かな微笑み。華奢な体躯は、しかし背筋をきちんと伸ばして、意志の強さを示している。間違いない。“彼女”だった。


 遠い昔、それこそ気の遠くなるような遥か昔。彼と彼女は愛を誓った仲だった。その頃、世は天下を取るために多くの者が戦をし、多くの命が犠牲となった。彼と彼女はその中で、天下を取るための争いの影の歯車になるべく、現代ではありえない格好をし、ありえない技術を学ぶ場所へ通い、出会った。ふとしたことで顔を合わせ、なんでもないことで言葉を交わし、深い意味はなく触れ合った。それはいつしか淡い恋心となり、燃え上がるような愛の炎となった。川のせせらぎがごうごうとした濁流に変わるように、あっという間の出来事だった。まるで、そうなることが運命であったように、二人は心を通わせた。

 彼はその時、七松 小平太と呼ばれ、彼女は恵々子と呼ばれていた。“小平太”と呼ばれていた彼は、今とあまり変わることはなく、活発で体育会系で、あらゆることを勢いで押し通してしまう強引さを身に付けていた。“恵々子”と呼ばれていた彼女は、物静かで、ひかえめながらあなどれない少女だった。今の彼女がどうなのかは彼の知るところではないが、見たかぎりでは彼女の方も大きく変化してはいないようだ。隣に立つ恋人に向かって、ほころぶような笑顔で話しかけている。春の日だまりのように、相変わらず優しい笑顔だった。

 彼女はきっと彼のことを覚えてはいないだろう。すれ違ったことにも気付いていないはずだ。小平太であった彼だけが、当時の記憶を有していた。おそらく、これはとても異質なことで、それは彼自身が一番理解していた。

 その頃の知り合いで、今までに再会した者もいたし、しなかった者もいる。覚えている者がいたかは、彼自身が記憶の残存について明かさないので、誰からも聞いたことはない。もしかしたら他にもいるのかもしれないが、掘り返すつもりはさらさらなかった。現在の彼は“小平太”ではないし、きっと彼女も“恵々子”ではないだろうから。


『恵々子! 私たちは生まれ変わったらどうなると思う?』

『生まれ変わったら、ですか。そうですねぇ……その時もまた、小平太さんと一緒にいられるとうれしいですね』

『ああ、私もそう思う!』

『ふふ』


 ふと、懐かしい場面が目の前を通り過ぎて、彼は小さく笑った。そんなことを話したこともあったなぁ。幼い頃の夢を愛おしむような気持ちで、彼は回顧した。あの頃願った夢物語は、残念ながら叶わなかった。けれど、それを悔やみはしない。彼は今の人生に満足していた。大きな幸せも大きな不幸も経験しながら、それでもいい人生であると断言できた。彼女の幸福そうな笑みを見るかぎり、たぶん彼女もよい人生を過ごしているようだ。

 ただ、愛した者のその後を知ることは、言いようのないうれしさと寂しさを彼の身に与えた。これだけは、記憶を残していないとわからないものだ。自分の手の中にあったものが、今はバラバラになってあらゆる場所で自分の知らない人生を歩んでいる。前まで友達だった相手が、ある日突然、自分に見向きもしなくなって、別の相手と笑い合っているのを見るような、言ってしまえばそういうものに近かった。けれど、過ぎたこと、終わったことをくよくよ気にしないのは、彼が他人から美点だと称えられる部分であったから、その評価のとおり、彼はその事実をくよくよと気にはしなかった。「仕方のないことだ、細かいことは気にしない!」と、腰に両手を当てて息を吐くくらいで流してしまえた。

 ――ただ、

 ただ、寂しいのだった。彼は彼女のことをたくさん知りすぎていた。笑った顔も、泣く顔も、ムッとした顔も。交わる時に見せる表情の艶やかさや、愛を囁く時にひそめる声の儚さや、自分の背中に手を回す時の繊細さも、

 全部を知りすぎていた。

 彼方の記憶は、まるで夢の中のように曖昧で不確かだが、絶対に真実だという自信が彼にはあった。だから、彼が彼女と愛し合ったこと、ひいては祝言を挙げ、子どもをつくり、その子孫がまだこの時代のどこかに存在しているかもしれないということは、すべて本当のことだと信じていた。だから、別の男に微笑みかける彼女に、少し後ろ髪を引かれる気分になったのだ。


 自分のことを棚に上げてよく言うなと、彼は内心で苦笑した。そして、ありふれた学生カップルに向けていた視線を、自身の進行方向へと戻した。長いように思えた回顧は、実際にはほんの一瞬で、時間にしてみれば三秒にも満たない。彼はその間に、恵々子と呼ばれていた彼女との出会いから、死による別れまでを反芻した。結論として、やっぱりどう考えても当時の自分は彼女を愛していた。大事にして、守って、慈しんでいた。四つ年下の妻が先立つ時には、その手を握り締めてずっと枕元に座っていた。涙だけは見せなかったと思う。彼女は、彼の笑った顔が好きだと言っていたから。最後まで“小平太”は“恵々子”に笑顔を見せ続けた。“恵々子”も、事切れるその瞬間まで“小平太”に微笑んでいた。小平太は恵々子の笑った顔がなによりも好きだったから。そうして、小さな口付けを交わして、小平太は恵々子にこう言った。

『私たちの命は永遠に巡る。輪廻だの転生だのは私にはよくわからん。だが、必ず私たちはまた逢うだろう。その時までしばしの別れだ、恵々子』

 恵々子は微笑み、何度も何度も頷いた。その目尻から、透明な雫が零れ落ちた。そうして、ふーっと長い息を吐いた後、それきり動かなくなった。小平太もしばらく動かなかった。まだ温もりのある彼女の頬に触れ、涙の跡を撫でた。

『長い間、ありがとう』

 ――この時になって、ようやく彼は泣くことができたのだった。


 思い出ともつかない断片的な欠片を一つ一つ引っ張り出し、彼は心の中でこう呟いた。

“すまん。約束は果たせなかった”

 誰も聞くことはない、自己満足とも言える言葉。それは謝罪というより、別れの挨拶だった。

 歩く足を止めないまま、彼は大きく深呼吸する。体内の空気がすべて入れ替わったような不思議な感覚がした。すっと後ろへなにかが流れていって、おそらく心残りのようなものだったのだろう。


 彼は進む。もう振り返りはしない。細められていた瞳は、元の溌剌とした丸さを取り戻して、上を向いていた。足取りは軽やかで、堂々と人通りの多い道を闊歩していく。

 携帯を取り出し、着信履歴から一番多い番号を表示した。なんの躊躇もなく発信を押すと、耳に当てる。

「あ、もしもし? うん、そう。あのさ、今日は早く帰れそうだから、なんかうまいもん作ってくれ」

 輝かしい笑顔で、電話の向こうの相手へと話しかける。前世とは違う、“今”の自分の愛しい相手。守るべき家族。


 会話を続けたまま、彼は空を見上げた。今日はとてもいい天気で、空は高く、青かった。その気持ちのよい青さが、少女の髪色とダブる。ふわりと口元を緩めて、彼は柔らかく微笑んだ。

「うん、ありがとう。愛してるよ」


 君も幸せになってください。




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