ふと覚醒して目を開くと、もう夜が白々と明け始めた頃だった。レースのカーテンから入ってくる明かりは白とも灰色ともつかぬおぼろげさで、時間の感覚を狂わせた。ぼんやりしたまま上半身を起こすと、体と頭がズキズキと痛んだ。体の痛みは床で寝ていたせいだろう。頭の痛みは――

 ふと頬に冷たさを感じて触れると、じっとりと湿っている。肌から水が染み出てくることはないから、これは涙だ。この頭痛は、泣きながら眠った故の後遺症なのだろう。そう判断しながら、亜子(あっこ)は冷たい床にぺたりと座った。今の今まで寝転んでいたはずなのに、フローリングの床はすでに亜子の体温を残してはいない。亜子の体に、昨日までの男の体温が残っていないのと同じことだ。寒いなぁと呟きながら、自分の腕をさすった。


「風邪ひくぞ」

 声のした方を向くと、1DKのリビングの入り口に、久々知 兵助(くくち へいすけ)が立っていた。いつもと変わらない、今からデートにでも出向けそうなきちんとした格好をしている。けれど顔だけはいやにしかめっ面で、微動だにせずこちらを見ていた。

「今何時ですか?」

「4時」

「朝の?」

「ああ」

 よこされた答えは、彼女の中の体内時間と大差なかった。こんな早朝からびしりと整えた久々知の姿に、不思議な感覚を抱いたくらいだった。大体それくらいだろうなと頷いて、次の質問に移る。

「先輩、いつからそこに?」

「少し前に来たところ」

「そう……じゃあ、会ってないんですよね?」

 はっきりと名詞を出さなくとも、彼には伝わっただろう。亜子の台詞が、昨日去っていった男を指していると。久々知は短く頷くと、目線を上げた時には、妙に沈痛な面持ちで彼女を見ていた。

「いい加減、心配をかけさせないでくれないか。これじゃ俺、ストーカーみたいだろう」

「私が先輩を嫌がっていないならいいのでは?」

「そのわりに――」

 吐き捨てるように言おうとした言葉を一度止め、久々知は息を吸い込んだ。軽く唇を噛んでから、

「そのわりに君は、俺を受け入れないじゃないか」

 ひどく暗い目をして呟いた。

 亜子はそんな久々知から目を逸らし、再び窓の方に目を向けた。まだ太陽は昇らないらしい。雨の日のような明るい灰色は、依然としてその色を保っている。

 しんと身に降り注ぐ寒さや冷たさは寂しいというもので、物足りなさと空虚感と共にそこにあった。だが、ここにいるのが自分一人ではないということに対する安心感も微弱ながらあった。それが久々知であれば、好意や愛おしさも確かに付随する。それを表に出して、なのに彼からの好意や厚意を受け入れようとはしないから、彼はいつまで経っても宙ぶらりんなのだろう。先に進むことも後に戻ることもできずに、この狭いアパートの一室に様子を見に来る。それがたとえ別の男のものだったとしても、すぐに訪れる一人ぼっちを見過ごすことができず、お人好しにも手を伸ばすのだ。彼はこの優しさで、ずいぶん損をしていると思った。そして、それにつけ込んでいつまでもはっきりしない自分は、なんて最低なのだろうかと思った。


「また、フラれちゃいました」

「…………」

「今度こそはって思ったのに、どうしてなんでしょう」

 少しの間があった。返答を求めるように振り返ると、久々知は相変わらず苦々しげな顔をしていた。

「そんなこと、俺に訊かれたって困るよ」

 なるほど確かにそうだろう。納得して、亜子は「すみません」と言った。彼女が久々知に投げかける言葉は、普段よりだいぶレパートリーが少ないように思えた。いつも似たようなことばかり言っているように錯覚した。相手の顔色を窺っていると、単調で無難な言葉しか出てこない。自分の声は蚊の鳴くような細い声で、今が静かな時間帯でなければ、彼には届かないだろうなと思った。


「いつも、私は置いてけぼりです。傍にいてくれるのは、久々知先輩だけ」

 笑おうとしたのに、うまく口角が上がらなかった。それは目線も同じで、これ以上彼を視界に入れると泣いてしまうと思った。久々知がそれを望んでいることは知っていたが、迷惑をかけること、ひいては後戻りできなくなることを、亜子はひどく恐れていた。

「『恋の終わりはいつもいつも、立ち去る者だけが美しい』――本当ですね。残される私は、惨めで格好悪い」

 すると、苦虫を噛み潰すようだった久々知の、ふと目頭が緩んだような気がした。

「でも亜子は、どんなにひどい捨てられ方をしても、いろんなものを持ち去られても、追いかけたり焦がれたり泣き狂ったりしないじゃないか。いつだってぼんやりして、ちょっとだけ泣いて、ポツポツと口先だけの後悔を口にして、すぐに忘れる。違う?」

 よくわかっていると思った。さすが、だてに亜子のことを見ていない。

 本来なら、こんなふうに自分のことをよく理解してくれている人と付き合うべきなのだ。外見だけで判断するような男でも、体だけが目当ての男でも、その場しのぎの男でもなく、こういう人と。それはわかっている。わかってはいるが、行動するのとそれとはまた違った。久々知が他の男とは違うから、亜子はこの距離を詰めることをよしとはしなかった。


「私は、久々知先輩を失いたくないんです」

 空気に吸い込まれるように、声が響いた。

「久々知先輩のことを大切に思うから、今の状態を崩したくない。恋人には必ず別れが付きまとう。それが嫌なんです。人間、口でなにかや言ったところで、その時になればわかりません。気持ちは変わるし、時間は思いを風化させます。もし今、先輩が私から離れたとしても、私は『仕方がない』と諦めるでしょう。だって私たちは、ただの先輩と後輩なのだから。でも恋人は違う。私は先輩に捨てられたら、追いかけて焦がれて泣き狂うでしょう。捨てないでくれと縋るでしょう。それで拒否されたら、私はどうすればいいんです? 他のどうでもいい彼氏たちより、私はその方を心配してたまらないんですよ」

 否定や励ましの言葉がたくさん脳裏には浮かんだが、結局久々知の口からは押し殺した溜め息しか漏れなかった。前向きな発言なら、いくらだって紡ぐことができただろう。しかし、亜子の言うことがよくわかるから、彼に為す術はない。久々知だって、いつも懸念している。この潔癖で純粋で美しい少女が、いつか自分の前から消えてしまうのではないかと。漠然としていても、人生とはいつ何が起こるかわからないと知っているから、万が一の事態を考えたりする。もし確信が持てるのであれば、彼は今すぐ彼女をこの部屋に閉じ込めて、毎日その身を犯しながら、己の独占欲を満たすのだろうに。そうではないから、優しい彼は、彼女を自由にしたいと頭を悩ませている。それに、確信した時には遅いのだということを、賢い彼はよくわかっているので、やはりこうしてちょくちょくと様子を見に来ることが最善であると思えた。そして、たぶん最善であった。

 あやふやな関係は、まるで綱渡りのようだ。ピンと張った糸から転がり落ちることが怖いから、久々知は必死に足元を探っている。増えていくばかりの亜子の薬を少しずつ懐に忍ばせたり、彼女に別れの気配が漂えば何時だろうと出向いていったり、その方法は様々だ。石橋は叩いて渡る方だが、これ以上叩くと壊れてしまうような気もした。

 久々知だって亜子だって、好きでこんな厄介な心境になったわけじゃない。ただ似た者同士だっただけなのだ。そして、だからこそ惹かれ合った。


 薄暗い部屋は、重苦しい空気に満ちていた。どうしたら、この状態を打破することができるのだろうか。常に考えては目を背けた。答えは簡単で、あと一歩を踏み出すだけなのに、それができない。

「とりあえず布団で寝た方がいい。なんなら、俺が一緒に寝てあげる」

 軽口にもなっていない口上は、静かな室内でいやに明朗に響いた。




▽中島みゆきの『わかれうた』を聴きながら




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