伊←卯と綾部



「おやまぁ」

 お決まりの台詞は間が抜けていて、感情の振れ幅を感じない無感動なものだった。平らな床を撫でているような、いつ聞いても変わらないトーン。つまり、彼はまったく焦っても驚いてもいないということで、卯子は痛む体もあいまって怒りに打ち震えた。

「綾部 喜八郎先輩……」

 腹の底を震わせて発声したような、ドス暗い声が出た。怒りを押し殺すために声を潜めたのだが、それが余計に彼女の憤慨を露わにしていた。頭上の丸い円の縁から顔を出した綾部 喜八郎は、同じようにまん丸な目を微動だにせず「んー?」と、平素どおりの声を上げた。

「穴を掘るのは個人の自由ですけど、もう少し人のことを考えてからにしてくれませんか? こんなに無作為に大量に掘られちゃ、一つかわしてはまた落ちての繰り返し――」

「君は最近よく落ちるねぇ。保健委員長の善法寺 伊作先輩の不運がうつったんじゃない?」

「話聞けよ」

 めちゃくちゃに怒鳴り散らしたいのをこらえて理性的な対応をしたのに、綾部の方は呑気に関係ない話を持ち出した。どちらかと言えば気性が荒く、物事をテキパキとこなしたいタイプの卯子には、彼という存在はいささか疎ましい部類に入る。実害を受けているせいも多分にあるだろうが。

 マイペースは綾部の性分だ。わかってはいても、こういう場面でそれを発揮されては、ただ質が悪いだけのように感じてしまう。実際、女の子が自分の掘った穴に落ちているのに手を差し伸べもせず、興味深そうにそれを眺めているあたり、いい性格をしているとは言い難い。


「第一、不運なんてうつるものじゃないでしょう。綾部先輩が穴を掘りすぎなんですよ」

「でも、最近めっきり伊作先輩の落ちる回数が減って、代わりに君が落ちる回数が増えたじゃないか。先輩の不運を君が吸い取ってるみたいに」

「だからなんだって言うんですか」

 そういう問題ではない。伊作が穴に落ちる回数が減ったのも、自分が穴に落ちる回数が増えたのも、今は関係ない。ここで重要になるのは、綾部がそこかしこに穴を掘る趣味がどうにも困るということと、後輩の女の子を助けようともしないことと、彼にまったく反省心が見当たらないということだった。腹の中がムカムカとして、唇が震える。本格的に爆発しそうな苛立ちを抑えるように、卯子は唇を噛んだ。


「彼の代わりに不運に見舞われても、君はあの人を好きだと言うの」

 綾部は言った。本題からどんどんとずれている。頓珍漢なことだ。卯子はいっそ疲れたような目をして、逆光になった先輩の顔を見た。太陽の光が眩しい。

「そんなこと、今関係ないでしょう」

 言葉に否定する要素がなかったからか、綾部はわずかに目を開いた。そうして、ゆっくりとそれを伏せた。

「献身的だねぇ。君のそんな気持ちを、先輩はきっと知らないだろうに。いや、知ってても気付かないふりをするかな」

「どうでもいいことです」

「かわいそうだよ。そういう愚直なまでの一途さを、僕なら汲み取りたいと思うけどね。君はもっと他に目を向けた方がいい」

 卯子は盛大に顔をしかめた後、その顔を元に戻しもせずに「綾部先輩って私のこと好きなんですか」と尋ねた。

「いや別に。ただ、叶わぬ恋をしている女の子に同情する気持ちくらいはあるんだよ」

「叶うことを前提に恋なんかしませんよ」

「叶わなくとも、好きになったものは仕方がないということ?」

 そうだと言っているだろう、と言外に込めて、卯子はため息を吐いた。この人と会話をするのは疲れる。わかりきっていることを他人に諭されるのは、かなりの疲労感と不愉快を彼女の身に与えた。


「まず、私がくのたまで伊作先輩が忍たまであるかぎり、そこに特別な関係など生まれないように思いますけど」

「それは将来性を見越して?」

「ええ」

「そんなの卯子さんがくノ一を諦めて、家で先輩の帰りを待つ奥さんになればいい話じゃないか。大体、伊作先輩は忍者にはならないと思うし。医者か、学園の保健医か、どっかの城の医療班あたりでしょ」

「総合的な可能性を考えたらですよ」

「ただたんに、卯子さんが一歩を踏み出すのが怖いだけじゃないの」

 うるさいと叫びそうになるのを、やっとのことで飲み込んだ。奥歯を噛み締めて堪える。卯子が見切りを付けて、諦めて、受け入れて、それでも焦がれてやまないことを、この男はいとも簡単にえぐって見せる。ただの興味本位だというのなら、これほど悪趣味なこともないだろう。そのとぼけた顔で、全てわかっているだとしたら、卯子の葛藤にだって察しはつくはずなのに。普通はそこに触れるものではない。こんなふうに、一方的な尋問で相手を追い詰めるものじゃない。


 俯くと、小刻みに震える拳が目に入った。怒りで震えているのだ、と思った途端、なんの脈絡もなく目から涙がポロリと零れた。予期せぬ事態に、卯子は純粋に驚いた。え、と漏らすと、涙はさらに溢れて頬を濡らした。嗚咽も鼻水もなく、まるで涙だけが自分のものではないように、湧き水のように勝手に零れ出てくる。止めることができない。

「悲しいならやめてしまえばいいのに」

 頭上で小さく呟かれた声は弱々しかった。今日の中で一番感情がこもっていたように思えたが、こめられた感情がなんなのかは解明できなかった。

 ザリ、と音がして、気配と影が消える。仰ぎ見ると、さっきまでそこにいた綾部の姿がなかった。おいちょっと待て、ここから出していけ。心中で毒づいて、そういえばこの顔では外に出られないのだと気付いた。なんの辛さも痛さも感じないが、涙は後から後から流れていて、頬やら顎やらはすでにびしょ濡れだった。こんな姿を誰かに見られたら、それこそ問い詰められて理由を訊かれて、彼女は再び、自分自身認めたくない現実を、誰かに話さなければならなくなる。それだけはまっぴらごめんだった。

 仕方がない。ならば、ここにちょうどいい隠れ場所があることだし、涙が止まるまでの間、忍んでいることにしよう。そこらじゅう綾部の掘った穴だらけだから、声さえ出さなければ、そうそう見つかることもあるまい。諦めて、卯子は穴の中に腰を下ろした。土がひんやりしていて、ぶるりと体が震えた。深呼吸をして、上を見上げる。空は青く、いい天気だ。この分だと今日は雨など一滴も降らないに違いない。

「伊作先輩に会いたいなぁ」

 これだけ穴があるのだから、一つくらいには落ちそうなものだが、未だ伊作が落ちたようなかんじはない。愛する人なら穴に落ちる姿でも愛おしいものだが、それすらも与えてはくれなかった。なにもかもうまくいかないものだ。

 卯子が彼のためにとしていることを、伊作は知っているのだろうか。知っているかもしれないし、知らないかもしれない。もとより、感謝してほしくてしていることではないが、くるくる空回っているという虚しさはごまかしきれなかった。彼が穴に落ちないようにせっせと綾部の穴の場所を確認していることも、そのせいで卯子が穴に落ちる回数が増えたことも、過程からの不可抗力で綾部 喜八郎と交流を持つようになってしまったことも。

 本当は不運になんてなりたくない。二人で幸せになりたいだけなのだ。けれど、唯一それを知っていたのは、あの穴掘り小僧の綾部 喜八郎だけ。泣かせたのも、泣く場所を提供したのも、綾部ただ一人。

 今度会ったら、居心地はよかったですと笑ってやろう。そう決めると、卯子は膝を抱えてわんわん泣いた。




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