妊娠したみたいなの。

 その台詞を切り出せないまま、二週間が過ぎた。


 ふわふわと、白い煙が天井まで立ち込める。換気もされない室内は、すでに非喫煙者にはむせかえるような煙草の匂いでいっぱいだった。ユキは非喫煙者の一人だが、一日の中で一番一緒にいるのが生粋のヘビースモーカーなので、もはやこれは慣れたものだった。それでも、喉の奥がぐるぐるするような不快感は多分にあるのだが、二人のうちどちらも、席を立って窓を開けようとはしない。寒い思いをしてまで、空気の入れ換えをしようとは思えないのだ。ここ最近の急な冷え込みのせいで、人々の動きは格段に麻痺していた。

 鉢屋 三郎は、相も変わらず煙草に火を着けては、どこを見ているともつかない目を壁に向けていた。きっと何も見てはいないのだろう。よく飽きもせずに吸い続けれるものだと、ユキは思った。目線の先は膝の上の雑誌から、彼のくわえる煙草に行って、じりじりとその身丈を短くしていく火種部分に固定された。まるで、鉢屋の寿命と同じように短くなっていく。

 彼の生活態度は、絶対に早死にするタイプのそれであった。近い将来、ニコチンで汚れた肺を綺麗にしてくれる魔法のような治療法でも確率されないかぎり、その肺は元の健康的なものには戻れないだろう。それはユキにも言えることで、副流煙による受動喫煙で吸い込んだ煙は、彼女の肺を黒く染め上げている。診察したことはないが、これだけ毎日この鼻に付く煙を身に纏っていれば嫌でもわかる。これは鉢屋 三郎という男に、ユキという女が染められていることとよく似ていた。不愉快なことだ。


 ユキはそっと自分の腹を撫でた。まだふくらみもなく、ここに新しい生命がいるだなんて信じられない。こんな環境にいても、まっとうに孕んだりするものなのだなぁと、他人事のように感心した。

 生理が来なくなってひと月が経った。そのくらいなら、普通に遅れることもあった。だが、以前、鉢屋に抱かれた際のことを思い出して、まさかと思ったのだ。その時の鉢屋はいつも以上に自分本意で、ベッドの脇に置かれたコンドームに目もくれず、本能のままユキを抱いた。あの一度のことで、と思ったが、確認しておくに越したことはない。半信半疑で買った妊娠検査薬は陽性で、頼みの綱で足を運んだ産婦人科では「ご懐妊です」と微笑まれた。

「どうしたの、ユキちゃん」

 ハッとすると、煙草を指に挟んだ鉢屋が、不思議そうに彼女を見ていた。

「別に、なんでも」

 答えて、ユキはまた目を伏せる。鉢屋は「ふーん」と言ったきり、さらなる詮索をしようとはしなかった。それに安心し、また同時に失望した。問い詰めてほしくないと思いながら、裏側で暴いてほしいとも思った。


 ――煙草、やめないんですか――

 声が聞こえた。自分の声だ。まだ鉢屋とただの先輩後輩であった頃の自分の声。たいした感慨も思惑もなく、ただ鉢屋の喫煙量の多さに眉を顰めて発した言葉。

 ――口が寂しいんだよ――

 ――鉢屋先輩モテるんだから、彼女でも作ってキスしてもらったらどうですか――

 ――じゃあ、ユキちゃんがなってくれる?――

 そんな軽いやりとりから始まった。もう一年になるだなんて驚きだ。飽きたらすぐ捨てる男として有名な鉢屋だったので、これだけ保っていることは奇跡のように思えた。またユキも、いけ好かない奴だとしか思っていなかった相手とここまで続くとは夢にも思わなかった。鉢屋がキスの代わりに煙草をやめなくても、咎めようとはしなかった。ほだされたのだと思う。


 もうすぐ悪阻も始まるだろう。隠し通すことはきっとできない。けれど、ユキはどうしてもそれを鉢屋に告げる気にはなれなかった。お腹の子に悪いはずの煙草も止めようとはしないし、夜は彼に付き合って晩酌もする。食事は相変わらず外食とコンビニ弁当で、カルシウムなんかほとんど摂取してないに近い。妊娠した女性が気にするはずのことを、ユキは気にしないどころか、逆に享受しようとしていた。

 告げる気にはなれなかった。どうせならこのまま、なかったことになればいいとすら思った。そのために、嫌いな煙草も弱い酒も非経済的な外食も我慢した。どうしてもユキには、良いことのようには思えなかったのだ。今まで変わらずそこにあったものが、不確定要素の現れによって崩れようとしている。それはなんだか不吉で、怖いことのように感じた。自分の子どもだというのに。

 けれど、鉢屋がこのことを知れば、おそらくユキと同じ考えにたどり着くであろう。いや、勘のいい彼のことだ。もう気付いているのかもしれない。それでも彼は何も言わずに、こうして紫煙をくゆらせている。だからたぶん、答えは同じなのだ。特に鉢屋は、ユキ以上に排他的で、周りのものに頓着しない。優しいふりをして、眺めて、あとは吐き捨てる。ユキのことをとても好きで、執着して、そのせいで自分の子どもさえ、二人の仲を邪魔するものとして嫌悪しそうなくらいだ。息子に嫉妬するだとか、そういう光景なら容易に浮かぶ。ユキは鉢屋のそういうところを嫌っていて、でもそれをひっくるめて愛していた。

 ――そう、愛していたのだ。ここには、馬鹿な男と馬鹿な女が馬鹿な結果を生み出した。そういう結論しかなかった。


 鉢屋が煙草を灰皿に押し付ける。念入りに火をもみ消すその動作を見つめる。きっと彼はこの後、ずっと紫煙を吐き続けていたその口で、ユキにキスをするのだろう。舐めて、舌を入れて、押し倒して、セックスするのだろう。いつもの流れだ。

 これも、お腹の子のことを思えば悪いことに違いない。だが、ユキは止めないし、嫌だとも言わない。鉢屋と同じで、彼女も本当のところ、この世界に存在するのはお互いだけでいいと、半ば本気で思っているからだ。




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