またしても次屋 三之助(つぎや さんのすけ)が迷子になったと、彼と同じ三年生である富松 作兵衛が騒いでいた。それは誰もが「またか」と嘆息も漏らすような日常茶飯事で、富松自身も「またかよ……」と肩を落としてうなだれるほどのお約束なパターンだった。

 「無自覚の方向オンチ」という異名を持つ次屋は、その名に恥じることなく見事な方向オンチっぷりでいつも周囲を参らせている。そこに同クラスの神崎 左門が加わると、それはもう手の付けられない有り様で、彼らの手綱を握る役目を自然と押し付けられている富松は、その度に不憫な目に遭ってばかりだった。今回、左門は委員会の徴集で室内にこもっていたため、未だにおとなしく学園に留まってくれている。不幸中の幸いと言えばそうだが、それでも富松が次屋を捜索に行かなければならないという事実は消えないため、やはり富松は溜め息を漏らした。

 猪々子(いいこ)が半泣きの富松に「探すの手伝ってくれぇぇぇ」と縋りつかれたのは、ちょうどよく彼女が傍を通りかかったせいもあったろうし、普段からわりと捜索に協力しているせいもあっただろう。もっとも、猪々子は何気なくそこを通りかかったわけではなく、次屋がいなくなったという話を聞いて、わざと富松に声をかけられる範囲に足を運んだのだが。“泣きつかれては、無碍に断るわけにもいかない”──そういう体裁がないと、猪々子は素直に次屋の捜索に向かえなかった。心配しているなんて思われたくないという、妙なプライドがあったからだ。仕方なく来てやったのだとそっぽを向くことが、彼女なりの言い訳だった。


 迷子探しは、二手に分かれて行われることになった。無論、その方が効率がいいからである。しかし、富松も猪々子も、ある程度の確信を持ってこれに臨んでいた。

 ──猪々子が行けば、次屋は自然と姿を現す──。富松が飛び付くように猪々子に協力を要請したのは、元を辿ればこれが大前提にあるからだ。普段は草の根をかき分けなければ見つからない次屋だが、何故か猪々子が捜索に加わると、ひょっこりと顔を見せる。さながら、食べ物の匂いに釣られるしんべヱのように、猪々子の気配に釣られているとしか思えない勝率だった。富松や浦風には「嫌がらせだ」と言われていた。だから富松は、次屋の捜索にはできるだけ猪々子を連れて行こうとするし、猪々子もそれに従った。うれしくないと言ったら嘘だった。そのため、二手に分かれる必要はないのであるが、そこはそれ、考え得る可能性を全て潰すのが忍者というものだ。念には念を入れる。結果、やはり富松と猪々子は、二手に分かれて次屋を探しに行くことになるのだった。


 待ち合わせ場所と大まかな時間だけを決めて、二人はとりあえず反対方向に分かれた。猪々子は裏山の方を、富松は街の方を探すこととなった。

 こうしていると、いつも思い出す。次屋と出会ったのも、彼が迷子になっている最中だった。方向オンチは昔から方向オンチで、やはりその頃も次屋は方向オンチだった。しかしながら、その時は猪々子の方も迷子になっていた。初めて探検に来た裏山で、帰り道がわからなくなったのだ。泣きべそをかきながらひたすら歩いていると、どこからともなく次屋が現れた。飄々とした容貌の、見知らぬ少年だった。だが、衣服が自分と同じ忍装束だったため、忍術学園の生徒であるとすぐにわかった。それも先輩だ。これでようやく帰れる、と安堵して、猪々子は次屋に連れて帰ってくれと頼んだ。快諾されたのはよかったものの、そこは次屋 三之助、女子の手を引こうとも方向オンチは方向オンチだ。いつまで経っても学園へは帰り着けず、最終的には猪々子が帰路を見つけた。なんて役に立たない奴なんだと思った。実際、口にも出した。

「あんた、ぜんぜんやくに立たない」

 入学したてで、まだあまり先輩後輩というものを意識していなかった頃だったので、敬語の使い方も目上の者への対応もよくわからなかった。なんといっても十歳だったのだ。それに、幼い時分というのは、男児よりも女児の方が大人びているものだから、自然と猪々子が手を引くかたちになった。次屋のふらふらとした覚束ない足取りが、とても年上のそれだとは思えなかったというのも理由の一つだろう。次屋は怒った素振りも申し訳なさそうな素振りもなく、「あれぇ?」と頭を掻いただけだった。

 もう当時とは違い、猪々子も謝辞や建て前や作り笑顔を覚えた。だから、それらしく振る舞おうと思えば振る舞うことができるのだが、次屋がそれをひどく嫌がるので、相変わらずぞんざいな態度を変えずにいる。猪々子自身、彼に対して取り繕うことは妙にむず痒い心地がしてならなかったため、利害的には一致していた。


 そんなことを反芻しながら山道を歩いていると、開けた場所に出た。崖の手前で、その向こうに山脈が連なっているのが見える。今いる場所と向こうの山の高さを対比して、結構登ってきたのだなと思った。思い出を遡っているうちに、足は案外進んでいたらしい。

 さて、と猪々子は周囲を見渡した。すると、後ろの茂みがガサガサと揺れ、若草色の忍装束を着た少年が姿を現した。まごうことなく、次屋 三之助その人だった。

「あれ? 猪々子なにしてんの?」

 不思議そうに目を瞬かせる次屋を、猪々子はジト目で睨め付けた。

「どっかの迷子さんを探しに来たのよ」

 次屋は「迷子?」と首を傾げる。まったく、自分を方向オンチだと思っていないのが、一番困るところだ。

「迷子じゃないならあんたはなにをしてるの?」

「いやぁ、図書室に本を借りに行こうとしていたはずなんだけど」

「図書室に行こうとして、なんで裏山まで来ちゃうのよ」

 本気で言っているなら、正気の沙汰じゃない。方向オンチもここまで来るといっそ病気だ。忍者の三病に新しく付け足してもいいかもしれない。こいつはこんなんで本当に忍者になんてなれるのだろうか。呆れながら腰に手を当て、猪々子は「帰るわよ」と言った。キョロキョロと周りの木々を見回していた次屋は、その言葉に反論することなく「うん」と頷いた。そして、当然のように猪々子の手を取る。少しだけ強張る猪々子に気付くことなく、次屋は歩き出した。


 昔は猪々子が手を引いていた。でも、成長するにつれて、体の大きさに違いが出、歩幅に違いが出、歩く速度に違いが出た。だから、手を繋いでも、必然的に次屋が先導することになる。もう小さくはないのだから、わざわざ手を繋ぐ必要もないだろうと思うのに、彼は相変わらず帰る時には手を繋ぐ。まだ自分を幼い女の子だとでも思っているのだろうか。まあ、一つ二つしか年を取っていないから、たいした変化はないのであるが。

 猪々子が自ら手を繋ぐことをやめないのは、以前とは異なる感情で、次屋のことを見ているからだ。湿っても乾いてもいないわりに、固さと大きさだけを重ねていくこの手を、離したくないのだった。

「ちょっと! そこは左じゃなくて右!」

 ぼんやりしている隙に、次屋がまたも無自覚な方向オンチを発揮しようとしていたので、猪々子は慌てて彼を引き止めた。次屋は力が強いので、その彼を止めようとすれば、猪々子は全身を突っ張って踏ん張らなくてはならない。彼女の必死の努力を「ああ、そうだっけ」の一言で済ました次屋は、くるりと足先を右に変えた。手を繋いでいるため、つられた猪々子の体もくるりと回って、あやうく転びそうになった。──いつから、こんなにも力に違いが出てしまったのだろう。明確な時期はわからない。きっと、毎日少しずつ、少しずつなのだ。加算されていくものが、次屋と猪々子では性別故に違う。次屋が女であれば……とは、彼に対する気持ちに齟齬が出てしまいかねないので思わないが、置いていかれることを寂しくは思う。きっと、口に出せる日は来ないのであろうが。

「あ、ごめん。大丈夫か、猪々子」

 転びそうな気配を察知したのか、次屋は素早く振り返った。心配そうに眉を下げ、彼女の肩に手を置く。彼のこういう身勝手には慣れているし、猪々子だってくノ一の卵なのだから、ある程度のことには臨機応変に対応できる。けれど、どんなに方向オンチでも女心に疎くとも、次屋がこういうところで妙に紳士になるものだから、猪々子は彼のことを嫌いにはなれない。毎度毎度、姿を消すことを怒りきれない。

 「大丈夫」とだけ告げて、猪々子は再び歩きだす。我ながらかわいくないな、と思った。次屋も歩きだす。やはり、次屋の体が猪々子より一歩分ほど前に出る。手を繋いでいなければ、もっと遠くなるのではないか、と猪々子は思った。次屋がいつも彼女の手を取るのは、もしかして彼の方もそれを察しているからなのではないか。もしそうだったとしたら、なんて悔しくて寂しくて、優しいことだろう。


「ねえ、あんたさ。ほんとに方向オンチなの」

 涙ぐんだ顔を見られないように俯いて、猪々子は問いかけた。

「方向オンチ?」

「ああ、ごめん。あんた自覚ないんだったね。じゃあ、今から言うことは別に聞き流していいわ。勝手に言わせて」

 先手を打ってから、猪々子は口を開いた。

「あんたのこと、『本当は方向オンチじゃないんじゃないか』って言う人がいるの」

 次屋は、おとなしく彼女の言葉に耳を傾けている。

「あんた、私が探しに行くと、いつもすぐに出てくるでしょう。探してほしくて、わざと迷ってるんじゃないかって、そういうこと言う奴がいるのよ。富松たちは、そんなこと思ってないみたいだけど」

 疑う者は、少なからずいる。猪々子が探しに行った際の次屋の出現率の高さを思えば、致し方ないことかもしれなかった。猪々子自身、こんなにすぐに見つけられることを不審に思うことはあった。


「どうして三之助は、私が探しに行くとすぐに見つかるの」

 最後の方は、ほとんど独り言のような声量になった。言うべきことではなかったかもしれない。嫌な気分にさせたかもしれない。そんな不安が胸に渦巻いて、唇を噛んだ。

 そんな猪々子の不安を絶つように、「んー」と間延びした声が、目の前の背中から聞こえた。

「多分、俺が猪々子のこと好きだからだろ」

 口が大きく開いた。空気が中に入って、ゆっくりとそれを押し出す。その動作が終わると、今度は呼吸がしずらくなった。細かく息を吸っても吐いても、酸素を取り入れている気がしない。何も返せないでいると、次屋はさらに言葉を紡いだ。

「手を繋ぐのは、猪々子に触る正当な理由が欲しいから。外に出て『ここどこだ?』ってなった時に、『猪々子来るかな』って考えるのも嘘じゃない」

 堂々と地を踏む背中は、知らぬ間にこんなにも大きくなった。

「なんていうかな、俺はただ単に、理由がなくても猪々子に触ったり、顔を見たり、そういうふうになりたいんだけど、そんなわけにもいかないだろ?」

「そうね……」

 やっとのことで、猪々子はそれだけ言った。なんのことを言っているのか、瞬時にはわからなかったが。


「俺たちは忍者になるんだし」

「────……」

 爪先からふわっと冷たいものが上がってきて、一気に脳天を冷やした。

「人を殺すし、騙すし、必要があれば盗みもする。学園を出てしまえば、今友達でいるはずの誰かと、刀を交えることもあるかもしれない」

「そう、だね」

 それは宿命とも言える、自分たちの未来。まだ、そんなふうに格好良く割り切れはしないが、実際卒業した生徒たちには起こり得る事象だそうだ。今は仲良く机を並べてふざけ合っている級友が、数年後には命を奪い合う敵になる。もっと言えば、プロになってからすぐに、どこかの戦場で野垂れ死ぬ者だってごまんといる。

 どんなに相手のことを想い合っていても、この手を離さなければいけなくなる日が、必ず近い将来やってくるのだ。

 次屋はそれ以上、何も言わなかった。猪々子も言わなかった。繋がった手だけが、唯一無二のものに思えて、猪々子は声を上げずに泣いた。次屋は振り返らずに、ただ握った手に力を込めた。


 猪々子たちが迷っているのは道ではなくて、もっと違うものなのかもしれない。それはこんな山道のような、ほの暗くて、湿っぽくて、足場が悪くて、誰かの手を握っていなければ泣き出してしまいそうなほど怖い、そんなものなのかもしれない。どこにも帰る場所はなくて、世界はいつまでも獣道のままで、愛しい人とは永遠に幸せにはなれない。それこそ己が選んだ道で、誰を咎めても仕方がないことだ。けれど──

「痛いよ、三之助……」

 か細い声に返す返事は、その手をさらに強く握り締めるものだけだった。




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